三田藩~九鬼水軍の末裔
宝塚から北へJR福知山線沿いに上がったところで、さらに青山家篠山藩、織田家柏原藩と続いています。
戦国時代、志摩半島で「九鬼水軍」と恐れられた九鬼氏は、江戸時代になって海のない内陸の2藩
(三田と丹波国綾部)に移封されてしまいます。
しかし、その進取性に富んだ藩風は3万6千石の小藩ながら代々伝えられ
幕末には川本幸民、白洲退蔵、小寺泰次郎と言った人材により、兵の洋式化・蘭学の振興が
図られて、維新後にも実業界に多くの人材を送り出しました。
城跡とありますが、本格的な城はなく陣屋でした。
三田大池。一応、堀的な役目もあるそう。
水軍時代を知る藩士たちが船を浮かべて往時を懐かしんだとか・・・
上記の古地図で、池の南にある正方形な町割りが武家屋敷群で
現在「屋敷町」と呼ばれ、町割りが残りわずかながら面影が残っています・・・
九鬼家住宅
元藩家老が、明治初期(8年ごろ)に建てた疑洋風建築で和洋折衷の建築が特徴で
2階のバルコニーに特徴があります。
この住宅自体常時公開でなく、2階に上がれるのも年に数回だそうなので行く時は確認が必要です
(今回は2階には上がれなかった。次は4月7日だそう)
次は最近、有名になった人物のゆかりの地を訪ねます!
法務局へ行く用事のついでにサボリつつなので三田城跡と三田大池しか見れなかったけど、次は屋敷町も見てみたいと思ってます。
村上と並んで戦国最強の水軍とまで言われた九鬼氏が関ヶ原以後、家康に海のない三田へ飛ばされ大池で船を浮かべてたのかと思うと、改めて徳川への怒りが湧いてきますね(笑)
日記に書こうと思ってたんですがここで書いてもらったのでちょうどよかったです。
僕は地元なんですが、ほんと最近までしっかり回ったことなかったです(苦笑)
意外に城下町の体裁が残ってるのは新しい発見でした。
九鬼家住宅の係員の方にいろいろ話し聞けたんですが、もう少し早く
「九鬼家・白洲次郎」で城下町の町おこし的な動きがあったなら屋敷町の古い建物も
もう少し残ってただろうし、残念だとも言われていました。
三田ネタ、もう少し載せます。また、散策の参考にしてください!
写真を整理していたところ、明治~大正~昭和の写真と絵葉書が出てきました。私の先祖は江戸時代から三田に住んでいましたが、私は三田に住んだことはありません。どんなところか少し調べてWEBで古写真を残そうかと思い、初めてのHP作りに四苦八苦しています。
分かったことは三田の歴史は意外だったな、ということでした。福沢諭吉が出てくるなんて思いもしませんでした・・・・
川本幸民や近隣の名塩から緒方洪庵夫人が出たことも大きいでしょうね。
中々、三田の幕末維新史も面白いです。
地元の篠山は城は立派なんですが、あまり面白い話はないし、江戸時代も圧政みたいな感じでも一つなもので・・・