エノカマの旅の途中

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旅と歴史と競馬のお話をします

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幕末の時代から日露間の北方領土交渉に関しては、以前から興味を以てきたので(関連記事→こちらこちら
北方領土交渉がニュースになるぐらい日露間で進みだしていて今回も書こうと思ったんですが
10年前(→こちら)に書いた頃から全く進んでいなかった(書いた当初よりもかなり追記してます。長くブログもやるもんだな)ことが改めてわかりました。
結局は失脚させられた鈴木宗男氏が収監され、一旦は政権交代等もあり野党陣営に入って
また自民党の外交に携わるようになって、改めて鈴木・佐藤優の考えのラインで進みだしたということなんでしょうね。

日本の外交なんて「今の安倍はひどい無茶苦茶だ」と言う人もいるようですが
長期の政権となった小泉内閣(一応は不完全だが北朝鮮は動いた)を除いた前後の短期政権なんて、それ以前に何にもできてないじゃないか。
一年ほど内閣があって問題が出てきて、マスコミが叩いて「辞めろ辞めろ」で世論調査で評判落として、国際陣営で顔を売る前に首相は辞任に追い込まれるから。
10年前も麻生さんが首相をもっと長くできていたら、もっと交渉は進んでいたのかもしれないし、まあ民主党政権の外交なんて中韓に媚びるだけでノウハウもなかったから何にも進まなかったからね。
結局はずっと停滞していたことがやっと再開したってことだし、今の世界首脳の在任が長いのがプーチンと安倍さんってことでの進行なのでしょう。




全島返還で何ができる>>
# by enokama | 2019-01-22 18:03 | 歴史全般 | Comments(0)

2018年最後の更新

なんか一年がだんだん早くなっていく気もするんですが、もう今年も終わってしまいます。
個人的には夏場に災害が多かったこともあるけど、そのころにもう少し動けたらよかったかなと反省してます。

「明治維新150年」で京都でもいろいろと行事があって行きましたが
図書館にある「明治維新100年」関連で復刻されたものを多く見ることにつけ、ちょっと熱意的なものは当時からして足らないように見え、ネガティブな「明治維新否定」みたいなものがあまりにも多く(しかもその連中が研究者批判をし、従来の史観を信じる者を馬鹿にしたように論ずる)なんだがおかしい方向が多かったようで残念であります。
ネットでも情報はいっぱいあるようでおかしいものが拡散されたり、ネタの上げ方が意図的だったりして何か信用できないし、匿名のところだったらどう言っても議論も通じないこと多いから、もうブロックするしかないかなといろいろ考えたりしてます。
自分たちが少数派だと「少数意見は無視して数の力で強行するのか」と言い、形では多数派になるときは「多数派意見を尊重しないのか」て言い、都合のいいようにしか解釈しないわけなんですね。
週刊誌のライターにしても新聞記者の記事にしても、そのあたり「編集上の社の方針」ばかり気にしてるようで「意見の多様性」(一方の意見を批判することばっかりだったり)「両論併記」ってのも無くなってきてるように感じる。
「炎上」ってのも上等に思ってるだけの人も見受けられるしね。
まあこういった中でもしっかりとした研究書や本に出合うことは出来たし、しっかりとした論者の方の講演もいくつか聞くことができました。

ブログ的には更新が落ちてるんですが、水戸藩ゆかりの地に最近行ってるのも
昨年から紀州だったり、三河の刈谷や安城、小倉や福岡に行ってるのも同じテーマでの調査でありました。
とりあえずそれらの落とし込みもほぼ終わって、来年にはその形ができそうなので実現ができたらなと思っています!

# by enokama | 2018-12-30 23:35 | お知らせ | Comments(0)
は敦賀とも近いので、再度前回に行けなかった場所に行ってきました。

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永建寺は松原神社から北方向へほど近い場所にある曹洞宗の寺で、広い境内に庭がある古刹らしい重厚な建築が残っている。
この場所には江戸から水戸藩内の内戦にも加わっていた幕府追討軍の田沼意尊が元治元年二月一日に入った。
その到着に前後して敦賀各所の寺院に収容されていた天狗党は、鰊蔵十六棟に約五十人ずつ押し込められるという過酷な仕打ちを受けた。


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# by enokama | 2018-12-20 18:05 | 水戸藩と天狗党 | Comments(0)
西郷どんが終わりました。
よく話もするんですが、一昔前になりますが「飛ぶが如く」や「田原坂」も見てきたこと世代からしたら、やはり物足らない感はありありであります。
西南戦争も二回で終わってしまいました。
まあ桂久武さんが出たし(元家老なのにすっかり弓矢の人みたいになっていたけど)桐野利秋もだんだん迫力が出て行ったし、熊吉や菊次郎のキャラもよく出ていた。
最終回の村田新八のアコーディオン(今回のは小さい感じがしましたが)のやり取りや、桐野の最後は相変わらずかっこいいし、あの西郷さんの最後もありかなと思いました。
二週間ほど前に一部ドラマ仕立てでBSで二時間の西南戦争の特番をやっていたんだけど、河井我聞のやっていた山縣が非常に良かっただけに、時間の関係もあっただろうけどもう少し政府軍側のやりとりも見たかったような気がします。
あとは吉井幸輔、薩長盟約や戊辰戦争では重要な役回りがあるはずの黒田清隆(まあ肝心な慶応年間があっという間にされてしまいましたが)生麦事件から薩英戦争、薩摩スチューデントの流れあたりで寺島&五代と言った人物が出なかったのは残念であります。
次の薩摩大河って生きてる間にあるのだろうか?
数字的にも内容的にもここ数年の大河ドラマは迷走していってる感もあるので、何か見直しもあるかもしれませんね。



少しは期待はしてたけど>>
# by enokama | 2018-12-16 22:43 | ドラマ感想 | Comments(0)

「幕末明治福井150年博」各種特別展イベントも押し迫ってきて、今年は何度か足を運んだのですが
今季最後と言うべき天狗党関連のイベントで、11月25日に敦賀の西隣の町・美浜町佐に行ってきました。

連休中だったので(湖西道路が混むのは添乗で何度も知っている)同行の天狗好きのTさんに電車で園部駅まできてもらって、殿田から美山町へ出て162号線で小浜まで、高速で若狭美浜インターから佐に着きました。
園部からでも90キロぐらい走ったかな。

は戦国時代に難攻不落で知られた国吉城があったところで、江戸時代に酒井家の藩政だった若狭小浜藩はこの城下に佐町奉行所(のち陣屋)を置き、周辺の三方郡を治めた。
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# by enokama | 2018-12-05 19:00 | 水戸藩と天狗党 | Comments(0)

丹波篠山市に改名

関連記事→こちら

最近会う人会う人に聞かれることも多いんですが(やっぱりこれだけ取り上げられるといい宣伝効果?にはなったようですね)
結局は「丹波篠山市」改名賛成が多かった結果となりました(投票率69.8%「賛成」1万3646票 「反対」1万518票)同時に行われた市長選挙は現職が16000、新人が6000でした。




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# by enokama | 2018-11-30 00:46 | 北摂丹波 | Comments(0)

丹波篠山市?に改名

「改名騒動」ちょうど10年前にこんな記事を書いていたんですが
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旧氷上郡が「丹波市」とやらに名乗るのは抵抗あるって書いてたんですが、そのことで農産物のブランド価値が上がってその「旧氷上郡」地域の売り上げが伸びて「篠山市」が埋没してしまったという(改名賛成派の言い分ですが)自分としては予想もつかないことだったし
周辺の(丹波)地域に埋もれてしまって「旧氷上郡」の個性がなくなってしまうのではってことでもなかったようです。
「丹波市」を大多数の住民の意思を無視して強行した印象だけど、主張した人たちはセンスがあったと言うことなんでしょうかね。

小泉内閣のあたりだっただろうけど、無理くりな合併を進めた意図って何なんだろうかと思うし
合併する互いの町村で一部を突出させてしまわないように「国名」の市が乱立した時は「地名」好きとしては腹立たしかったし
前回の記事にも書いたように、中村や武生や大仁や韮山や出石と言った伝統のある地名が表に出なくなったのは許せない気持ちはまだあります。




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# by enokama | 2018-11-15 22:57 | 北摂丹波 | Comments(0)
話題の? 百田氏の「日本国記」チラ見したけど、あまりに旧態然なところもあって「やっつけ仕事」としか見えない部分もあった。
じっくり腰据えて10年とか長いスパンで取り組まないと「決定版」とは言えないし不完全じゃないかな。
百田氏や有本女史には賛同する面もあるんだけど、当人たちの思想と(歴史をかじってるものからしての)書評は別なので言わせてほしい。

たまにあるんだけど、著者が嫌いだから「読まない、読まず嫌い。読むな」って人はおかしい。
だからこのブログでも書ける範囲で率直な書評も書いてきたんだけど、そう書くことでその著者に近い人たちが実は結構いたりして一斉に無視されたこともあったんだけど、そんな人たちはそんな程度の人間なんだろう。


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# by enokama | 2018-11-14 14:15 | 歴史全般 | Comments(0)
天領の大山は寛永二年(1749)以降、庄内藩の預地となっていた。
元来、天領の代官は世襲ではなく優れた能吏(不適格と判断されれば更迭される)が着任し組織も簡素で少ない人数のこともあり、鉱山・港湾からの安定収入が見込まれた地も多く、諸藩よりも租税が安くなる上に善政を敷かれることとなり、庄内の天領で直轄地から預地に変更される際には反対運動が常々起こるほどであった。
大山は水野忠邦が老中であった天保年間に「三方領地替え」の取りやめの報復もあってか、庄内藩の預地継続の願いを受け入れず、天保十三年(1842)尾花沢の大貫代官の直轄地となった。
ここでも一定の冥加金はあったものの、庄内藩が課していた細かい役銭が廃止され、大山の主力産業の酒造業者や職人に至るまで大きな恩恵を受けた。
しかし二年後にいわゆる「天保の改革」一連の改革が失敗し水野が失脚すると、再び大山は庄内藩の預地に戻されることになった。
この動きに対して酒造業者や名主層が主導し住民運動を起こし江戸訴願を行うほどの動きとなったが、結局は力ずくで鎮圧されることとなり3000人にも及ぶ取り調べが行われ、主導者5名はいずれも牢死し3500名が処分される(「大山騒動」)と言う重いものとなった。
この動きに対し藩内では大山製品の不買運動も起きたと言い、元来から預地領民と藩領民の係争では預地領民が不利な裁定を受けることも多く、幕府に納めるべき上納を大きく上回る租税を預地領民は藩に納めていたと言う不合理も、この運動が過激になった遠因となったと言う。

元治元年には新徴組での江戸警衛の功あって、大山は完全に天領から庄内藩領となった。
しかし大山の酒造業者はたくましく、慶応年間には蝦夷地から江戸、加賀、長崎と販路を広げ
水の良さもあって現在も酒処として、統合や廃業もあったが酒蔵が目立つ街並みとなっている。
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桑名藩士の謹慎>>
# by enokama | 2018-11-01 19:09 | 庄内藩 | Comments(0)
こちらにも書きましたが、桑名藩は本国では恭順と決したが
藩主の松平定敬は飛び地の柏崎領へ行き、徹底抗戦派の藩士と共に会津に赴いた。
しかし会津戦争では新政府軍の猛攻に対し、鶴ヶ城籠城戦と決した容保から定敬は米沢を目指して再起を図れと会津を離れたのが八月二十三日。
その報を聞いた桑名兵らも藩主の後を追うが、すでに定敬は仙台に向かったと告げられた上で(榎本艦隊に加わり蝦夷地箱館へ向かう)早い時期に降伏へと傾く米沢藩への入国も拒否された。

多くの東北諸藩も劣勢であり恭順との流れが強くなっていく中で、庄内藩は豊富な資金力を生かした充実した武器を用いた戦力と士気が高く戦術に優れた兵は各戦線でまだまだ新政府に伍して戦っていて、新徴組の江戸での功で庄内藩は幕府から与えられた最上川流域の元天領だった寒河江・柴橋を依然として確保していた情勢であった。
そこで桑名兵は庄内兵と合流することとし福島から白石を経て笹谷峠経由で山形へと入ったのが九月十六日。
この合流に関しては「奥羽列藩コトゴトク西軍二降ル。独リ荘内ノミ屹然不屈、我(桑名兵)二国(庄内)二就キ力ヲ合センコトヲ請フ。我マタ荘内ノ為スアルベキヲ知ル」
として最後に戦う地として庄内へと向かうのだった。
そして寒河江に庄桑400の兵が滞在していた九月二十日の早朝の濃霧の中、米沢藩を先導として薩摩兵2500に急襲される。
いわゆる「長岡山の戦い」で桑名兵19名、薩摩兵10名の死者を出した。

そして約300名とされる桑名兵と他の戦線同様に藩への帰還を命じられた庄内兵は庄内本国へと向かい、九月二十五日に鶴ヶ岡城下に入る。
しかしすでに二十三日に庄内藩は降伏しており、桑名兵は謹慎の地大山へと移された。


謹慎をした大山>>
# by enokama | 2018-10-30 20:33 | 庄内藩 | Comments(0)