人気ブログランキング | 話題のタグを見る

エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

明治以降の中沼了三

こちらから→)
東京を追われるように去った中沼了三は銀閣寺の北、東山如意ヶ嶽のふもと浄土寺村
(現在の左京区・京都朝鮮中高級学校。大文字山登山口付近)に居を構え、私塾を開いた。

銀閣寺の北、八神社を右に
明治以降の中沼了三_f0010195_23522434.jpeg

朝鮮学校の南に碑がある
明治以降の中沼了三_f0010195_23533574.jpeg


もっと見る>>
# by enokama | 2023-05-22 23:28 | 私の好きな京都 | Comments(0)
直政の次代当主直継の下で懸案だった新たな築城計画が進められて
彦根寺のあった彦根山(金亀山)に決定した。
松原内湖(昭和になって埋めたてられた)に接して水運が使え、善利川を琵琶湖にまっすぐ流れるように付け替えることで三重の堀と相まっての城下町の建設
上方からの防御線の構築を伴った事業となった。
慶長三年(1603)に始まった築城は彦根の要地としての重要性から、幕府奉行が派遣され各地の大名による普請となった。
ただし城の建造物は近隣の廃城(長浜・佐和山・安土・大津等)となったものの、移築となっている部分も多い。
以降の井伊家は幕府老中の上席となる大老職に度々つき、京都守護としての重責も担った。
彦根城下町めぐり2023~彦根城の成り立ち_f0010195_18050700.jpg


もっと見る>>
# by enokama | 2023-05-15 18:14 | 近江の史蹟 | Comments(0)
徳川家康を支えた「徳川四天王」として知られる井伊直政。
慶長五年(1600)九月十五日に起こった関ケ原合戦で、敵中突破を図る西軍の島津兵から銃撃を受け負傷した。

合戦後、石田三成の父正継が籠城する居城の佐和山城攻めに小早川秀秋、田中吉政とともに加わり
十八日には佐和山城は陥落し、石田一族の多くは戦死もしくは自害した。
(その場所は女郎谷と呼ばれる→京都にある石田一族の墓所)

井伊家は領国だった上野国高崎十二万石から、その佐和山十五万石を与えられた。
翌六年に直政は佐和山城に入り(石田家陥落の際にも城郭はある程度残っていたとされる)領国統治に入ったが
関ケ原で負った怪我が思わしくなく、有馬へ湯治するなど療養につとめたが
慶長七年二月一日に佐和山城で亡くなった。


もっと見る>>
# by enokama | 2023-04-30 17:40 | 近江の史蹟 | Comments(0)
彦根に行ってきました。
今回はご案内する立場だったので、しっかりと下調べをしました。

城下町の北東の佐和山山麓にある曹洞宗清凉寺(→龍潭寺の隣)は井伊家が彦根入部し
初代藩主の井伊直政の墓所から、菩提寺となってきました。
彦根城下町めぐり2023~井伊家の彦根入部と菩提寺の清凉寺_f0010195_18032803.jpeg

諸国から高僧を招いて、修行道場として名高かったため立派な伽藍である。
彦根城下町めぐり2023~井伊家の彦根入部と菩提寺の清凉寺_f0010195_18064722.jpeg

この地はかつて島左近の屋敷だったとされ、その供養もされていて
当時の屋敷があったころからあるタブの大木もある。
彦根城下町めぐり2023~井伊家の彦根入部と菩提寺の清凉寺_f0010195_18045244.jpeg



もっと見る>>
# by enokama | 2023-04-24 18:00 | 近江の史蹟 | Comments(0)
(→こちらから)

家督を継いだ酒井家次は秀吉の小田原城攻め(天正十八年・1590)には酒井の軍勢を率いた。
そして三河吉田から同じく下総碓井(千葉県臼井)三万石に移された。
石高も増えてないことから、諸説あるが家康には評価されていなかったとする向きもある。
忠次の正室・於久も碓井に移り「碓井姫」と紹介されることも多い。

翌年の朝鮮出兵に備えた名護屋城には忠次が赴いている。
この時も秀吉の厚遇を受けたという。

その後の京都での忠次は三河吉田生まれの助念和尚を訪ね浄土宗の信仰に帰依し、知恩院の参道に仙求庵を建てる。
知恩院黒門への参道で華頂女子高校の隣にある仙求院
酒井忠次と京都~菩提寺先求院と墓所_f0010195_23471707.jpeg


もっと見る>>
# by enokama | 2023-04-02 22:46 | 庄内藩 | Comments(0)