エノカマの旅の途中

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「幕末明治福井150年博」各種特別展イベントも押し迫ってきて、今年は何度か足を運んだのですが
今季最後と言うべき天狗党関連のイベントで、11月25日に敦賀の西隣の町・美浜町佐に行ってきました。

連休中だったので(湖西道路が混むのは添乗で何度も知っている)同行の天狗好きのTさんに電車で園部駅まできてもらって、殿田から美山町へ出て162号線で小浜まで、高速で若狭美浜インターから佐に着きました。
園部からでも90キロぐらい走ったかな。

は戦国時代に難攻不落で知られた国吉城があったところで、江戸時代に酒井家の藩政だった若狭小浜藩はこの城下に佐町奉行所(のち陣屋)を置き、周辺の三方郡を治めた。
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# by enokama | 2018-12-05 19:00 | 歴史連載 | Comments(0)

丹波篠山市に改名

関連記事→こちら

最近会う人会う人に聞かれることも多いんですが(やっぱりこれだけ取り上げられるといい宣伝効果?にはなったようですね)
結局は「丹波篠山市」改名賛成が多かった結果となりました(投票率69.8%「賛成」1万3646票 「反対」1万518票)同時に行われた市長選挙は現職が16000、新人が6000でした。




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# by enokama | 2018-11-30 00:46 | 北摂丹波 | Comments(0)

丹波篠山市?に改名

「改名騒動」ちょうど10年前にこんな記事を書いていたんですが
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旧氷上郡が「丹波市」とやらに名乗るのは抵抗あるって書いてたんですが、そのことで農産物のブランド価値が上がってその「旧氷上郡」地域の売り上げが伸びて「篠山市」が埋没してしまったという(改名賛成派の言い分ですが)自分としては予想もつかないことだったし
周辺の(丹波)地域に埋もれてしまって「旧氷上郡」の個性がなくなってしまうのではってことでもなかったようです。
「丹波市」を大多数の住民の意思を無視して強行した印象だけど、主張した人たちはセンスがあったと言うことなんでしょうかね。

小泉内閣のあたりだっただろうけど、無理くりな合併を進めた意図って何なんだろうかと思うし
合併する互いの町村で一部を突出させてしまわないように「国名」の市が乱立した時は「地名」好きとしては腹立たしかったし
前回の記事にも書いたように、中村や武生や大仁や韮山や出石と言った伝統のある地名が表に出なくなったのは許せない気持ちはまだあります。




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# by enokama | 2018-11-15 22:57 | 北摂丹波 | Comments(0)
話題の? 百田氏の「日本国記」チラ見したけど、あまりに旧態然なところもあって「やっつけ仕事」としか見えない部分もあった。
じっくり腰据えて10年とか長いスパンで取り組まないと「決定版」とは言えないし不完全じゃないかな。
百田氏や有本女史には賛同する面もあるんだけど、当人たちの思想と(歴史をかじってるものからしての)書評は別なので言わせてほしい。

たまにあるんだけど、著者が嫌いだから「読まない、読まず嫌い。読むな」って人はおかしい。
だからこのブログでも書ける範囲で率直な書評も書いてきたんだけど、そう書くことでその著者に近い人たちが実は結構いたりして一斉に無視されたこともあったんだけど、そんな人たちはそんな程度の人間なんだろう。


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# by enokama | 2018-11-14 14:15 | 歴史全般 | Comments(0)
天領の大山は寛永二年(1749)以降、庄内藩の預地となっていた。
元来、天領の代官は世襲ではなく優れた能吏(不適格と判断されれば更迭される)が着任し組織も簡素で少ない人数のこともあり、鉱山・港湾からの安定収入が見込まれた地も多く、諸藩よりも租税が安くなる上に善政を敷かれることとなり、庄内の天領で直轄地から預地に変更される際には反対運動が常々起こるほどであった。
大山は水野忠邦が老中であった天保年間に「三方領地替え」の取りやめの報復もあってか、庄内藩の預地継続の願いを受け入れず、天保十三年(1842)尾花沢の大貫代官の直轄地となった。
ここでも一定の冥加金はあったものの、庄内藩が課していた細かい役銭が廃止され、大山の主力産業の酒造業者や職人に至るまで大きな恩恵を受けた。
しかし二年後にいわゆる「天保の改革」一連の改革が失敗し水野が失脚すると、再び大山は庄内藩の預地に戻されることになった。
この動きに対して酒造業者や名主層が主導し住民運動を起こし江戸訴願を行うほどの動きとなったが、結局は力ずくで鎮圧されることとなり3000人にも及ぶ取り調べが行われ、主導者5名はいずれも牢死し3500名が処分される(「大山騒動」)と言う重いものとなった。
この動きに対し藩内では大山製品の不買運動も起きたと言い、元来から預地領民と藩領民の係争では預地領民が不利な裁定を受けることも多く、幕府に納めるべき上納を大きく上回る租税を預地領民は藩に納めていたと言う不合理も、この運動が過激になった遠因となったと言う。

元治元年には新徴組での江戸警衛の功あって、大山は完全に天領から庄内藩領となった。
しかし大山の酒造業者はたくましく、慶応年間には蝦夷地から江戸、加賀、長崎と販路を広げ
水の良さもあって現在も酒処として、統合や廃業もあったが酒蔵が目立つ街並みとなっている。
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桑名藩士の謹慎>>
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# by enokama | 2018-11-01 19:09 | 庄内藩 | Comments(0)
こちらにも書きましたが、桑名藩は本国では恭順と決したが
藩主の松平定敬は飛び地の柏崎領へ行き、徹底抗戦派の藩士と共に会津に赴いた。
しかし会津戦争では新政府軍の猛攻に対し、鶴ヶ城籠城戦と決した容保から定敬は米沢を目指して再起を図れと会津を離れたのが八月二十三日。
その報を聞いた桑名兵らも藩主の後を追うが、すでに定敬は仙台に向かったと告げられた上で(榎本艦隊に加わり蝦夷地箱館へ向かう)早い時期に降伏へと傾く米沢藩への入国も拒否された。

多くの東北諸藩も劣勢であり恭順との流れが強くなっていく中で、庄内藩は豊富な資金力を生かした充実した武器を用いた戦力と士気が高く戦術に優れた兵は各戦線でまだまだ新政府に伍して戦っていて、新徴組の江戸での功で庄内藩は幕府から与えられた最上川流域の元天領だった寒河江・柴橋を依然として確保していた情勢であった。
そこで桑名兵は庄内兵と合流することとし福島から白石を経て笹谷峠経由で山形へと入ったのが九月十六日。
この合流に関しては「奥羽列藩コトゴトク西軍二降ル。独リ荘内ノミ屹然不屈、我(桑名兵)二国(庄内)二就キ力ヲ合センコトヲ請フ。我マタ荘内ノ為スアルベキヲ知ル」
として最後に戦う地として庄内へと向かうのだった。
そして寒河江に庄桑400の兵が滞在していた九月二十日の早朝の濃霧の中、米沢藩を先導として薩摩兵2500に急襲される。
いわゆる「長岡山の戦い」で桑名兵19名、薩摩兵10名の死者を出した。

そして約300名とされる桑名兵と他の戦線同様に藩への帰還を命じられた庄内兵は庄内本国へと向かい、九月二十五日に鶴ヶ岡城下に入る。
しかしすでに二十三日に庄内藩は降伏しており、桑名兵は謹慎の地大山へと移された。


謹慎をした大山>>
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# by enokama | 2018-10-30 20:33 | 庄内藩 | Comments(0)
慶応四年八月十九日。
徳川宗家の駿府藩七十石への移封と慶喜の謹慎していた水戸からの移動を見届けた後
旧幕府海軍を率いる榎本武揚は江戸近海を脱出し、その艦隊は東北へと向かった。
戊辰戦争で新政府軍との戦いを続ける奥羽越諸藩との連携と、旧幕臣の新天地としての蝦夷地の可能性を求めてのものである。

しかし折しも台風シーズンであって艦隊のうち、暴風雨にあって流された「咸臨」は駿河の清水で拿捕され「美賀保」も銚子沖で座礁した。
残った艦船も損傷を受けながら松島湾の各所に着船し、榎本らは降伏に傾く仙台藩との協議を経て一定の支援(仙台藩にあった艦船二隻の合流や兵糧の提供等)と士気ある兵の収容を得て蝦夷地に向かうこととなるが、そのうちの二隻「長崎二番」(長崎丸二番)「千代田形」は庄内へと向かっていた。
まだ抗戦を続けていた庄内戦線での海上からの支援と洋式歩兵戦術の専門家で庄内藩での指導に入っていた沼間守一の救出が目的である。

(以下は坂本守正「七星旗の征くころ」 元の引用は阿部正己「庄内藩軍艦」より)
慶応四年になって幕府が瓦解した後に旧幕府海軍の艦船は東北諸藩に貸与等の形で運用される動きがあって、仙台や北越の戦線でも輸送船として使われることもあった。
庄内藩は三月(庄内着)の江戸在住の新徴組隊士も含めた藩士の総引き上げのさいに「奇捷」を手に入れていた。
藩では本格的な海軍創設を決め、人事も行われて運用を始めていたが、七月の新潟寺泊沖での海戦で新政府軍の艦隊の襲来で旧幕府勢力の艦船が沈没させられる事態が起き、この海域での制海権を握られることとなり、庄内藩単独で一隻所有するだけでは効果的ではないとの判断で
主な旧幕府勢力と取引きして知られた武器商人スネルから融資を受けて差し迫った必要のあった洋銃弾薬の購入を優先し、その担保として「奇捷」を担保に出すこととなり手放しており、庄内藩自前の海軍力はなかったのである。

奇捷(きしょう 鉄製蒸気内輪)
 1864イギリス(グラスゴー)・タバンニョ―号(査収・慶応二年八月)横浜 十万元 150馬力 517屯
  慶応三年に庄内藩が譲り受け

その二隻の酒田港への到着は十月七日となったが、終始藩外へ展開した戦いが中心で一時期は新政府軍を圧する勢いだった庄内兵だったが、周辺諸藩の相次ぐ降伏もあって藩内防備へと撤退し、すでに九月二十三日に参謀・黒田清隆に降伏嘆願書を提出して、降伏したあとであった。


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# by enokama | 2018-10-26 22:34 | 庄内藩 | Comments(0)
(しばらく、この記事はトップに固定します)
今年も収穫の秋となりました。
例年通り、こちらで告知させていただきます。。。

(10月18日追記)
今年は豆自体は例年通り大きく実ってるんですが、天候不順もあって量が取れず不作気味となっています。周辺農家もほぼ今週で枝豆としての作業を終えるところも多いようです。私のところも今週土曜日の注文をめどに終了して、最終の発送は22日月曜日にする予定です。従ってご希望の方は今週土曜日までにご連絡ください!

黒枝豆送らせていただきます。
ここ数年、相場が上がってまして今年は(キロ800円+送料)でとなります。
こんな感じで送ります!
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今週から来週中ごろあたりにお届けする形になります。
例によって希望の方は注文数・配達時間を明記の上で ご連絡ください!
(→関連記事

右記のメールフォームか、FACEBOOK・ツイッターで連絡お願いします!
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# by enokama | 2018-10-18 20:29 | 北摂丹波 | Comments(0)
振り返ったら何回か今回の大河ドラマ感想はこのブログでも触れていたようですが
なんか最近の幕末大河が主人公の幼少期や青年期に三分の一ぐらいさいて、親や家族との女性目線での関わりってので重視しているようで
も一つ元治〜慶応あたりの幕末での一番大事な肝心な出来事がサブストーリーにしか取り上げられないし、まあSNSや掲示板では「史実史実ばっかりうるさいんだよ」っていう人たちもいるけど、こんなのが求められている時代になってきているのかなとも思ったりしてしまいます。

でも大河の舞台になりそうな場所なら、その関わりをアピールして博物館なり講演なりと言ったものも通じて観光客を呼び込もうとするからどうしても期待するだろうし
ほんとにドラマになって再現してほしいエピソードがあったりするから、取り上げてほしいもんですが
どうも脚本の流れに沿ったフィクションの部分や解釈ってのがつまらないし、まず当時の時代背景からあり得ないことが多すぎるし、武士の世の中なんだから武士道的な意地ってのは入れるのが当たり前だと(藤沢周平や葉室麟あたりの原作映画ではしっかりと入れるよね)思うけど、そんな要素はなく現代の考えと同じような感情の人間をそのまま、その時代に再現するだけであって
今の時代の大河ドラマに求めるのがいい加減、間違いなんだと気付かないとだめなのかなと。

まあ世代交代はNHKはしっかりとしているだろうから、時代劇は20年前にはほとんど衰退してしまってるから「まったく知らない」スタッフも多いだろうし
脚本家も民放の時代劇が皆無になって久しいから、どんなものかわからんのでしょう。
現代劇の人気ドラマを担当していたと言っても、その手法を違う時代背景に合わせた物に合わせることは無理で不自然ななことであって、結局は見るに堪えるのが見る・読む人によっては物議を醸しだす「司馬遼太郎原作」であって
それを超える作品はなかなか現れないのが現状なのかともしれません。

時代考証も自身が専門で本職が忙しかったら受けられるはずがなく、例えばワイドショーの専門家顔するコメンテーターなんて、時間の余裕があるだけでその業界のトップでは決してなく実力も無いような者でも通用するものである。
あれ間違ってるやないかって言われても影響がない、未だに何の資料提供なのかわからんけど名前が残ってる山村竜也にみたいにや研究や論文に関係のない、作家と言う都合のいい肩書きでろくに説得力もない文章も書けないけど、その程度の人物ならしょうがないで済まされてやってるってしか見えない訳なんです。
原口泉さんは某番組でさも細かく今回の脚本に指示出してるように紹介されてたけど、あそこまて見せてよかったのかなって心配になってきます。あくまでドラマですって逃げられないやんか。
まあ、あまりハードルを上げる必要がない人が時代考証の適任かも知れませんがね。


南洲神社にて>>
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# by enokama | 2018-10-17 05:21 | ドラマ感想 | Comments(0)
こちらからの続きであります

松原神社から道路を挟んだ場所に武田耕雲斎らの墳墓がある
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松林に囲まれている
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来迎寺野と呼ばれたこの地で天狗党352人が処刑された(松原神社の411柱は戦死者と病死者を含めた数)


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# by enokama | 2018-10-10 20:30 | 歴史連載 | Comments(0)