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エノカマの旅の途中

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肥前佐賀早回り~佐賀藩と適塾門下生

幕末佐賀藩の明君で知られる鍋島直正(閑叟)は十七歳で家督を継ぎ、藩主になるために初めての国入りの途上
藩への借金返済の催促を求める商人らによって行列が止められたと言う逸話(よく似た話は各地に残ってはいる)があるほど、藩財政は危機に陥っていた。

以降、衝撃を受けた閑叟は藩政改革を行い役人を五分の一に削減、農民の保護育成、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぎ藩財政を一代にして立て直した。
一方で地理的に長崎に近いため、従来より幕府から福岡藩と1年交代での長崎警備を命ぜられていたが
フェートン号事件(→こちら)等もあって外様ながらも外国警備を名目に、長崎での海外情報や技術の習得に努めて、藩内でアームストロング砲に代表される近代兵器を作れるほどの技術力を持つようになって軍事力の増強を図り
のちの討幕戦~戊辰戦争にもその動向が局面を左右するほどの影響を持った。
その財源は地の利を生かした長崎からの輸出貿易によって、もたらされた物も多かったと言う。
一般に開国により景気が悪化したと言う世論の多い頃(だから攘夷論も高まった)に実際に開国による産業振興・貿易にて、その効用を示した優れた先進性を持っていた。
藩は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼・加工技術、大砲、蒸気機関などの研究開発を行い
幕末期における最も近代化された藩の一つとなった。

その精錬方跡地(城の城西・長瀬町。築地反射炉が復元されている)
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その精錬方主任となって理化学研究や海軍創設の指揮を執ったのが佐野常民である。
藩の侍医でもあった伊東玄朴(のち幕府奥医師も勤めた)や長崎・江戸にも遊学し蘭学・化学・物理・
冶金等あらゆる工学知識を学んだ。
また、嘉永元年(1848)には蘭学のメッカである大阪の適塾にも学び医術も修めている。
この適塾の縁から明治10年(1877)西南戦争の最中に、同窓である高松凌雲の箱館戦争での
精神を持って橋本左内の弟である綱常らとも協力、戦争負傷者を敵味方なく救護する博愛社を設立し
のちに「日本赤十字社」と改称した初代社長に就任した(橋本綱常は初代赤十字病院院長)

嘉永五年(1852)にはこの地で反射炉を稼動させる。嘉永六年(1853)に幕府が大船建造の禁を
緩和するとオランダに軍艦を発注する一方、領内の筑後川河口付近の早津江(佐野常民の出身地)
に設けられた三重津海軍所を設立。
常民はその責任者ともなって造船にも着手し、日本最初の蒸気船「凌風丸」を進水させた。
維新後は前記の赤十字社事業や内国博覧会の開催など、工部畑も越えた幅広い活躍を見せた。


先取性に富む佐賀は常民を含め、長州藩や洪庵出身地の岡山に次ぐ人数の34人の適塾入門者があった。
宮田魯斉ら数人は常民と同じ年に入門しており、この時の入門者の多くは藩に帰って閑叟の代に
設立された「佐賀藩医学校」(現・佐賀県立病院好生館)に迎えられた。
そしてこの好生館でも、種痘事業が行われた(→記事
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閑叟は民政にも力を入れ、種痘事業にも意欲を見せた
そこで藩の侍医でもあった伊東玄朴の建言により、出島出入医の楢林宗建を通じた牛痘苗の輸入を
当時の長崎オランダ商館長に依頼し、嘉永2年(1849)7月に日本で初めて成功する。
楢林宗建は息子・建三郎に接種を行い、善感を確認した。
そして閑叟も率先して実子に接種を行わせた。
のちに一時、停滞する種痘事業(牛になるとかの流言)を考えると、実に新しい優れたことの導入に意欲的であり
従来の主観に捉われない閑叟と言う人物像がうかがえます。。。

この輸入計画は賢侯の一人・松平春嶽のいた福井藩も意欲を見せていたが、佐賀が一歩先んじることとなった。
この牛痘苗が大坂を経て全国に伝わり、緒方洪庵の種痘事業も本格的に広がりを見せることとなるのだ。
by enokama | 2009-09-20 23:37 | 筑後・佐賀藩 | Comments(0)