エノカマの旅の途中

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弘道館と諸生党

藩校の弘道館は斉昭の藩政改革の中で疲弊した農村復興と並ぶ大きな事業であった。
その施設が偕楽園と共に水戸の大きな観光資源となって、現代も恩恵をもたらしている。
三の丸の重臣の住まいを移動させた上で設置されて、孔子廟や鹿島神社も分祀され
天保十二年(1841)に仮開館し、正式開館は安政四年(18屋かしま57)五月であった。

三月は梅まつりの時期であり、偕楽園の臨時駅も開設されて一年中で一番賑やかな時期かもしれない。
なぜ梅なのか? そのこともこちらの碑に書かれている(種梅記碑→こちら
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八卦堂内には弘道館記碑が置かれていて、こちらも空襲の際に堂は焼けたが碑は守られた。
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東日本大震災でも被災したが修復された
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# by enokama | 2018-04-21 17:17 | 歴史連載 | Comments(0)

水戸城址

水戸城は東日本に多い空堀と土塁の簡素な城であった。
藩主が基本、江戸定府であるという事情もあったようだ。
西側から弘道館のあった三の丸(茨城県三の丸庁舎等官公庁街)、二の丸(水戸三高他)、本丸(水戸一高)と空堀を挟んで構成されている。
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三の丸の西には空堀が残っている
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# by enokama | 2018-04-20 18:16 | 歴史連載 | Comments(0)

偕楽園の梅と石碑

偕楽園は天保13年に徳川斉昭によって開かれた公園。
藩校の弘道館が「文武修業」の場であるのに対し、その付属施設として、修業の余暇の場として設けられたのである
ちょうど水戸中心市街地は那珂川と千波湖の間の台地を水戸駅から上っていくような地形なんだけど
その千波湖を臨む景勝地に庶民にも開放する目的も持って、地形を生かしたつくりがされている。
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# by enokama | 2018-04-19 11:21 | 歴史連載 | Comments(0)
茨城県立歴史館は前回も行ったのですが、古代から戦国時代の佐竹氏(徳川時代は秋田へ移封)、水戸徳川家、そして近代へと総合的な資料館であります。
展示としては佐竹氏の戦国時代の推移もよくわかるし、江戸時代の水戸藩の郷校(庶民向けの教育機関)は水戸領民の意識の高さにつながっているし
(このあたりは長州の学校の多さにも通ずるものがある。ただ幕末の動乱期には意識の高い農民が騒乱に参加する割合が多くなって、犠牲数も多くなった)
当然、斉昭(烈公)時代の国防意識の高さや、光圀(義公)以来の「大日本史」の継続した編纂での文化水準と言うのは、よく評価される幕末期の長州藩の動きに対して常に先行するものであって
松平慶永に代表されるような賢公と呼ばれる諸侯や吉田松陰、西郷隆盛や橋本左内と言ったビックネームたちも範としたものでありました。
ほんとに水戸藩をやらなあかんかなと思うんですが、しっかりとわかるには10年ぐらいどっぷりとやらないとダメかなとも感じてます。
のちに「天狗党」の一件にもあるように、水戸藩は酷いことになってしまって人物が枯渇し、埋没してしまい
明治になっての水戸志士らの顕彰も香川敬三や田中光顕あたりに限られたのではないでしょうか。
いわゆる「水戸学」も第二次大戦敗戦後の現代ではなおさら否定され気味になっているようだし、本当に残念に思います。。。

展示の見物としては長州藩の松島剛蔵・桂小五郎と水戸藩の西丸帯刀・住谷寅之介らの間で連帯して行動することを約した「成破の盟約」の書状は
前回もあったので、ほぼ通年展示されているのかもしれません。
二階には幕末水戸藩の重要人物たちのパネルも展示されていて見物であります。


展示解説>>
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# by enokama | 2018-04-15 23:02 | 歴史連載 | Comments(0)
しばらくは先月に行った水戸関連の投稿をしたいと思います。
第一の目的はこちらで前回は徒労に終わったんですが、今度こそ行くことができました!

交通は茨城交通のバスが水戸市内から一時間に一本ぐらいあって40分ぐらいかかるでしょうか。
正直、遠方からの人間からしたら遠く思えたりするんですが(今回も前回も水戸駅で10分以上遅れてきた・・・)
実はこの地に明治維新の資料館があるのは、この茨城交通が関連しているのです。

例のキャンプ場はまだ寒いけど、休日でもあっていくつもテントがありました
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# by enokama | 2018-04-14 08:46 | 歴史連載 | Comments(2)

桐野作人「龍馬暗殺」

慶応三年九月に木戸孝允から坂本龍馬に宛てた書簡の原本が見つかったそうです。
色々とくぐってみたんですがこの記事が一番紹介としてはいいかなと思います。
多くの新聞記事で書かれている倒幕ではなく「事態によっては薩長と同時に行動する覚悟を決めろ」ってことを土佐藩重臣の同志に働きかけたってこと。
「廃幕」から王政復古っていう流れは山内容堂も決断したことであり、後藤が西郷に約した大政奉還建白と同時の土佐藩率兵は「兵で脅すは卑怯」として容堂は認めていなかった段階でありました。
(ライフル銃持ち込みの経緯→その1その2

この記事で肝要なのは、後世における龍馬のイメージが「非戦論者」だの「生きていれば平和革命が可能」だったとか言えるのってこと。
暗殺の二月前のものだからね、そんなに簡単に変わるもんなの?
武器持ち込んで「戦う覚悟を持て」ってのは慎太郎同様だし、武器を与えていながら鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に至る事態になって
「龍馬は戦争を望んでいなかった。止めることができた」とか、暗殺がなければ戦争にならなかったとか、全くなりたたないわけですね。

よく武力討幕論者である薩摩の西郷大久保や中岡慎太郎と龍馬が対立して、むしろ龍馬が慶喜側に立っていたような解釈ってのも何なんでしょうか。
しばらく経つんですが、何度か講演等でお話も聞いた桐野作人さんが「龍馬暗殺」の決定版ともいえる新刊を出されました。
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# by enokama | 2018-04-13 17:08 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
わかやま歴史館で三月に幕末の勘定奉行だった茂田一次郎の展示があったので行ってきました(終了してます)
この施設は和歌山城下にごく近年にできたもので、博物館の陳列保管にもいろんな規制が出てきたので(いい方向と思います)
最近は保存建築(城や御殿、屋敷)の中に展示されていた史料等は、空調等の整った別棟(展示をしなかった箱館奉行所だったり、柳川や高知のような)に新たに展示されることが増えているのでこちらもその一環かと思います。
天守閣との共通券もあるし、こちら単独では100円の入場料があって同建物には観光案内所と土産売り場も入っております。






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# by enokama | 2018-04-05 10:48 | 歴史全般 | Comments(0)

泉涌寺と皇室

「京の冬の旅」の公開で泉涌寺に行ってきました
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今回は舎利殿の公開で孝明天皇と皇女和宮の寺宝が展示されておりました。
鳴き龍もいい音を出してましたよ!


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# by enokama | 2018-03-26 12:09 | 私の好きな京都 | Comments(0)

堺台場跡と旧堺燈台

2月のことになりますが、堺に「堺事件150年」の展示があって行ってきました(→こちらに追記してます)
そのあとに堺旧港から堺南台場跡〜旧堺燈台と歩いてきました。
1月に枚方で「台場」についての講座(高槻市立しろあと歴史館・館長 中西裕樹氏)があり、この堺台場に関しても解説がありましたので合わせて紹介します!

旧堺港を挟んで南北二箇所の台場があって、嘉永七年(安政元年・1854)のプチャーチンの摂海侵入(→こちらこちら)と言う事態から幕府直轄地であり危機意識を持った堺奉行からの幕府への上申も契機となって、翌年にかけて北台場がまず完成し、安政五年に南台場が完成した。
当初は筑後柳河藩が警衛を命じられたが、のちに彦根藩が担当。
井伊大老暗殺後の失墜からの回復を図った彦根藩のやる気もあって、それまでは方形の土塁囲みのみであった(北台場は南北90m・東西70mのコの字型)南台場は石垣・堀も設けた本格的な稜堡式砲台に強化された。
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# by enokama | 2018-03-22 22:59 | 大坂発見 | Comments(0)
明治150年ですが、相変わらず「明治維新否定論」やら、そこから現代の政権批判やら
いい著作の研究書もたくさん出てはいるのだけど、ちっとも読み込むことなく自説に固辞して「トンデモ論」がいつまでも蔓延りくだらない議論が多くって、当時の世情ってのを掘り下げることもなく・・・
何だかな?それって重要なことなの(世間は報道されればすごいって思ってしまうから)って言うような新発見もあるしって、愚痴ってしまうわけですが

今月のPHPのぬるい歴史だけは長い「歴史街道」って雑誌で越前藩と佐賀藩の記事が出ておりました。
内容はざっと知るにはいいかもしれないけどまとめ方が相変わらずね。
越前でも佐賀でも、もっと表に出ていれば「薩長の倒幕路線」が変わっていたとか、戊辰戦争の悲劇はなかったとか。
越前の場合は「公儀論」で大政奉還を早くから春嶽も唱えていて平和論者的なことも言うけど
長州征伐の時は初期の薩摩同様に「長州厳罰論」だったし、鳥羽伏見の戦い以降でも会津の態度には「厳罰」って言ってたんですよ。
佐賀も「日和見」って言うより「一藩割拠」の形ですね。薩摩のように近衛家とのつながりみたいに長けた朝廷工作に有利な条件もないし
慶応期京都の朝廷の下での慶喜や小松のような「新しい政体」の模索には無理に加わる必要も、なかったんじゃ。
「薩長と共に倒幕に参加しなかったから」ってのも、倒幕って言うより「慶喜」や背景の一会桑勢力の打倒ってことで
倒幕じゃなくって「廃幕」は慶喜も容堂も認めたことだし「王政復古」も薩摩や越前土佐も一致した行動だった。
これはいろいろと言う人もいるけど「朝敵」ってことが確定した上での大義名分もあっての「鳥羽伏見」以降の行動だから、そこに同調していればってことは意味もないように思う。
薩長のくくりも長州は王政復古まで「朝敵」なので、その出兵は薩摩によってコントロールされたものだったので「薩長」とは軽々しく言ってほしくないの。

「戊辰の戦乱」も言われるけど、これだけ戦乱も伴う国家の変革期には当然、犠牲はついてくるものだけど世界史を紐解いてもこれだけ「犠牲者」の少ない「維新」はなかったんですよね。
270年続いた幕藩体制、徳川家に忠誠を誓う譜代藩や親藩。
そこに「武士道」があったから、例えば最後まで抵抗した榎本武揚らの旧幕軍や、情報網や流通網がつながっていて西国の事情も知っていたはずなのに新政府軍に徹底抗戦した庄内藩なんて「越前や佐賀が入っていたら、話し合いで解決できた」とか、そんなもので計れないものだと。
何が何でも「武力で圧倒する」ってのは愚策だし、薩長を中心とした新政府軍がそればっかりに訴えたってことはない。
どれだけ兵力を損なうことなく、戦争が膠着すれば交渉の口があれば駆け引きも行うし、戦いもどれぐらい短く収めるかで「錦旗」もその一策。
現代の人間が一番わかっていないのは「軍事力を強化」って言うと、すぐに戦争につながるって言うけど「抑止」が大部分だし、実際に「戦争」に至ることはそうないことで、あれだけの兵力を持っている国ってわかったら踏み込めないし
簡単に「専守防衛」って言うけど、一般国民を確実に巻き込んでしまうこんなものは「愚策」でしかありえない。

「公儀論」の越前なので、坂本龍馬が生きてれば(邪魔になったから薩摩が暗殺したことにもされるけど)って話と一緒にして、維新後すぐにでも「話し合い」のできる国会ができたとかよく書いているものもあるけど国民はまだ成熟してないし、明治新政府の偉いところは「学校」教育を重視したことなので
その一通りの一定の教育が行き渡った時点で、維新後20年ほどのの「国会開設」や選挙制度に至る経緯は「有司専制」でまず急ピッチで新体制に持っていき、そこから国家が成熟していくと言う流れはおかしくないものだと思う。
第二次大戦敗戦後の現代日本の今の枠組みも、何も話し合いで決めたわけではないしょう。

ともかく実際に何が起こったのか、背景の歴史に何があったのか。
あまり踏み込まない時点で、イメージだけで推論するのもいかがなものか。

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# by enokama | 2018-03-04 23:42 | 歴史全般 | Comments(0)