エノカマの旅の途中

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庄内藩を知る参考文献

最近、龍馬本がジャンジャン出てますか、これって言うのはねぇ・・・
僕の場合、幕末の派閥で言うと「武力討幕派」になると思う。
西郷隆盛であって、中岡慎太郎であり、乾退助になる流れだ。。。

よく坂本龍馬至上主義の童門冬二氏などは「非戦主義」(共和主義らしい)だった坂本龍馬を
西郷の意を受けた者が暗殺し
(龍馬と慎太郎が襲われた時、龍馬は放っとかれて慎太郎のみ介抱したとも書いている)
その武力によって国を制圧した者によって作られた国家とこの人は称するが
果たして、そんな武力を用いない変革(明治維新自体は厳密には革命とは言えない)で
実際に新政府ができたとも思っているのだろうか。
長州などは力(用兵)によって一度は窮地に陥っている。
当然、用兵主義の重要性を一番知っているし、英国などの外国との和解も交戦した上での成果だ。
相手側にしても300年近く続いた幕府の一大事だ。彰義隊にしろ、箱館に集結した榎本武揚ら
旧幕勢力あたりは、徳川武士としての誇りと、それまでの海外との開国に備えた行動は決して
間違っていないとの思いで決したものだったのだ。

中岡慎太郎はその論文の中で「戦を起こすことによって強国になる」と書いている。
戊辰戦争において、北越戦線における薩摩と長州、会津における薩摩と土佐。
強敵・庄内に対する秋田・角館といった激戦地における各藩連合(悪く言えば寄せ集めにすぎない)
その各藩の連合・協調は正直ひどいところも多く、成り上がり者の多い、その資質を疑うような
軍監らの存在もますます混乱に輪をかけた。

火力・人数に圧倒しているのにも関わらず、死に物狂いの旧幕府勢力に対しては苦戦を続けた。
しかし、その経験が明治の新しい徴兵制(武士をなくすことになるが)による近代的な軍制への
教訓として生かされた。その中心が北越で散々、辛酸をなめた山縣狂介(有朋)であった。
そして日清戦争へとつながって行くのだ(この戦争はアジアの存在感を見せるには、不可避だったかもしれない)
ちょっと前置きが長くなりましたが、庄内についての本題に入ります。

なぜ僕が庄内に興味をもったか>>
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by enokama | 2009-11-30 23:12 | 庄内藩 | Comments(2)
今年の初めにNHK「浪速の華」そして今放映中のTBSドラマ「JIN」と大坂の至宝であり
幕末期に現在の免疫(ワクチン)に通ずる天然痘やコレラの研究に心血を注ぎ
その撲滅のために海外からのワクチン(牛痘菌)を仁術によって全国に広め
一方、開いた蘭学塾・適塾では、のち明治期に活躍する多くの人物を育てた緒方洪庵。

今のドラマ「JIN」では武田鉄矢がどうかな~、ちょっと僕からしたら軽すぎかなと思ったりしたんですが
洪庵先生を知って興味をもってもらうには、いろんな方の感想を見ててもよかったみたいですね。
僕は橋本左内を調べるところから適塾と洪庵先生に興味を持つようになって、北浜に現存する適塾に通うようになり
会員にもなって3年ほどになります。
それから記事もちょくちょく書いてまして、おそらくこれだけ書いている人はいないだろうと自負しています(笑)
だから脚光を浴びるようになってとてもうれしいです。。。
もし一連のドラマで興味を持った方は、このカテゴリをお暇な時にでも遡って見てくださいね!

そして先日(16日)京都で北川村の方と別れた後、大阪に移動して
適塾記念講演会(→こちら)に行ってきました。
元々はこの講演会の時間の始まりが微妙で、仕事を午後休にしようと思ってたんですが
結局1日休むことにしました。

適塾記念講演会>>
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by enokama | 2009-11-27 23:40 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)
中岡慎太郎の京都の史跡めぐりの記事を書いたので
追加して、まだ紹介していない史跡を紹介します。
(関連記事→こちら

中沼了三先生講書の所碑(烏丸夷川下ル東側)
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烏丸御池の交差点東側、烏丸通を300mほど上がった所にあります(京都新聞社の南側にあたる)
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出身地・隠岐の人が立てたんですね~
ちなみに隠岐は後醍醐天皇が流された話もあるように、尊王の志が元来より強い地でもあって
中沼了三もその影響を大いに受けたんでしょう。
その所縁のとおり、勤王の聖地と言うべき十津川村にも足跡が残されて(→ここ
鳥羽伏見の戦いでは仁和寺宮の参謀となり人望を集めましたが
維新後は三条実美と言った公卿出身高官と折り合いが悪く、栄達できませんでした。

また幕末には徳川譜代・松江藩の支配を脱し隠岐は自治を行っていたこともあり(→ここここ
その精神的支柱が中沼先生でもありました。

中岡慎太郎とのかかわりは
石川清之助こと中岡慎太郎が古高俊太郎(池田屋事件の発端になったとされる志士)に宛てた
手紙が残されている。
文久3年秋の脱藩後、長州に身を寄せた慎太郎は、明けて元治元年には京都へ潜入
長州藩邸を根城に探索活動に入る。
坂本龍馬の場合は京にいる間、薩摩藩邸に入っていたこともあり、ここでも二人は対照的だ。

昨夜は御無礼仕候。然れば御話の大島三右衛門事、概に着京の趣承り申候に付、僕より中沼の
方探索仕るべくやと存奉り候へども未知人に付・・・急に右探索成下されまじくや・・・

このころ久坂玄瑞・高杉晋作と行動を共にすることもあり、特に気の合った高杉とは尊攘派を押さえて
公武合体策を進めていた薩摩・島津久光の暗殺計画を立て、付け狙ったのもこのころである。
上記の手紙は3月に書かれていたもので、大島こと西郷隆盛の上洛を聞き接触を図るべく
(先に寺田屋事件などで勤王同志を圧迫したことから、公武合体を進める薩摩の評判は落ちてきていた。
そこで二度目の遠島から帰還した西郷らが勤王の先駆者としての態度を明確にすべく、大兵を率い
上洛するとの風聞があった)
実弟・西郷従道や中村半次郎(桐野利秋)ら薩摩人が多く通っていた中沼塾の調査を依頼した内容だ。
しかし、古高からの返書は要領を得ず自ら、阿州・西山頼作と偽名を使って入門を頼むが
すぐに土佐人とばれ、恐縮して入門を許されている。
(動機が不純でも?許してくれたんですね~)
この時は西郷との対面は叶わなかったが、薩摩の情報を長州藩邸に知らせる一方
自身の薩摩人との人脈が広がったのだ。
まだまだ駆け出しの志士のころの試行錯誤の話です。。。

近くの烏丸御池交差点には梅田雲浜邸跡の碑
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こちらはかなり古い建立です。
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by enokama | 2009-11-25 23:49 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
京都・霊山の墓前祭の翌日、16日は「中岡慎太郎先生顕彰会」の方にお誘いをいただいて
バスで来られている北川村を中心とする参加者の方と、慎太郎のゆかりの地を訪ねてきました。


8時半に京都駅前を出発、堀川通を上り北山通を超え、国際会館の奥のトンネルをくぐって
岩倉へ参ります。ここは慎太郎とゆかりの深い岩倉具視が幽棲していた所。
実相院前には9時15分ごろに到着。。。
こういったバスで行ったのは初めてなんですが、同じ京都市内でもやはりこれだけの距離感が
あるんですね。
歩くしかなかった時代だと、やはり岩倉具視がどれだけの条件の中で、約5年幽棲していたのかが
偲ばれます。こう言った地でも危険人物とされ襲撃されたこともある一方、夜な夜な人目をさけて
彼に接触した人物も多かったわけです。

実相院の紅葉はまだ早い感じで「床みどり」でした。
展示は600年余りの資料が残されているという「実相院日記」の今回は室町時代編でした。
いつも思うけど、ほんときれいな状態で残されているんですね!
画像は以前(→こちら)の物をごらんください!

続き>>
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by enokama | 2009-11-23 23:21 | 中岡慎太郎関連 | Comments(3)
ミクシィで立てたイベントですが、まだ人数行けますんで
こちらでもご案内します!
今週末ですが、木曜あたりまでに参加希望の方はご連絡ください!


昨年からご要望のありました、秋の特別公開に合わせた幕末史跡を訪ねる
イベントを行います。

集合場所…東福寺駅東口(京阪本線・JR奈良線)
集合時間…11月29日(日)12時30分
(食事を済ませておいてください。日が短い時期なので時間厳守)

退耕庵(鳥羽伏見の戦いで長州藩本陣・戊辰殉難士菩提所碑)
・特別公開は来年の年明け(京都冬の旅)と言うことですが、事前に予約して
 住職さんの都合が合えば、拝観もできるかもと言う話です。
 ↓
即宗院(薩摩藩士東征戦士碑・西郷月照謀議場所跡・・・拝観料200円)
・毎年11月のみの特別公開です

東福寺(方丈八相庭園・・・拝観料400円、国宝龍吟庵・・・拝観料400円)
・例年11月の特別公開。

防長忠魂碑(東福寺三門近く)

鳥羽伏見戦防長殉難士の墓
・三門から10分ほどで山の中腹まで登ります。
 あまり知られていない場所だと思います。

京阪・鳥羽街道駅
 <電車で移動…200円・10分ぐらい>
京阪・丹波橋駅

大黒寺(薩摩藩ゆかり。寺田屋殉難九烈士墓など)

御香宮(鳥羽伏見の戦いで薩摩藩本陣。明治維新伏見戦跡碑)

龍雲寺
・高台にあり、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が大砲を据付け、伏見奉行所を
 砲撃したところ。十津川御親兵墓所。

魚三楼(鳥羽伏見戦の砲弾の跡)

伏見奉行所跡碑

寺田屋
・もう開いていない時間と思いますが・・・

(参考)
http://enokama.exblog.jp/9921662/
http://enokama.exblog.jp/9927809/
解散17時の予定。
懇親会は中書島あたりで考えています!

また要望等ありましたらご連絡ください。。。
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by enokama | 2009-11-23 18:19 | 私の好きな京都 | Comments(0)
3連休は添乗の仕事&準備で、更新とレス遅れてすみませんでした!

なばなの里(三重県長島→HP) はイルミネーションのイベントで16時前から18時半ごろまでいました。
途中、寒い雨が降ってきて人も多いし疲れました・・・(バスもすごい多かった)
けど、とってもきれいでしたよ!
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今年の添乗はおそらく今日でおしまいです。
ブログの旅行&取材記事もたまってますんで、更新を進めたいと思っています!
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by enokama | 2009-11-22 20:32 | 旅行 | Comments(0)
慶応3年旧暦11月15日(日については諸説ありますが)京都・近江屋で談じる龍馬・慎太郎の元へ
一人の男が訪ねていた。
水戸浪士・伊東甲子太郎。新撰組結成に最大の功があった局長の一人・芹沢鴨ら水戸出身のグループを
非行を理由に粛清した後の組織力強化を図って、尊攘の志篤く、弁舌も冴え、もちろん道場主でもある
リーダーシップ・剣術にも優れ、近藤勇が強く望んだ幹部候補で江戸にて入隊した隊士であった。
伊東は参謀の地位に付き、政治的な活動も目立ってきた近藤の目論見通り、慶応元年秋の
第一次征長後の情勢探索(芸州まで入る。この時は長州への寛大論を提言する)
再度翌年2月の芸州行きにも同行。
また第二次征長での幕軍敗退を受けた、その後の情勢では長州の復権を図って
従来から長州に対し寛大に臨んでいた尾張の徳川慶勝への上京を促す使者として当地に赴いている。

しかし従来通り幕府一辺倒に動く近藤らに対し、時勢を読むに機敏な伊東は各地へと赴くたびに
西国諸藩の志士たちと交わることが多くなり幕府への批判を展開、隊士にも彼を慕う者が増えていった。
そして薩摩の後ろ盾もあった分隊(御陵衛士・慶応3年3月「高台寺党」結成)となるのである。
この時すでに薩長にも人脈があった伊東だが「高台寺党結成」と前後した慶応3年2月には
それに先立って、太宰府の三条実美ら京を追われた五卿と接触を図っている。
中岡慎太郎の3月2日の日記にも初めて伊東の名が見え、この年の後半、京に留まり三条・岩倉の
提携を始めとする王政復古や、西国雄藩連合による討幕へと幕府打倒への仕上げに入っていた
慎太郎の日記にも引き続き名前が度々出てくるように、同調した動きをしていたようだ。
実際に新撰組隊士・橋本皆助(陸援隊では大和出身・水野八郎)が御陵衛士を経て
陸援隊に移籍した事例(新撰組隊士とは少しびっくりだが)も見られる。

しかし新撰組にいたと言う経歴もあって一会桑の佐幕派はもちろんだが、討幕派の志士からも「裏切り・
スパイ」との猜疑の目で見られたであろうことは十分想像できる。
例えば、第一次征長後の藩の方針をめぐって高杉晋作と対立した、当時の奇兵隊総督・赤祢武人は失脚し
大宰府に逃れ、京に入って再起を図ろうとしたがその途上、大坂で拘束されてしまう。
そして新撰組に身柄を預けられ、上記の長州との交渉を図った近藤らの使者として潜入するも
理解されることなく斬殺されてしまう。
しかしながら、そんな伊東とも頻繁に会っていた慎太郎は水戸出身の彼の一途な尊攘論を信頼し
同志として遇していたのだろう。
水戸で言えば、住屋寅之介や酒泉彦太郎と言った尊攘論者とも交流があり、京都・白川にて結成した
陸援隊にも、岩倉具視に近い香川敬三を始め多くの水戸浪士がいた。

近江屋で2時間ほど論じた伊東は帰りぎわに、このころますます激しくなっていた新撰組・見廻組
の動きを警告するが、礼を述べる慎太郎に対し龍馬は冷淡だったと伝わる。
経歴のこともあるだろうが、このあたり意外と龍馬より慎太郎の方が、人付き合いに関してはまだ柔軟だった
のかもしれない・・・
そしてその1時間から2時間後、二人は襲撃される。
その経緯から伊東が刺客に二人の所在を知らせたとする説があるが、これは到底信じられない。
しかし伊東本人も行動を追われていたかもしれない。

この両人の暗殺に関し土佐は「新撰組」犯行説をとり、流山にて捕縛された近藤には薩摩の反対
を押し切り斬首とした。
暗殺のころ土佐はまだ表面上には会津と友好関係が残っていた。
この事件を契機とし会津との縁を完全に断ち切り、討幕への道へと後戻りできない状況へと
藩討幕派が向かわせたかったのだろうか・・・

そして伊東も慎太郎が息を引き取った翌日に暗殺される。
あまりにもひどい最後で、その後の処置もむごく武士道も誠も何もない・・・卑怯なだけである。
この才子には、入ったのが新撰組だったのが間違いだったのだ。
ここにも水戸浪士の多くが受けた悲哀があった。

合掌。。。
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by enokama | 2009-11-18 22:37 | 歴史全般 | Comments(2)
11月15日。京都・近江屋で襲撃された坂本龍馬は、ほぼ即死。
下僕・藤吉は16日に息絶えた。
中岡慎太郎は一時、焼き飯(焼きおにぎり茶漬け)を食すほどだったが
17日、岩倉具視に後事の伝言を託し逝った・・・

改めて彼の行った数々に偉業をたたえ、合掌したい・・・


僕も実際にお会いしたことがあるのだが、前高知県佐川町・青山文庫館長(現・名誉館長)の
郷土史家・松岡司氏は現在、たくさん出版されている龍馬本の中岡慎太郎に関する記述の多くを
書かれていて「幕末維新の最大の功労者と言っても過言ではない」「維新後の活躍を最も見てみた
かった人物」と最大級の評価をされている。
僕も当然そうなのだが、まだまだ世間への周知は物足らず、これからの課題とも言える。

僕が見たかったのは慎太郎の行政官としての姿だ。
彼には、北川郷のやせた土地に暮らす農民たちの生活をどう成り立たせるかと言った困難な
治政を行う庄屋としての原体験が、幕末での志士活動につながっていた。
もし彼がこの日井上聞多のように蘇生したとしたならば、同志だった板垣退助の言葉にもあったが
「大久保利通と並ぶ参議になっていただろう」
脱藩後に故郷に送っていた慎太郎の手紙の多くには常に、北川郷の農民の生活を心配する文言があった。
もっと国民の目線に立った施策に向かっていたのは間違いない。
新政府の二枚看板の木戸・大久保は協調できたらいいものが、反目する一方だったし
「征韓論」(と言われる)での政変でも、その存在があったならどう変わっていただろう。
岩倉・三条・大久保・西郷・木戸・板垣、彼ら当時の政府首脳たちを幕末時に結びつけたのは慎太郎だ。
井上・伊藤・山縣らは、高杉とさしで話のできた彼には頭が上がらず勝手な事はできやしない。
この政府でおそらく洋行を体験して重みを増した慎太郎がいたならば、この手の周旋には最も
長けていた手腕を持って穏便に収めていただろう。
ましてや敬愛する西郷を死なせることなどできなかっただろう・・・

確かに彼は新しい国家に必要な人物だった。
収まるべきポジションがあって、その席には変わる人材がいなかった。
この日、大事な何かが無くなってしまったのだ。
日本にとっても大きな損失だったと言える。。。
改めて、冥福を祈りしたい。
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by enokama | 2009-11-17 23:42 | 中岡慎太郎関連 | Comments(6)
(去年の記事→こちら

天気予報通り、すっきりと晴れた日となりました!
紅葉はまだまだって感じで、いつも思うんですが年々遅くなっている気がします。。。

去年の人出もあったので、朝早めの10時半にファンの方と合流。
この時間だと恒例の北川産の軍鶏を使った「軍鶏鍋」は、まだ仕込み中でした・・・
そして、この日だけの(龍馬・慎太郎)名刺で入って、両名の墓参をじっくりすませてきました。
結局は「よさこい」の学生さんの行列整理もあったようで、去年みたいな長大な行列は午後からも
見られませんでした!


北川村の本隊は1時ごろ到着とお聞きしてましたんで、合流するまで霊山歴史館を見学。
岩倉公関連の資料が多数出されていて、香川敬三「草莽姓名録」は五卿随従士中心で土方久元・
石川誠之助・・・と言った並びが新鮮でした。
岩倉なので徳川討幕に関する密勅などは生々しいものです。
後、印象に残ったのが天誅組で散った那須信吾の血染めの旗や、遺品の皮袋等はよく残されて
いたなと思いました。

そして、一番衝撃的だったのが土佐の上士で勤王党に走り「五十人組」の代表になりながらも
問題児だった宮川助五郎が吉原遊女と、はべらかしている写真。
まあ、当時の武士からしたら、こんなだらしない場面をよく撮らせ残させたと思うんですが
そんな人間だったんでしょう(苦笑)
慎太郎の有名な笑顔写真も気にしてしまって、自ら女性は消してしまったことを感じると
人間性がよく出てますね。。。
のち戊辰戦争に米沢藩へ軍監(だったと思う)で赴任した宮川は、あの悪名高い長岡の岩村精一郎(高俊)
よりも、たちが悪く高慢だったと記録に残っているそうです・・・
一説には近江屋の龍馬と慎太郎の会談の理由が、この宮川の処置だったといいますが
わざわざ両巨頭が相談するほどの人物だったのだろうか。龍馬とは接点がないように思うし慎太郎の独断
で陸援隊に引き取ったらいいだけじゃないかと(実際、陸援隊の「高野山屯集」に参加している)
そんな宮川ですが遊びも祟ったのか?戊辰戦争の後、ほどなくして早逝してしまいます・・・

1時前に村の皆さんで墓参
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この後は北川村のテントの前にいたら、中岡慎太郎のことをよく書いてるブロガーさんが
集結していました(笑)そして顕彰会に揃って入会しました!
また顕彰会のHPができたら、それぞれリンクして連携もできて行ければいいですね。
私も顕彰会の窓口の一つを任されることとなったんで、また問い合わせください。。。

4時半に墓前祭が終わって、霊山で「龍馬伝」関連の地域(高知・長崎・鹿児島・山口)の方が
合同でキャンペーンをされていたんですが、境内での「よさこい」と一緒に京都駅に移動すると言うことで
我々も駅に行こうとしたんですが・・・今の時期の京都ですんで、この時間の南行きがマヒしてまして
(五条坂や四条は動いてなかったみたい。霊山からのバス移動が1時間以上かかったとか・・・)
なんとか裏道でタクシーを拾って、抜け道を行ってもらい30分ほどで行きました!

その京都駅前で
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今日(16日)の行程は改めて・・・
お世話になった皆さんのブログには、また訪問させていただきます!
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by enokama | 2009-11-16 23:50 | 私の好きな京都 | Comments(4)
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ブログで霊山での今日の予定を書いていたら、たくさんの方に声を掛けていただき
北川村の皆さんを始め、全国の中岡慎太郎ファンの方々。
いつもの「維新」のメンバー、霊山社中、大阪龍馬会の皆さん。
霊山歴史館の常連さん、名古屋の冨永さん・・・
日曜日でもあって、たくさんの方にお会いすることができました。
ありがとうございました!

お知らせしていた「中岡慎太郎先生顕彰会」にもたくさん入って頂けました。
また、いろいろ企画して盛り上げて行きたいと思います。。。
これからもよろしくお願いします!
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by enokama | 2009-11-15 20:52 | 私の好きな京都 | Comments(4)