エノカマの旅の途中

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旅と歴史と競馬のお話をします

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最近の飯田君の年間勝ち星って15ぐらいで、大半が中京あたりの小回りのものなんで
そう現地に行って、しょっちゅう勝つ所を見ることは難しい。
でも過去記事振り返ったら、3日に1回はウイナ写真撮っているよな・・
今日は4鞍で、8Rのメイショウルシェロぐらいが勝てそうだなと思ってたんですが
4R新馬戦・単勝8000円超の人気薄で、びっくりの勝利でした!

09.6.28 阪神競馬 新馬戦1200・勝利  
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ゴーオンホーマン(父 フレンチディピュティ  母 ホーマンキュート)

母・ホーマンキュートは、やはり飯田厩舎所属で中距離ダート路線・準オープンクラスで活躍。
走ってもおかしくない血統ですが、稽古がも一つで新聞の印は薄かったです・・・
こんだけ走る馬だったら陣営も、もっといいコメント言っといてほしかったな。。。

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by enokama | 2009-06-30 22:16 | 競馬 | Comments(2)

宝塚記念2009

土日は梅雨の中休みってことで、あちこち出かけてきました。
けど、暑さにはたまりません。こんな、昔は暑くなかったやろ・・・

日曜日は久しぶりに競馬観戦でした。
このブログは今は歴史にほぼ特化しかけてますが、始めたころはちょっとした競馬予想もしてて
結構当たったりしてたんです・・・
まあ、そんなのいつまでも続いたりしないんですがね。


朝は友人に7時半ぐらいから並んでもらって、室内スタンドの席を取っておいてもらいました。
そういや、ここ3年の宝塚記念は雨ばっかりなんですね(過去記事にも載せてます)
やっぱり天気が一番です。。。まあ、でも屋外で見てる人は大変そうでした。
ちょっと出たら、やけどしそうなぐらいに暑かったし・・・
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by enokama | 2009-06-29 23:50 | 競馬 | Comments(0)
今回、鞆に絶対行きたいとは最初考えてなくって、候補の一つにはしていたんですが
日程的に山口だけに絞った方が楽かなとも思って
袖解橋や湯田、鋳銭司あたりに行こうと(所さんの本墓もあるし・・・)決めかけていたんですが
「山口の史跡はずっと残るだろうけど、鞆は早いうちに行ける時に行っておいた方がいい」
ともいろんな方にアドバイスもいただいて、鞆に行くことにしました。
(結果的に今年の間に行けて、本当によかった)

鞆のメインストリート
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散策にはいい町だなと見えます。
整備された宿場町とかだったら車の乗り入れができなかったり、電柱もなかったりするんですが
ただし、こちらの道には車がたくさん通ります。一方通行にもなってません・・・(離合も困難)
そう、観光するのだったらバイパスさえ整備されていれば、そちらに生活車両が流れるので
安心してゆったり散策できるものです。
しかし、ここには今も住民の生活が残ってます。「○○家住宅」って他の地区だったら、観光用に
改装して見せたりするものですが、残っている江戸・明治期の住宅も、まだその多くが現役なのです。
メインストリートでさえ、この道幅にすぎず、江戸時代の古地図がまだすっぽりあてはまります。
それが「鞆」と言う港町です・・・
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by enokama | 2009-06-25 21:39 | 歴史連載 | Comments(4)
鞆は寛文12年(1862)に河村瑞賢が西周り航路を整備してから、北前船などの商船も立寄るようになり
商家が立ち並び、隆盛をきわめた。
(庄内・酒田に銅像があったように、河村瑞賢と言う人は江戸時代の港には必ず話が出てきますね。
また、機会があれば調べたいです)
また、鎖国の時代の「朝鮮通信使」「長崎・オランダ商館長の江戸参府」も必ず、ここに立ち寄り
海外の文化も入ってきた。

福禅寺(向こうに見えるのも、古刹の円福寺)
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by enokama | 2009-06-24 21:33 | 歴史連載 | Comments(5)
5月28日(木)
新大阪6:50発のひかりで、福山には8時に到着。
目的は、かつて賑わいを見せた港町・鞆の浦で
往時は潮待ち・風待ち(潮の流れが変わる地点であり、満ち引きのタイミングを利用して船は航行していたため)
の地として、必ず瀬戸内を航行する船舶は停泊し、商家が軒を連ね、独特の天然の円形港湾にはかつての
常夜燈・雁木・波止場と言った当時の港湾施設等が、今も手付かずで残っています!

最近は「坂本龍馬・いろは丸談判場所」として
ガイドブックには必ず載るほどの龍馬のゆかりの場所として知られ、その関連の住宅・寺院は
ほぼ当時そのままの姿で残っている場所であります。
また中世には、政治の地となっていた時期があり(福山に移るまで)その流れを汲む古寺も
多数残っています。
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by enokama | 2009-06-23 23:55 | 歴史連載 | Comments(4)
2006年に公開された「長州ファイブ」(→DVD)
以前見たんだけど、安くでDVDが手に入ったので、改めてじっくり見てみました!


最初のシーンが薩摩による生麦事件の異人斬り、そして高杉晋作ら長州攘夷派「御盾組」による
御殿山のイギリス公使館焼き討ちで
まだまだ「異人斬るべし」の声が強かった文久2年の暮れ。
「果たしてこのままの攘夷がいいものだろうか?」彼らはやりきれない思いを、女と酒に走らせる・・・
そして井上聞多・伊藤俊輔は、信州松代の傑物・佐久間象山に会いに行く。

象山役は泉谷しげる。
座して待つ二人に、一戦(性)交えてから「子種を増やすには良い畑が必要。だから、美人よりケツの
大きい女に限る」
(このあたりのシーンまでは、B級の幕末映画みたいな作りなんですが 笑・・・一応、文化庁後援)
そしてこの異才は、世界の技術を語り「敵を知り 己を知れ」「夷の術をもって 夷を征す」と諭す。
そして、戻った聞多は密航覚悟での海外渡航を藩に願い出る!
(長州言葉は「生きたる器械」が「きけい」ってなったり「航海術」が「こうけい」って発音になるんですね)

本当のところ聞多らは直接、象山に会いに行ったわけじゃなく、久坂玄瑞からその様子を聞かされている。
久坂は12月12日に「御殿山の焼き討ち」に加わった直後に、水戸~松代へと遊学に出ています。
そして同行していたのが、土佐のまだ光次(こうじ)と名乗っていたころの中岡慎太郎。
久坂って人は僕は正直、勉強不足なんですが「航路遠略策」の長井雅楽を死に追いやったり
激しいテロも辞さないような攘夷論をぶっている彼が(今回のこともあるし)一方ですんなりと
海外知識を受け入れることができるのかなとも思うのですが
象山は「長州の者は大変明敏なのに、土州の者は頑固で辞退すれば刺し違えるかと思うような
激論になった」と記し(らしいな・・・)この後、慎太郎は久坂の考えを「時勢論」にまとめたりして
大いに影響を受けたようです!

正式な渡航は国禁でできず、黙許で「そうせい」と許した毛利公が榎木孝明。
密航の資金を用立てる(藩の用意した費用では足らなかった)村田蔵六が、周防出身の原田大二郎
(大村らしい雰囲気出てました)
一人千両、用立ててもらい(藩の用意した手許金は出国までに、パーっと使ってしまったとか 笑)
断髪・洋装となり、武士ではこれ以上の屈辱で、後のない覚悟を持って彼らは旅立ちます。
船上では甲板みがきから、用を足すシーン(便所はなく、船から突き出た板に乗って海上へ。
落ちないように体をロープでくくりつけている)が印象的でした。

ロンドンではすぐに攘夷の不可を悟り(一方、俊輔はしっかり娼婦と寝てましたが・・・洋装でも白ふんどし
は笑った。そこで文明国の裏側の格差を知ることとなる)
聞多・俊輔は滞在半年ほどで長州の事変(下関攘夷戦)を知り急遽帰国するが、その後の活躍はめざましいもので
「密航者」がのちの総理大臣になったのだから、あまりにもドラマチックな人生だと言えますね。

最後は山尾庸三が、さらなる勉学を求めて工業都市・グラスゴーへ(たまたま会った薩摩留学生から
のカンパを受けて行ったのは実際の話。薩長の恩讐を越えて「日本人」と言う自覚を彼らは持った)
そこの造船所で自立して働く聾唖者(造船所は騒音がうるさいので、逆に働きやすい環境にあった)を見て
山尾は帰国後、工部大学校(人材育成を図り、工業を興す)と共に聾学校の設立にも奔走します。
このあたり、最初の方のシーンとは全然雰囲気の違う話になってますが、聾唖者・エミリーの一つ一つ
の言葉は重みがあって印象に残りました(「蛍の光」のエピソードもありましたね)

野村弥吉(井上勝)は、明治の鉄道の父となり敷設に奔走「日本人の手だけでのトンネル建設」
また退官後は、同じく米国留学中に鉄道(とベースボール)に夢中となり、技術を学んで帰ってきた
平岡凞(ひろし・旧幕臣の子)と共に、汽車製造と言う会社を作り「日本初の機関車」の製造に取り組みました。

遠藤謹助は造幣畑を進み、お雇い外国人と対立をおこしつつも(北海道の黒田清隆あたりも
そんな気概があった)日本人技術者だけでの造幣に取り組みました。
「桜の通り抜け」もよく知られた話です。


彼らは技術を学びつつも、またそれと違った精神も学んで帰ってきました。
文明国であっても起こる「持つ者と持たざる者」の違いも知りました。
また「攘夷」の点では「自分たちの手で成し遂げる」と言う精神に転化していき、自立した海外に対抗
できる工業国へと進化して行きました。

ぜひ、見て欲しい映画です!
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by enokama | 2009-06-22 22:58 | 長州藩 | Comments(10)

一個人の「龍馬特集」

出ていたのは知ってたのですが、置いてない書店もあったので
少し遅れてのレビューです!
去年出た「サライ」の特集(→記事)は
僕もグタグダ書いているように不満だったんですが(苦笑)
今回はライターが巻頭の霊山歴史館の木村先生を始め、伊東成郎氏や菊地明氏と言った
歴史研究の専門家が揃っていたこともあって
いつも龍馬特集が出ると「中岡慎太郎がどう書かれているか」を、第一に気にしてしまう僕にとっても
非常によくまとまっていて、龍馬の真の姿に迫った記事が書かれていたと思います。
いつも思いますが、伊東さんはほんと良く調べているし、一番わかりやすいです。。。

「薩長同盟」には月形洗蔵と慎太郎の名もあるし、「暗殺」各論の否定も理にかなったものです!
(峯吉は確かに怪しい感はある)
慎太郎は常に「薩長同盟」「大政奉還」と龍馬の一歩先の考えを持っていたともありましたし
(武仁さんが書いたのかな?)

最後の方の「龍馬ゆかりの地」は特に長崎が充実していてよかったです。
京都の「明保野亭」は?ですが・・・
あと「霊山歴史館」の成り立ちも、木村武仁さんが説明(85ページ)してます。
設立当初はなかった新撰組の資料も、学術的に疑問視された(教科書には載らない事柄だし)時期
があったものの、時代の流れとともに定着していったエピソード・・・これは初めて聞きました!

これはぜひ、保存版でお買い求めください!

(更新情報)
6月10日の記事→追加しました
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by enokama | 2009-06-18 23:40 | 土佐藩 | Comments(7)

平尾道雄「新撰組史録」

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平尾道雄氏と言えば、土佐維新史研究の第一人者として代表的な作家で
「海援隊始末紀」「陸援隊始末紀」を始め、板垣退助・谷干城・間崎蒼浪(哲馬)・・・
と数多くの土佐の人物伝を、次々と世に送り出してきた。

だから某寺の文庫で見かけた時、平尾氏が新撰組本(他に「戊辰戦争」もあった)を書いていたんだ
と意外な思いをしたものだ(逆に新撰組本から平尾氏に入った人は「土佐史」が意外らしい。
「奇兵隊」も書いているらしくて、こちらはまったく未見なので、図書館等である場所をご存知の方は
教えてください!)
スタイルは多数の資料を引用して「実証作家」として、一連の出来事を脚色無しでまとめていて
その原点がこの「新撰組史録」である。後の作品もほぼそれを踏襲している。
だから同時期に刊行された(昭和3年)子母澤寛の「新撰組始末紀」は、その色恋の話や個々の
隊士像は「どこからどこまでがフィクションか忘れた」と子母澤氏本人が語るほどであり
「動」と「静」と言える違いとも言える。

元々は戦前の刊行なので、新撰組=近藤勇と見られることが多かった時期で
当然ながら平尾氏本人は、近藤の子孫への取材を基に書かれている。
そのきっかけが、多摩に明治天皇の聖跡記念館の建設計画があった際に、宮川家に保存される
近藤勇の建白草案を陸援隊出身の伯爵・田中光顕が読み、その尊攘思想の至純さに驚き
「これは我々と同一方向をとるべき同志だったはずだ。ただ立場の相違がお互いの運命を決定した
のではなかったか」と語ったことが、平尾氏の執筆の動機になった。

近藤勇の捕縛の際、東山道総督府内の主に薩摩と土佐の間で処置について対立があった。
薩摩はこの頃の傾向で寛典論を(函館でも見られた)土佐は厳刑を主張した。
この中に陸援隊出身・香川敬三がいて、隊長の中岡慎太郎を殺害されたり、多くの同志たちが
見廻組・新撰組から受けた怨恨もあり、谷干城も終始「新撰組犯人説」を唱えてその手記に
「徳川より爵位を賜れ何隊の長と命じたるにも非ず その上今は徳川に関係なし 我より見る
浮浪博徒と変わり無し」
安岡亮太郎(のち良亮。熊本県令時に「神風連の乱」が起き、殺害される)も
「一命を旦り 度の姿 誠にも何も似ぬ 卑劣の男なり」と酷評。
そして同一の方向でもあった人物を極刑に処すのである。

その近藤の思想面をかなり重点的に書いてあります。
平野国臣に対する執拗な捜索や「ぜんざい屋事件」も土佐側から見た目もあって、興味を引く
記述があります。
最近は新撰組研究も進んでいるので、違った記述もあるかもしれないですが
真実に近い、幕末の一連の流れの中での「新撰組」の意味付けを、知ることのできる好著だと思います。

おそらく平尾氏の著書が書店に行って、唯一手に入る作品になります。
代表作品「海援隊始末紀」「陸援隊始末紀」は、司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を執筆した際に
かなり引用した形跡があります(もちろん、それを基にしながらフィクションを加えている)
この時に「正しい歴史を伝えると言うよりも物語として書いている。正しい史実を知りたい方は平尾
さんを読んでください」と司馬氏本人は語っています。
でもその「正しい史実」を知る作品が、本屋に行ってもない現実があるんですね。
だから「竜馬がゆく」の竜馬が本物だと信じ込んでしまう人が多いんだ(それはそれで別にいいですが)
でも、その影で隠れてしまう人物も出てくる・・・もっと真実に近づきたいと思う人は多いはずです。
「新撰組史録」もかなりの要望があって、復刊されたもの。
ぜひ、この2冊も復刊してほしいです!
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by enokama | 2009-06-17 23:54 | 歴史全般 | Comments(4)
13日の土曜日は「適塾→中之島図書館」と、ここ月一あるパターンで過ごしました。
(適塾については金曜の記事に追記)
図書館で見たかったのは、中岡慎太郎の日記についてで
尾崎卓爾「中岡慎太郎」・宮地佐一郎「中岡慎太郎全集」と読んできました。

この2冊は、数少ない中岡慎太郎関連の伝記・小説ですが、それらの基本的な引用となる
中岡慎太郎の日記が収録してあるものです。
尾崎氏の著書は以前にも触れたことがあるのですが、一旦この時点で死んだとされる人物が
次の項目で出てきたり、暗殺時の慎太郎の見舞いに乾退助がいたり、細かい突っ込みどころは
多いのですが、大正15年の刊行でもあり地元古老の伝え聞きもあったりで、初の本格的な慎太郎の
伝記だったものです。
巻頭で慎太郎関連の史跡の写真、巻末に慎太郎の日記「海西雑記」「行行筆記」等の完全収録。
ちょっとびっくりしたのは、この「中之島図書館」蔵の書籍は、まだ昭和初期まで生きていた伯爵・
田中光顕の寄贈本だったようで、本人の直筆のサインが入っています!(ほんときれいな字です)

「中岡慎太郎全集」は1990年代の刊行で、実際にファンで持ってる方も多いようです。
(今はネットで捜したら、中古で4万以上してる・・・)
まだ新しいし、慎太郎以外でも佐佐木高行「保古飛呂比」「寺村左膳日記」「皆山集」と言った関連
文献が多数引用されています。
僕は日記を完全に読むのは初めてだったんですが
「ト一(愛人)来る 宿す」「入湯六度」(二日市温泉で1日6回、温泉に浸かった?)義兄、北川武平次の
上洛(慶応2年11月24日)などの私的なことから
岩倉との対面、西郷・吉井らとの工作、乾の上京後の小松・西郷らとの対面。
意外なところでは、宇和島藩家老・松根図書や水戸の住谷寅之助・酒泉彦太郎と何度も逢っていること。
「五卿動座」から「薩土盟約」まで、彼の性格も知れて、これは凄い史料だと思います。
また巻末の寄稿で、一坂太郎氏が福岡脱藩で同志によって粛清される中村円太・土佐脱藩で三田尻
にて割腹した田所壮輔について、論文を書いているのも読み応えありました。

慎太郎については、この2冊と「ライフログ」に載せている4冊で、ほぼ知ることは出来たかと思います。
新たに「龍馬伝」にむけて何か出ないかなとは期待してるのですが、動きはないですね。
(出演自体があまり期待できないも知れないですが・・・)
関係者の方に聞いても研究している人がいるのかどうか?
執筆旺盛な一坂氏だったらいい題材と思うんですがね。

「龍馬暗殺」の議論は相変わらず盛んですけど(馬鹿な理論をまともに話す専門家も大概だが・・・
後藤や西郷を本当に知ってるのかと言いたい)
なぜ、数々の修羅場をくぐりぬけてきた両人が無防備な場所・態勢で一緒に殺されたのか(逆説に言うと
その場所が安全であると言う確証があった)
今回見た慎太郎の日記でも改めて感じたが、この人脈は凄すぎるの一言(ほとんど新政府の要人になってる)
なぜ、その慎太郎を「巻き添え」だけで片付けてしまうのか、また明治以降忘れ去られた存在になったのか・・・

中岡慎太郎については記事も(関連史跡もほとんど回った)たまってきたし、今回の日記も分析して
「龍馬伝」に出番が来るまでぐらいに、何回かに分けてまとめて行きたいと思っています。
(黒田清隆も書こうと調べてたんですが、その後にします・・・)
それまでに本を出す人はいるのかな?
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by enokama | 2009-06-14 14:20 | 中岡慎太郎関連 | Comments(10)
適塾特別展示「緒方惟準(これよし)の生涯」
(→こちら
6月14日(日)までなんで、もう時間はあまりないのですが
大阪・北浜の適塾にて、緒方洪庵の次男で洪庵先生の死後に緒方家を継いだ惟準
の特別展示があります。
明治維新後、適塾を発展させた「大阪医学校」を名蘭医・ボードインと共に創設し
大阪医学の基礎を築きました。
適塾出身の大村益次郎の遭難時は、惟準とボードインで手術(足を切断)したことが知られています。
ボードイン関係のノートや、惟準の翻訳書など普段見られない展示がされています。
僕も土日のいずれかに行きたいと思っています!

(2009年6月14日 追記)
行ってきました。
通常の展示より100%増しの内容だったので 、大変充実していました!
案内にはなかったんですが、大村益次郎が亡くなる20日前に三条実美に書いた手紙
(ボードインに払う給金に困るほど現状「大阪医学校」が窮していること。東京での政府への出仕が求められている
惟準がいなくなると、ボードインは辞めるだろう)
があって、その字体のなぐった(ちゃんと座した状態で書いていない?)感じが印象的でした。
後一通は郷里の父宛の手紙で「彰義隊殲滅」~「会津落城」を淡々と彼らしく書いていました。

今でも通用しそうな「緒方病院」の開院案内。
惟準の翻訳した医学書や、北陸へ遊学中に母・八重からもらった手紙など、いい展示を見れました!


更新情報(画像追加)
(2008年6月 一心寺・会津藩士墓所
(2008年6月 安居神社・真田幸村
(2008年9月 大阪松屋町・ぜんざい屋事件
 
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by enokama | 2009-06-11 23:10 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(4)