直政の次代当主直継の下で懸案だった新たな築城計画が進められて
彦根寺のあった彦根山(金亀山)に決定した。
松原内湖(昭和になって埋めたてられた)に接して水運が使え、善利川を琵琶湖にまっすぐ流れるように付け替えることで三重の堀と相まっての城下町の建設
上方からの防御線の構築を伴った事業となった。
慶長三年(1603)に始まった築城は彦根の要地としての重要性から、幕府奉行が派遣され各地の大名による普請となった。
ただし城の建造物は近隣の廃城(長浜・佐和山・安土・大津等)となったものの、移築となっている部分も多い。
以降の井伊家は幕府老中の上席となる大老職に度々つき、京都守護としての重責も担った。
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