エノカマの旅の途中

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長府を訪ねる~功山寺の五卿

(功山寺過去記事→こちら
朝廷内の主勢力を握っていた長州勢と、その関係の深い尊皇攘夷派七人の公卿たちが追放された。
いきおい七卿は長州に下ることとなり、三田尻英雲荘の大観楼に落ち着く(のちに二人減り、五卿に)
それまで付き従ってきた衛士たちは、隣接して設けられた招賢閣と呼ばれる会議所に入り 
それを慕う各脱藩の志士たちもぞくぞく集結し、京都での尊攘派の本拠が移転した形で
一大拠点の様相を呈した。


やがて長州は禁門の変(招賢閣の脱藩浪士たちの犠牲も大きかった)関門海峡での四カ国艦隊
の砲撃と立て続きにダメージを受け、引き続き幕府は征長軍を送る動きを見せる。
9月25日。家老以下政府員は出頭して敬親父子の居館で対策の御前会議を開いた。
俗論党は「御家のため恭順を表すより外に途なし」と論じ、井上聞多はに武備恭順を主張し
争論は正午を過ぎた。
敬親は一旦は「武備恭順」の方針をとることに決を与えた。よって翌日に末家およびその家老を召して
防長の国論を一致さすこととし、薄暮に退散した。
井上は、なお敬親に召し留められて明日の手順等について諮問させられたが、夜に入って湯田の自宅
に帰る途中袖解橋付近で、保守派寄りの撰鋒隊・児玉七十郎ら数人に襲撃されて、文字通り瀕死の
重傷を負った(所郁太郎が救った話は有名)
また26日の明け方に周布政之助(麻田公輔)も時勢を悲観して、自刃して果てている。

迫りくる征長軍の圧力に対し、藩政は恭順を唱える俗論党が握ることとなり
その降伏条件として、山口城の破却・三家老の切腹・四参謀の斬首、毛利候父子の伏罪書提出
と蟄居謹慎を受け入れた。
後、残る条件は五卿の第三国への動座(九州五藩へ。実際は福岡一藩が引き受けることとなる)
終了しだい征長軍を解兵、戦わずして撤兵し寛大に長州処理を済まそうと、征長総督府は考えていた。
総督の尾張候・徳川慶勝は元来ハト派であったし、参謀・西郷隆盛も従来の「公武合体」から考えを変え
幕府を見限りつつあり、今後共に行動すべき選択肢に長州も含まれないかとと模索を始めていた。

しかし、尊攘のシンボルとしての「五卿」の動座により、過激尊攘派と切り離すこのの動きには
当然、脱藩浪士も多く含む各諸隊の反発を呼び殺気立った雰囲気となる。
そんな中、諸隊の多くと五卿はこのころ山口湯田にいたが、俗論党政権となった萩本藩から
「諸隊解散令」が出たこともあり、いわゆる正義派の多い支藩・長府藩への移動を決めた。
11月17日。長府・功山寺に五卿は入り、奇兵隊・遊撃隊・八幡隊と言った約800人の諸隊も随行する。
長府藩も正義派にあたる報国隊が警護に加わる。
報国隊は奇兵隊同様、一般庶民の割合が高かった部隊である。

この「五卿動座」には、「全国一和」を唱え長州救済に動いた藩主・黒田長溥の意向を受けた
福岡藩が積極的に乗り出す。
家老・加藤司書を始め、筑前勤王党を中心とする面々は長州へ、幕軍総督のいる広島へ。
また、尾張の意向もあって寛典策の思いのあった薩摩・西郷隆盛との交渉へ
と藩を挙げての活動となる。
11月終わりには喜多岡勇平ら3人が、功山寺の五卿に拝謁。
しかし「諸隊解散令」が出されて、五卿もいなくなってしまうとなると、身の拠り所がなくなってしまう者も多い。
続いて「五卿送迎」の藩命を受けた早川勇(養敬)は諸隊の陣所で「五卿は朝廷を補佐する正義
の棟梁であり、私有すべきではなく天下の正義である。藩候を取り込んだ俗論党軍と諸隊が対陣する
とすれば五卿が朝廷に背くこととなってしまう。また、長州の正義が伸び五卿の復職を望むところである」
と決死の説得を試みるが、鉄砲を持って取り囲まれたり脅されることもあって、応じる気配はまったくない。

しかし、このころから早川は強力な同調者と行動を共にすることとなる。
土佐脱藩・石川清之助(中岡慎太郎)である。彼は「薩長融和」の意を十分汲んだ上で「西郷や福岡藩士の
気持はまったく長州を窮地から救い、五卿の安全を保護する目的で他意がない」と諸隊の反発を押さえつつ
周旋に回り、また早川の命が狙われているとなると機転をきかして彼の身を守った。
そして、12月4日には「西郷の真意を問いたい」と滞在地の小倉・薩摩下陣に赴く際は、関門海峡の
長州関係者の渡海が禁じられていたこともあり福岡藩・早川勇の従者、寺石貫夫として行動した。
西郷との対談は「五卿動座と征長軍解兵は同時に行われるように努力する」との程度に留まったが
西郷を刺殺する覚悟もあったとされる寺石は説伏させられ、西郷も「すこぶる勇者と見えた」と評している。
この後、西郷と慎太郎は同志として協調して行くきっかけとなった。
そしてこの帰り、下関まで一緒に同行して送って行ったのが吉井幸輔である。
薩摩で一番早く、薩長融和に動いた人である。

そして一週間後の11日(とされる)には西郷・吉井・税所篤が下関に渡り(西郷らしく護衛も付けなかった)
稲荷町妓楼・大坂屋にて(対帆楼)高杉晋作との対面を果たしている(秘密会合なので文献が残っていない)
とも言われる(会ってない説も多い)
対談は5分ほどで高杉は去ったが、引き続き西郷、早川、慎太郎らの間で「五卿動座」と「征長軍解兵」について
諸隊も大筋で認めた上での方針が定まった。
「征長軍解兵」は先行して、五卿の筑前渡海承諾の書面を持って、西郷の非常の決意を持って16日に決定。
暮れ27日には全国三十六藩の兵は撤退した。
のちに慶勝は弱腰と批判されることとなるが、西郷は押し切った。
幕府の弱体化・求心力の低下は目に見えていたのだ。
「五卿動座」は、萩本藩との調停を条件に、三条の側近中の側近である衛士の土佐浪士・土方楠佐衛門
(久元)らは慎重論を出していたが、月形洗蔵らの福岡藩を挙げての誠意に筑前渡海を決定。
年明けて1月14日に動座がなった。

一方、高杉晋作は正義派の勢力を回復すべく、やがて長府・功山寺に五卿拝謁のあと
「馬関新地会所襲撃」(萩本藩直轄地にある出張所)にて挙兵!
翌年1月には俗論派軍との内訌戦に勝利をもたらすこととなる。
その日は解兵決定と同じ12月16日。五卿動座の決定事項が知られると当然、諸隊にも妨害
する者も現れただろう。そして、五卿の福岡藩での保護も決定した・・・
この絶妙なタイミングでの決起であった。。。
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Commented by わだん at 2009-07-15 21:04 x
今朝拝見しようとしたらサーバーメンテナンスかなんかで、みれませんでした・・・

功山寺の「五卿の間」っていつも見物できるんでしたっけ?こないだも行きそびれてました。
Commented by enokama at 2009-07-15 22:36
>わだんさん
以前あった料亭が撤退して、現在「五卿の間」は拝観料300円で
見られるようになってます。
Commented by ji5isl at 2009-07-16 00:00
昨日の「龍馬伝」出演者の追加発表ですが、慎太郎の名前が
まだ出ません。
絶対NHKはおかしい。
Commented by enokama at 2009-07-16 00:41
>ji5islさん
今日の記事にも書いたけど、多分後半のキャスト発表はまだでしょう
(篤姫の時も岩倉具視はなかったし)
龍馬は「五十人組」の時には、すでに脱藩していたし慎太郎との
縁はそれ以降だったってことでしょう。
僕はキャスト的には慎太郎より、後藤の方が気になっています(笑)
by enokama | 2009-07-14 23:48 | 長州藩 | Comments(4)