11月17日。中岡慎太郎の命日
下僕・藤吉は16日に息絶えた。
中岡慎太郎は一時、焼き飯(焼きおにぎり茶漬け)を食すほどだったが
17日、岩倉具視に後事の伝言を託し逝った・・・
改めて彼の行った数々に偉業をたたえ、合掌したい・・・
僕も実際にお会いしたことがあるのだが、前高知県佐川町・青山文庫館長(現・名誉館長)の
郷土史家・松岡司氏は現在、たくさん出版されている龍馬本の中岡慎太郎に関する記述の多くを
書かれていて「幕末維新の最大の功労者と言っても過言ではない」「維新後の活躍を最も見てみた
かった人物」と最大級の評価をされている。
僕も当然そうなのだが、まだまだ世間への周知は物足らず、これからの課題とも言える。
僕が見たかったのは慎太郎の行政官としての姿だ。
彼には、北川郷のやせた土地に暮らす農民たちの生活をどう成り立たせるかと言った困難な
治政を行う庄屋としての原体験が、幕末での志士活動につながっていた。
もし彼がこの日井上聞多のように蘇生したとしたならば、同志だった板垣退助の言葉にもあったが
「大久保利通と並ぶ参議になっていただろう」
脱藩後に故郷に送っていた慎太郎の手紙の多くには常に、北川郷の農民の生活を心配する文言があった。
もっと国民の目線に立った施策に向かっていたのは間違いない。
新政府の二枚看板の木戸・大久保は協調できたらいいものが、反目する一方だったし
「征韓論」(と言われる)での政変でも、その存在があったならどう変わっていただろう。
岩倉・三条・大久保・西郷・木戸・板垣ら、のちの明治新政府首脳たちを幕末時に結びつけたのは慎太郎の功績が大だ。
井上・伊藤・山縣らは、高杉とさしで話のできた慎太郎には頭が上がらず勝手な事はできやしない。
そして洋行を体験して重みを増した慎太郎がいたならば、この手の周旋には最も長けていた手腕を持って穏便に収めていただろう。
ましてや敬愛する西郷を死なせることなどできなかっただろう・・・
確かに彼は新しい国家に必要な人物だった。
収まるべきポジションがあって、その席には変わる人材がいなかった。
この日、大事な何かが無くなってしまったのだ。
日本にとっても大きな損失だったと言える。。。
改めて、冥福を祈りしたい。
ありがとうございます^^たいへん楽しかったです^^
私も思いもかけず「慎太郎扮装」をしたりして・・・
その姿で「エノカマさん・中岡ファンブロガーさん・北川村の方々」と
一緒に墓参したかったです(涙
それのタイミングがあわず、すみませんでした><
急ごしらえの扮装でなんだか 変だったかもしれませんが(笑
気分は最高でしたよ~~♪こんまい竜馬さんに感謝でした^^
慎太郎扮装・・・続けますとも(笑
どうぞ、今後ともよろしくお願いいたします♪
ありがとうございました♪
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(わだん さんへの返信でした!)
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