エノカマの旅の途中

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旅と歴史と競馬のお話をします

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霊山歴史館の春の恒例のツアーが今年は福井だったので行ってきました。
例のごとく、先乗りの現地合流で個人的に鯖江にも足を運びました。
何回かに分けて書いていきます!
(一番の目的だった丹厳洞と瑞源寺はこちらに追記してます)

少し福井に行くのも久しぶりなので前回とまた違ったところもありました。
ここでも書いた由利公正関連ですが、幸橋南詰西側の生家跡の道路を挟んだ反対東側がちょっとした広場になっていて(→こちら
福井神社南側の福井中央公園(現在、整備中とのこと)にあった銅像が橋のたもとに移されていました。
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以下は個人的に行ったところ>>
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# by enokama | 2017-05-23 17:50 | 福井藩 | Comments(0)
先日、BSでやっていた番組の感想を書きました。
まあロシアとの外交史は松平定信あたりまでさかのぼる必要はあるだろうし、日清〜日露の戦争にも関わってくることなので、なかなか簡単には言えないんですけどね。


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# by enokama | 2017-05-15 08:59 | 歴史全般 | Comments(0)
御浜岬近くには旧戸田村によって昭和44年に開館した戸田(村立)造船郷土資料館があります
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# by enokama | 2017-05-09 01:54 | 歴史連載 | Comments(0)
造船の場所は牛ヶ洞(地図・紫印)となった。
廻船業で栄えていた戸田には多くの船大工がいたことも、この地が選ばれた理由であった。
もちろん洋式の船は初めてで戸惑う面も多かったそうだが、ロシア人もその仕事ぶりを高く評価し
異例とも思えるスピードの二か月半ほどで全長24.6m、100トン弱の洋式帆船が完成し、安政二年(1855)三月に進水式が行われた。
プチャーチンは建造に携わった人々に感謝して「ヘダ号」と名付け、二十二日になって乗組員47名と共にペテルブルグに向かって出帆した。
残る乗組員はアメリカとドイツの商船を雇って、ロシアへと向かった。

大正十二年になって、この地に「造船記念碑」が建てられた。
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# by enokama | 2017-05-07 17:55 | 歴史連載 | Comments(0)
少し資料を読み込んでいたので更新が開きましたが、伊豆のレポを続けます。
韮山(地図の青印)から戸田(へだ・赤印)へは一旦、修善寺に出てから行くもんだ(路線バスなら修善寺経由)と思ってましたが
ナビだと江間と言ういちご狩りの盛んな地域から、狩野川放水路沿いに西に出て海岸を通るルートが示されます。
しばらく海岸線を通って、内陸に入り真城峠(さなぎとうげ)と言う峠を越えます(橙印)
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この手前(北側)からは富士山がくっきり。
ちなみにこのルートは安政元年に宮島沖(緑印)で遭難しディアナ号を失ったロシア兵が戸田へ向かって超えた峠でもあります(→こちらこちら
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# by enokama | 2017-05-06 18:03 | 歴史連載 | Comments(0)
欧州での産業革命は高炉が発達し、鉄の大量生産が始まったことも大きい。
技術の進歩で製造コストが安く、従来の青銅製の大砲と比べて強度も遜色がなくなり、大型化も可能な鉄製の大砲が広まっていった。
その鉄製大砲を鋳造し、生産する目的で日本でも製鉄の近代化を図って高炉が各地に建設され、炉内で発生させた熱をその天井で反射させ高温を実現し、鉄の熔解を可能とするその方式から「反射炉」と呼ばれた。

嘉永三年(1850)に佐賀藩(→こちら)が反射炉建造に着手し、大砲鋳造所も設け長崎警備の台場に据え付ける大砲を制作し、青銅製から鉄製に移行させていた(のちに幕府向け大砲も制作)。
五年には薩摩藩、六年には下田(韮山に移転)、安政二年(1855)に水戸藩が着手し、四年には水戸藩の事業に携わった南部藩の大島高任が那珂湊反射炉に供給する鉄鉱石を製錬する高炉を釜石に建設した。未稼働に終わったがにも反射炉が現存している。
以上に上げた施設にピンときた人も多いでしょうが、そのほとんどが世界遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されたものであるので、選考の基準にもなったものと思われます(なぜ萩が入って、那珂湊が外れたのかは疑問だが)。

佐賀藩が初の反射炉建造を果たしたが藩主の鍋島閑叟が直に江川英龍に面会して、藩士の本島藤太夫が英龍の直弟子となって学びその中心人物となり、英龍の召し抱えた技術者たちが支援した経緯もあって、自身でも反射炉建造を願い、品川台場築造の命が下りその台場に据え付ける大砲製作の必要性もあって、安政元年(1854)ようやく許可が出た。
当初は天城山の土を使った耐火煉瓦を使用し下田に建造していたが、日米和親条約締結後にペリー艦隊が下田に入港し、この際に上陸した米兵がこの工事を目撃してしまったこともあって、機密保持の観点から基礎工事まで済んでいた場所から韮山へと移転が決まった。
安政元年十一月の大地震で工事も影響を受け、翌二年一月に英龍は完成を見ずして死去。その計画は長男の英敏に引き継がれ、風水害も相次ぎ難航したが、佐賀藩からの技師派遣による協力も得て、安政四年七月にようやく連双二基四連による稼働を果たした。
周辺部には大砲製作に関連する建屋がいくつも作られた。
現在では反射炉のみ残され、炉周辺部は鉄骨での補強により外観が変わるも、当時実際に稼働したもので唯一現存する貴重な史跡となっている。

こちらはあまり観光客もいなくってゆっくりできた江川家住宅に対して駐車場も広く、マイカーや大型バスも多くってにぎわっておりました。
2016年3月に訪れたんですが「世界遺産決定」の効果も大きかったようで
以前は知らないけど、土産屋も大きく周辺も公園として整備がされておりました。
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# by enokama | 2017-04-22 14:42 | 歴史連載 | Comments(0)
江川家住宅の東に1506年、江川家によって建立された日蓮宗・本立寺(ほんりゅうじ)がある。
この現在では金谷と呼ばれる集落には、清和源氏の流れを汲む江川家(当時は宇野氏と称す)六代親治が京都での戦乱を避けて、孫の親信が十三人の従者とともにこの地に移り住んだのが韮山における江川家の始まりで(のちに狩野川の支流である江川から姓を改めた)その十三人の子孫が今もお住まいだそうである。
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# by enokama | 2017-04-19 13:55 | 歴史連載 | Comments(0)

韮山~江川家住宅

伊豆地域の実力者であった江川家は戦国武将・北条早雲の伊豆進出の際に二十三代英住が臣下となって、屋敷の背後にある平山を提供し(韮山城築城)領地を安堵され以後、五代にわたって北条氏の家臣となった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山に籠城する二十七代英吉と徳川家康に仕えた二十八代英長が対立する形となったが、英長がうまく和議を進めて父子ともに徳川家に仕えることとなり、徳川幕府の成立に伴い伊豆が幕府の天領となる際に江川家は世襲代官となって、この地を引き続き治めることとなる。
管轄地は幕末のころには伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐と広範囲に及び、石高は六〜七万石に及んだ。


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主屋は1600年ごろに建てられたとされるが、部材に関しては室町時代にさかのぼるものも使われていて歴史を感じるものである。
現在は写真のように銅板葺きとなっているが、かつては茅葺きだった。
広大な土間は高さもあって、迫力のある梁や柱で残されている。
書院の塾の間では机が並べられて幕末の開明家で知られる三十六代当主・江川英龍(担庵)が開いた砲術を中心とした塾である「韮山塾」の往時が再現してある。
三間余四方十八畳の部屋で塾生の宿所でもあった。
弟子は佐久間象山、川路聖謨を始めに薩摩や長州と言った諸藩からも大山巌・黒田清隆と言った人物がいて、江戸と韮山を行き来する英龍は江戸でも講義を行ったが、韮山では実際に韮山城跡の土塁や屋敷の周辺地で大砲を使った実地訓練が行われた。
展示品には自作の短刀・煙管・絵画と言った物もあって英龍の多才ぶりがうかがわれる。
英龍に関してはここでは書ききれないぐらいのエピソードがありますが、品川台場やヘダ号の建造も大きな功績と言えます。
その韮山代官としての治世では農兵制や種痘の実施が特筆される事柄で、領民に慕われた善政を敷きました。
展示に関してはHPが詳しいです→こちら


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# by enokama | 2017-04-16 17:09 | 歴史連載 | Comments(0)

韮山城跡と蛭ヶ小島

静岡のレポを再開します。韮山に行ってきました!

まずはこちらから、蛭ヶ小島。
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特に何があるということはないんだけど、昔から有名だったようで江戸時代に立ったような石碑もいくつかありました。


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# by enokama | 2017-04-12 22:55 | 歴史連載 | Comments(0)
こちらの記事のアクセスがまた増えているようですが
まだまだわかってない文章も多いので、何度何度も同じようなことを書いてしまってるけど、慎太郎が龍馬を斬る必要などありません。
大政奉還は端的に言えば慶喜が政権を朝廷に返すって言っただけであり、会桑勢力も幕府の組織もそのまま、大坂開市神戸開港も奉行が引き続いてやっており、外交も慶喜が握ったままです。将軍の辞職願は出したけど受理されてないし、王政復古に向けては有力諸侯を招集した上での話し合いが待たれていて(関わりたくない消極的な藩も多くて集まりが悪かったので遅れていた)一方で「武威」としての出兵は薩長芸に対して幕軍も同様です。別に「大政奉還」と「武力討幕」を対立軸にすることはないんです。
11月の近江屋事件のころは、その諸藩の出方待ちで慎太郎も自身の陸援隊の強化、在京薩摩藩士や岩倉具視を通じた情報交換ぐらいしかできないし、龍馬はこの時間を利用して在京土佐藩士らと新しい職制を構想していた。この時の持ち場でそれぞれの行動を取っていただけで、王政復古からその後に予想される武力衝突については、この時の龍馬の上洛前に長崎から土佐にライフル銃を持ち込んでいたように「不可避」との認識は共有していたかと思います。龍馬が陸援隊屯所を訪れた時に「戦争は避けないかん」と言ったとか、平和革命とかどこに引用するものがあるのでしょうか。
強いて言えば「慶喜の処遇」(新政府で役職を与えるか否か)と言った点での二人の対立であり、このあたりが福岡孝弟の回顧にあったものとも思われます(このあたりは二人の志士活動での体験からの違い。原稿に詳しく書きました)。大きな方向では対立点はなく、一昔前の個人プレイやテロ多発の時期でなく藩単位で動いている情勢の中で仲間内で殺し合いをするって理由はあるんでしょうか。
龍馬がいたから薩長芸の出兵とか王政復古後の各藩主や後藤や中根雪江、松根図書と言った側近の活動に影響を与えたのか?大久保や西郷の行動に脅威を与える存在だったのか。ifで考えても藩単位で動いている中に割り込むようなことはできなかったでしょう。
方向性で言えば、慶喜は「王政復古政変」で尾越土や薩摩とも大きいくくりで同じ方向に向いていたとも言えるかもしれない。家近さんも書いているけど、この時点で京都での任を解かれた会桑を帰国させて離れることも一つの考えだったと思う。そうしてれば「討幕」ってこともなく、年が明けてから「罷免されたはずの会桑と同調する動き」として大久保に付け入れられることもなく、幕府主戦派の小忠順も江戸で「薩摩藩邸焼き討ち事件」に積極的に関与することで上方での戦争をけしかけることもなかったかと。
まあ今回、慎太郎の文章をまとめたかったのもこのあたりをはっきりさせたかったことが一番の理由ですがね。
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# by enokama | 2017-04-11 16:32 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)