エノカマの旅の途中

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ちょっとバタバタしてますんで、しばらく更新はボチボチになると思います・・・

先週の土曜~日曜日は大阪にいました。
しばらく大阪へ行く仕事がなかったんで、インフルエンザで大変な時期に久しぶりに電車に乗りました。
電車内は8割方がマスクらしいと言うことで、着けないと顰蹙物なのだろうか?と一応は用意したものの
していたのは、ほぼ半分ぐらいで街中はもっと少ないぐらいでした。
学校も今週からほぼ平常ですし、もう一段落でしょうか・・・
しかし、もっときつい流行が秋にもって噂もありますし、マスク等の対策は今の間でしょうね。

土曜日は、「維新」メンバーでの飲み会でした。
いつも濃い歴史話ができて楽しかったです!
そして今週は山口~九州へと霊山歴史館の旅行と絡めて、歴史散策してきます。
一ヶ所、福山(鞆ノ浦)と山口(市内~湯田周辺)のどちらに行くか迷っていて、皆さんに相談したのですが
鞆ノ浦は数年後、どう変わってしまうのかわからないので(この件はレポしてきたいと思ってます)
今、行っておく方がいいとお話を聞いてきました。
それで予定はこちらです(木金は有休を取ります!)

5月28日(木)
福山(鞆・桝屋、魚屋跡、福弾寺、円福寺など~福山城周辺)-下関(吉田・高杉晋作東行庵~
下関駅周辺で泊)

29日(金)
下関駅周辺(桜山神社など)-長府城下町(功山寺・長府博物館など)-みもすそ川(壇ノ浦砲台跡など)
ー赤間神宮周辺(伊藤邸跡・春帆楼など)ー<人道トンネルか船>-門司港ー<電車かバス>-
佐賀市内か長崎(泊)

30日(土)
長崎港(13時に霊山グループと合流・以下予定)-出島地区ー料亭・花月ー寺町(皓台寺・・・
近藤長次郎の墓)-小曾根邸跡ー長崎歴史博物館(長崎奉行所跡)-稲佐山(泊)

31日(日)
矢太楼ー龍馬像(風頭公園)-亀山社中周辺(展示場)ーグラバー邸ーシーボルト記念館ー(帰路)

ちょうど来年の大河「龍馬伝」のポイントを押さえるようなコースにしました・・・
しっかりレポしてきたいと思ってます!
あさって早朝発つんですが、もしここがいいとか情報いただけたらありがたいです。。。

次の6月6日(土)は連続の行事となりますが、霊山歴史館の土曜トーク「甲州道中と新撰組」
を聞きに行ってきます。
おそらく土佐の板垣退助らの動きや、赤報隊あたりが出てくると思うんですが(新撰組の甲州絡みって
おそらくこのことですよね・・・)
また、質問できたらしてきます・・・


土曜はしっかり3次会まで行ってましたので(笑)
泊まってきました。
日曜は市内で、各所の写真を撮ってきましたので、またアップして行きます!
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by enokama | 2009-05-26 22:21 | 総合 | Comments(2)

オバQ

オバQと言っても「空を飛べる」お化けではありません・・・

大洋ホエールズ(鯨です。今の海星団じゃありません)の最後の和製大砲・田代富雄のことです。
顔が似てるのとも、ポンポンお化けのように打球を飛ばすとも、定かではないのですが
1試合で2本とかホームランを打ったら決まって「オバQ連発」の見出しが載ったもんで、なんか子供
ながらもワクワクしていたのを覚えています(笑 30歳以下は知らないだろうな・・・)

その田代さんが不振の横浜ベイスターズの監督代行に!
その「オバQ」の見出しが、20数年ぶりに新聞を飾ってます(記者にもファンがいるんだろうな 笑)
田代さんが引退してからの横浜大洋~横浜はクリンアップが外国人(白ローズとか)で「和製大砲」が不在でした。
しかし、コーチに復帰後は多村(現福岡)・村田・内川と言った自身を彷彿させるスラッガーを生んできました!
彼らからの人望もかなりあるそうで、監督代行就任後はそれまでの貧打が嘘のように打ち勝っています。

チームはしばらく低迷してますが、いつかは「オバQ 胴上げ」の見出しを見てみたいものです!


もう少し野球ネタで、久しぶりに金曜日「オリー阪神」見てました。
パとセの違いはありますが「0-3」のカウントでも平気に打つのと(ファーストストライクでも積極的)
金本新井のように「待球」で四球を選ぶ傾向と、違いは出てましたが結果はこうなるのです。
積極性や結果を恐れない思い切りの良さ、そのあたりの物足らなさが現状の阪神の低迷に
現れてるんじゃないでしょうか・・・
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by enokama | 2009-05-23 10:53 | 総合 | Comments(0)
この月曜日のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」は、奄美大島・龍郷町が舞台で
西郷隆盛が錦江湾で、僧・月照と入水を図ったのち蘇生し、潜居していた住宅が紹介されていた。
安政6年(1859)1月から(この年の10月に盟友の橋本左内が処刑されている)
文久2年(1862)1月までの約3年間の奄美生活で、島妻・愛加那を娶り子供も二人授かっている。

初めて映像で見ましたが、不自由な離島生活でもう少し質素な住宅かなと思ってましたが
はるかに立派な住宅に思えました。
これはもう奄美生活も3年たち、西郷さんもすっかり馴染んだころ、藩からの召還命令も当分ないとふんで
文久元年(1861)12月に、島の人たちの協力で(奄美の人に聞きましたが、西郷さんは島の不正役人を
糾弾したり、村の子供たちにも教育を行ったので、鹿児島以上に神様の様に尊敬されているそうです)
立派な家を建てて、ちょうどその新築祝いをしていた時に「召還命令」が来ました。
年が明けてほどなく薩摩本国に戻ってますから、あの家にはわずかしか住んでいないんですね。

また、島妻は本国には連れて帰れない決まりになっていたので離れ離れになってしまうのです。
のちに一度、妻子とは再会し、維新後には二人の子供も西郷さんは引き取っていて、息子・菊次郎は
のちに京都市長も務めるようになります(だから、菊次郎の写真が飾ってありました)
島に残った愛加那は番組にもありましたが、親類から養子をもらって、その後もあの家に住み続けたのです。
だから、島には西郷さんの子孫は残っていないのです。

やっぱりバスで来る団体もあるんですね。。。
確かやせた西郷さんの銅像もどこかにあるとも(のちの島流しされた徳之島かもしれませんが)
聞くのでまた、機会があればぜひ行ってみたいと思います。

関連記事
霊山歴史館の4月の講演

本題です>>
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by enokama | 2009-05-20 23:55 | 歴史全般 | Comments(6)
今回、桶狭間へ再び出向いた理由はイベント内容が大変濃く(資料展示、史跡めぐりツアー、講演会
慰霊式典&万灯会)
ほんと満喫できそうな内容だったからです。

でも生憎の天気で、荒天の場合できないイベントも出てくるのでは・・・
新幹線乗ったらそんなに時間はかからないけど、やっぱり遠い所なんで徒労になるのもいやですし
とり合えず当日は京都駅8時にタイミングで自宅を出て、携帯での天気チェック&外の様子で判断
(行かない場合は、淀に行って飯田君の応援でもしようかなと思ってた・・・)
降水確率60~70%で終日推移してなんとかなりそう・・・
新幹線に飛び乗って名古屋へ。
名鉄線で急行・鳴海まで、普通に乗り換えて有松まで行く。このあたりは慣れたものです(笑)

駅に9時半過ぎに到着。でも「桶狭間古戦場まつり」って、のぼりとか案内はまったくなくって
「有松絞りまつり」(再来週。こちらは結構有名です)の方の、のぼりだけしか見られないんですね。。。
豊明のまつりの方は他地域からの入り込みもあるようですが、こちら緑区のまつりは地元の方中心の
手作りのまつりでした。またそれはそれで、ふれあいもあり、いろんなお話もできてよかったです!

桶狭間地区(ちなみに桶狭間の地名は豊明にはない)は駅からは徒歩15~20分。
「桶狭間太鼓」の演奏が聞こえ、今川義元討死の場所とされる田楽坪(桶狭間古戦場公園)で
慰霊式典が始まりました。
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来年は戦いから450年になります。
駿公墓・・・(駿河の義元の意。建立年は不明)
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続き>>
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by enokama | 2009-05-19 23:41 | 戦国ネタ | Comments(2)

桶狭間古戦場まつり2009

桶狭間古戦場まつりに行ってきました!
一般的に検索をかけたら豊明市の祭り(6月初旬)が出てきますが、今日は名古屋市緑区桶狭間地区
のまつりです(最寄は名鉄有松駅です。中日新聞の記事

今回も以前こちらを散策した時に、ご一緒したdohalandさんに大変お世話になりました。
侍好きのG・ルーカス監督に、愛知舞台で映画を撮ってもらうべく巻物への署名活動と
愛知案内のための「プレミアム観光BOOK」を作成(中)されています。
今回、こちらの会場でも署名をお願いしてきました。あたたかい声をたくさんかけていただいて
一緒にいた僕もうれしかったです。。。
ありがとうございました!
(愛知侍プロジェクトHP)
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こちらの地域との関わりの経緯は過去記事を貼っておきます(僕には珍しい戦国ネタですが)
豊明と緑区の「二ヵ所の桶狭間史跡」についても触れてます!
一部、今回の再訪で加筆訂正しました・・・
2006年5月
2008年4月 その1
2008年4月 その2
2008年4月 その3
2008年4月 その4

一応、予習ってことでお読みください(笑)
また今回の記事、順次更新して行きます!
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by enokama | 2009-05-17 20:15 | 戦国ネタ | Comments(0)

平井加尾ってどんな人?

広末涼子が来年の大河ドラマ「龍馬伝」で、初恋の人・平井加尾役で出演!

昨日のこのブログのアクセス数、一瞬あせりました(汗;;)
3桁越えただけじゃなく390のアクセスです・・・
この記事
でのことでしょうけど「龍馬伝」(新聞記事)の注目の高さや「平井加尾」ってどんな女性だろうかと意外に
知られていないことも原因でしょう(だから記事で取り上げている人が少なかったってこと)

たぶん僕の書いた記事ではある程度、土佐勤王党について知っておかないとわからないかも知れませんが
新聞記事も「平井収二郎の妹」と名前がきっちり出てきたので、嬉しい方向に行ってると思います。
たぶん龍馬の脱藩の経緯で出てくるのでしょうが、だったら吉村虎太郎や間崎先生あたりも確実に期待・・・
できますよね(笑)

それにしてもなんでキャスト発表・・・小出しにするのかな(苦笑)
僕としては中岡慎太郎はもちろんだけど、後藤象二郎や佐佐木三四郎(高行)のキャストが気になります。
まあ、高知出身の広末涼子がドラマ前半のマドンナ役を勤めるのも楽しみですね!


話変わって・・・昨日の「ヒストリア」新撰組特集でした!
中村武生先生が結構長く出てたし、八木邸の当主、光縁寺のお話好きな(笑)住職も出てはりました。
まあ、新撰組関係もたくさんの書籍や「新撰組研究家」って名乗ってる人あちこちにいるのに
まだ、はっきりとわかってない話も多いんですね。。。
中で光縁寺の「沖田氏縁者」と書いた墓は、沖田総司の「内縁の妻」と仰る方がいました。
そうであったらいいですね・・・

来週は「江藤新平」です。
まず民放では取り上げられない人です・・・必見だ。
「ヒストリア」始まってからは毎週、前のように見るかなと思ってましたが結局見てますね(笑)
やっぱり歴史は面白いです!
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by enokama | 2009-05-14 19:48 | 土佐藩 | Comments(8)
慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋で土佐の巨頭、坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃された。
坂本は、ほぼ即死だったが中岡は17日まで息があって、その場にいた陸援隊士・田中顕助が
「長州の井上聞多は、あれだけ斬られても生きてます。先生も気をお確かに」と励ましたことが
伝えられている。
よく仲間うちでは「慎太郎が助かって、聞多が死んだほうがよかった」(すいません、不謹慎ですが・・・)
と言ってしまうのですが
早くから外国に目を向け、豊富な外遊・留学歴を誇った元老・井上馨ではないと解決できなかった
諸外交問題も多く、実業界の発展にも多大な貢献した人物で、数々の汚職にまみれたこともありましたが
明治新国家には、不可欠な人物となった。

文久3年(1863年)5月「諸外国に対抗する海軍力を強化するには西洋に行って学ぶしかない。
それこそが真の攘夷実現への道である」とたっての願いを出した志道聞多(当時28歳)に
当時、彼らに理解の深い藩重役・周布政之助は奔走し、5人の藩士の英国留学が実現した。
(いわゆる「長州ファイブ」)
ただし、長州は幕府とは敵対している状態で密航と言う形を取らざるを得なかった。
当然、発覚すると死罪で決死の洋行であり、彼らにも困難が待ち受けていた。。。
(志道は万が一を考え、養子先と縁を切り、旧姓の井上に復す)

この5人は後にそれぞれ、新生明治・日本国家の建設に大きく貢献するが
井上と伊藤俊輔(博文)は、現地新聞「タイムス」に載った列強諸国の長州報復攻撃の報を知り
滞在約半年で急遽帰国。
西洋文明に、直に触れた二人は列強との戦いの無謀を説くが、沸騰する諸隊には聞き入れられるものではなく
長州は関門海峡での戦いに入り敗戦(元治元年(1864年)8月)
ただし、この講和で国の方針として行った行為だと賠償金は幕府に払わすことになり
英国への接近のきっかけを作ることとなった。

引き続き、幕軍の第一次征長の動きに対して、長州藩の苦心は一方ならざるものであった。
このため、正義党の周布政之助と家老・清水清太郎は岩国藩に赴き、藩主・吉川経幹に面会を願い
この難局を切りぬけることの尽力を頼んだ。
すでに岩国には「長州救済」を願う筑前(福岡藩)から薩摩への働きかけもあって、福岡藩士・喜多岡勇平
と薩摩・高崎五六が入って、できれば交戦なく処置をできるよう説得工作が始まっていた。
経幹は芸州藩にも協調を願い、その家臣・浅野式部に会って交渉の端緒を開いた。
一方、藩内俗論党(保守派)は勢力を得て恭順謝罪の方針を取り、この方針に賛成した撰鋒隊は
亀山の平蓮寺と讃井の円龍寺(共に山口市内)に駐屯して俗論党を支援していた。

9月25日。家老以下政府員は出頭して毛利公・敬親父子の居館で御前会議を開いた。
俗論党を始め、今の時勢を見た多くの政治員は「御家のため恭順を表すより外に途なし」
(絶対恭順)と主張する。
対して井上聞多は数少ない勢力となった「正義党」の一員として武備恭順を主張し
その劣勢の中で元々、藩主の覚えも目出たい聞多はその尊王論の貫徹を訴え
一旦はその意見を入れ、敬親は武備恭順の藩是をとることに確定した。
そして翌日に末家およびその家老を召して再度、国論を一致とすべく、薄暮に退散した。
独り井上は、なお敬親に召し留められて明日の手順等について諮問せられ、夜に入って湯田の自宅に帰る途中
袖解橋付近で、保守派寄りの撰鋒隊・児玉七十郎ら数人に襲撃されて、文字通り瀕死の重傷を負った。
この件は井上が自身に近い正義派の隊を使って、脅威を払うべく撰鋒隊の屯所を襲う計画も持っていたが
事前に情報が洩れてしまったため、前記の藩是の確定前に襲撃されてしまったものである。

また26日の明け方に周布政之助も自刃して果てている。
そして案件は棚上げとなって「絶対恭順」となり俗論派が政権を握ることとなった。
そして、山口城の破却・三家老の切腹・四参謀の斬首と「降伏謝罪」
三条実美ら「五卿」の第三国への移転を条件に、戦わずして第一次征長は終了した。
ただし、征長軍参謀の西郷隆盛は「長州救済」に動いた岩国、芸州、福岡藩らの行動もあり
かなり寛大に処分を済ませて、長州の再度の復活へと導いていったのである。

この井上の襲撃時に呼ばれたのが医師でもあった美濃出身・所郁太郎で、すでに二人の医師が
駆けつけていたが手の施しようのない様子だった。
井上はその痛さに喚き叫び兄・五郎三郎に「介錯を」と迫ったが、母親は助命を願っていた。
それを見た郁太郎は「ぜひ助けたい」と応急手術に臨んだ。
当然手術道具などない緊急事態で、彼は畳針を用い焼酎で消毒、50数針を縫う処置を行い
この時点で井上が死んでいたなら「早くから外国を見据えていた先覚者で、この死はのちの日本に
とっても大きな損失だった」と評されていたかもしれない。
また、郁太郎の外科手術の腕の高さも伺いしれる。

ちなみに司馬遼太郎「美濃浪人」では、すでに駆けつけていた医師が適塾で同窓であった友人の
長野昌英となっているが(彼の引きで長州藩に出仕したとある)適塾姓名録にはなく長州藩医で
長崎で松本良順やポンぺに学び、コレラ防疫の功で藩から褒賞した優秀な実在した人物を「適塾生」と
して仕立てたフィクションである。
(「適塾 第三十七号 適塾門下生に関する調査報告(24)」芝哲夫氏の記事より)
ただし長野昌英との手紙のやりとりは残ってますので、親交があったのは確かです。

所郁太郎生誕地(中山道に面している)
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続き>>
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by enokama | 2009-05-14 02:22 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)
本陣公園から少し左手を登ったところに
「御茶屋屋敷」跡があります。
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江戸初期には使われましたが、街道が整備されてからは使われなくなって
現在は「矢橋家」(やばしさん。このあたりに多い姓)が買い取って、春のボタン園の時中心に
公開されているそうです。
今回はうまくその時期に当たりまして、僅かながら遺構を偲ぶことができます。
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宿場町>>
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by enokama | 2009-05-13 23:42 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(2)
4月26日。岐阜から大垣は約14キロ・駅3つで、11分ほどで着く。
大垣へは3ヶ所行きたいところがあった。
幕末の名家老・小原鉄心(城下)儒者・梁川星巌(曽根)適塾出身の勤王志士・所郁太郎(赤坂)
鉄心は城下なので近いが曽根・赤坂はそれぞれ北4キロの所で、公共の交通機関では一旦、駅へ戻って
の道程となるようなので、自転車で横に回れば行けると踏んでいた。
しかし、折からの強風と雨で電車に乗ってても感じるぐらいだったので、自転車は断念。
電車でアクセスできる(大垣から7分)赤坂に絞ることにした。
しかし、12時51分の電車が出た後で次が15時22分!(思ってたより過疎ダイヤ)
仕方なく、バスで「赤坂総合センター」行きってのが30分毎にあるようなので「赤坂」の付くバス停で
それらしき宿場が見えたところで降りてみた(約20分ほどで運賃は300円を越えていた)

赤坂港跡バス停(名阪近鉄バス・後ろは赤坂港会館)
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まったく地図もデータもなく実際、方角も南北と東西が間違った感覚で歩いてしまったのでかなりロスの
ある散策になってしまったのですが、この記事ではきれいに効率よく回れたとして編集してみます。
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赤坂宿を歩く>>
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by enokama | 2009-05-11 22:23 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)

幕末最強・庄内藩!

「戊辰東北戦争」坂本守正
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某古本屋でゲットしました!(新人物往来社。定価2000円・販売価格1200円)
「戊辰・・・」ってことで手にしたら、東北戦争とは言うものの内容は「庄内藩最強伝説」(笑)
むっちゃうれしいです!!

一般的に戊辰を東北から書いている書籍は、新政府軍(西軍)を鬼畜のように一方的に書くのも
多いので、なかなか買うまでには至らないのですが
世良修蔵にしたって、大山綱良にしたって武学芸でしっかり教えを受け
それまでの戊辰の実戦や折衝での実績はあるので(世良は34歳だったし、経験の少ない若者って
ことはない)悪者で決め付けて書くのはおかしいと思ってるのですが
この本はそのあたりの書き方も柔らかいので、すっと読むことができました。


東北戊辰戦争で、結果的に会津などは中世的な個人格闘中心にとどまり
西軍と近代的集団火器戦闘に対応できたのが唯一、庄内藩だったこと。
もちろん、それはこれまでに書いてきたように裕福だった財政の裏付けもあったのですが
元来、武芸にも熱心で(譜代中の譜代と言う事情もある)戊辰よりも60年遡る年代に
旧式の火縄銃に変え、新式の砲術を導入。
その後も高島秋帆、江川太郎左衛門らの下に藩士を派遣し、西洋知識・軍事知識を学び
北海道西岸警備(こちらの体験で松本十郎は維新後、北海道開拓に従事することとなる)
安政の品川台場警備・新徴組預かりの上での江戸警備など、実戦を交えた戦闘技術の向上が図られました。
その上で「士民一体」となった挙藩体制とは幕末期には、まず見られなかったことで
「民兵」の微兵教練にも藩は力を入れ、領民もそれに応えました。
それは今の藩政を維持したいと言う「祖国防衛」でもあり、西軍は苦戦を強いられました。


一方、庄内の武士道もすばらしいもので、軍令・規則には次のようなものがありました。
支藩・松山藩の家老で、維新後も名を残した松森胤保(→ 記事)が書きのこしたものです。

・身分の上下を問わず、一人一日玄米一升の割合で支給。兵食は握り飯に漬物、生味噌または梅干の類
 を宿主に出させ、必ず実費を支払うこと
・米は駐屯予定地の村役人に前もって頼み、その土地の時価で代金を支払うこと。
・夜具布団類はいっさい宿に求めず、陣中はすべて自分で炊飯するものと心得ること。宿はただ寝るだけ
 のもので、時に炊き出しを請け負わせるまでで、ただし夏の気候のゆえ、蚊帳を借りるときは借り賃を
 支払うこと。

・投降したものを嘲ったり、生け捕ったものを辱めてはならぬ。戦死した敵士卒の遺体はけっして無作法
 に扱ってはならぬ。
・このたびの出兵は御家の一大事ゆえ、出陣先は乱暴狼藉は申すに及ばず、強奪がましい所行があっては
 これまでの御威徳を汚し、天地に対して申し訳も立たず、また最後の勝利もおぼつかない。
 各自困苦にたえて年来の恩沢に報いる時はこの時と奮発精励されたい。
 
金払いもしっかりして、乱暴狼藉を働かない。
捕虜に対する惨い仕打ちも戊辰戦争では多く聞かれますが、それは当然皆無で
占領した矢島・新庄と言った民政でも、戦争による疲弊に対する租税半減と言った施策を行ってます。
また、庄内軍は勝利の後、戦死した敵兵も律儀に、しっかりお寺に金を払って丁重に埋葬しています。
敵兵の遺体の収容を禁じた例も多くあった時期に、対照的な行動で、すごいことだとも言えます。

書では主に庄内二番隊隊長「鬼玄蕃」こと酒井玄蕃を中心に戦跡を語ってます。
中でも西軍に加わったものの領地を戦場にされ、また薩長の先鋒で盾になったような戦いで
多くの犠牲をだした秋田藩は、果たしてその判断は正解だったのだろうか・・・
なかなかいい本でした!
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by enokama | 2009-05-10 11:10 | 庄内藩 | Comments(7)