エノカマの旅の途中

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榎釜さん

さっきぐぐってたら、10月26日が榎本総裁の命日なんだそうです(初めて知った 汗‘)
ふーん、亡くなられた日に俺は生まれてきたんだな・・・
 
ほとんど死を覚悟した時期があったものの、十分に知識を吸収しそれを新しい国家で
存分に発揮した。
その人柄に心酔した人も多く、いい人との出会いもあって素晴らしい人生を歩んだ人
だと思います。
一方、橋本左内のように勉学をしっかり学んで、これからって時に命を落とした人もいる・・・

生ある限り、少しでも彼らに近づいていけたらと改めて思います!
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by enokama | 2008-10-29 00:04 | 歴史全般 | Comments(0)
今回の目的は従来からあった、幕末・福井藩での出来事について「なぜ、どうして?」
と言った疑問について激しく知りたい、学びたいと言う思いでのものでした。

講演、交流会での各先生方への質問。二日目のガイドさんや「越前龍馬会」の方のご案内。
今回の「福井郷土歴史博物館」での貴重な展示等、多くの収穫を持って帰ることができました!

特に「福井郷土歴史博物館」では優れた幕末維新記録文献とされる
松平春嶽「逸事史補」 村田氏寿「続再夢記事」の原本。
西郷隆盛から橋本左内、坂本龍馬から村田氏寿への書簡など、ずっと前から見たかった資料が
一同に展示してあって、ほんと感動しました!
(ツアーの40分では足らないんで解散後にもう一度訪れ、1時間以上再度じっくり見てきました 笑)
今回わかったことを年度を追って書いて行きたいと思います。。。

「橋本左内」(以前の記事
橋本左内の「安政の大獄」での非業の死について、「逸事史補」に生々しく書かれています。

 「段々評議を遂げるのところ、さして格別の罪状もなく、さりながら罪状なしとも申しがたく
 ・・・流罪、追放、永蟄居位にて刑事伺い差し出し候ところ、老中もこの位にて然るべしとの
 評議相成り、大老掃部頭へ差し出し・・・一両日留置、なおもって附札相下げ申すべきの事
 俄かに掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中驚愕せり・・・」

判決文を大老にお伺いを出したところ、附札が貼られ「罪一等を上す」として帰ってきた一件。
井伊にとって自分の施策(開国とは何ぞや?)に一番、同調する可能性もある人物を結果、殺してしまう。
「見せしめ」だとお聞きしましたが、結果的に自らの首を絞めることになった出来事です。
(「見せしめ」でひどい事例は、敦賀での「天狗党」の一件。近世ではプロ野球の「黒い霧事件」
西鉄ライオンズの池永正明投手にも言えることでしょう)


「春嶽と坂本龍馬の出会い」(以前の記事

「逸事史補」では、やはり龍馬が岡本健三郎を伴って訪れたと書かれているそうです。
しかし、今回展示してあった村田氏寿「続再夢紀事」には
文久二年十二月五日、政事総裁職の要職にあった春嶽が江戸城より常盤橋藩邸に帰った
午後十時ごろより後、大坂近海の海防策の申し立てを土佐藩、間崎哲馬・坂本龍馬・近藤
長次郎(正式な長は凄く難しい、順は原本のまま)と対面し聞いたとありました。
確かに間崎が中心人物だったのが事実のようです・・・
しかし、政府のトップに近い人物が遅くまで仕事した後で疲れてるだろうに、翻意にしている
土佐の家来とは言え、身分がそう高いとも言えない者の意見に耳を傾ける。。。
春嶽さんは、ほんとそんな人物なんですね!


「神戸海軍繰錬所(追記・正しくは「勝海舟海軍塾」→関連記事)への五千両の出資」

講演でもありましたが、当初から「千両」と決まっていた額を予定通り借用したまでの話で
その任を龍馬が果たしたのは有名な話です。
でも十分大金ですし、福井からも藩士を多数派遣してるので期待は大きかったのでしょう!


「挙藩上洛計画の挫折」(以前の記事

この計画の際、三岡八郎や酒井十之丞と言った藩士は薩摩に行き、一部からはいい感触
をもらってます。一方、村田氏寿は薩摩の吉井幸輔や坂本龍馬らと京都で接触しています。
しかし「時期尚早」として福井へ戻ります。
結果、側近・中根雪江らの判断を受け春嶽は中止を決断します(文久三年七月)
このことはやはり親藩と言う立場の縛りが大きかったからだろうと言うことです。
後、薩摩側には福井とも縁のある西郷隆盛がいましたが、この時は「島流し」でいませんでした。
このあたりの影響もどうだったでしょうか?
結果、薩摩は会津と組み(薩摩は一つの方針にこだわらずに、いくつのかの対案を作り
うまく時局を捉えていた)のちには長州と同盟し、最後に憎悪は会津に向かうこととなります。
ここで春嶽が思いきった判断ができていたら(そちらでも厳しい。下手したら国もつぶしかねない)
のちの会津の方の恨み(京都守護職就任の経緯も含めて)もなかったんじゃないかと思います・・
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by enokama | 2008-10-28 22:27 | 福井藩 | Comments(0)
幕末期、維新後の新政府の先取りをしたような、先覚的な藩政を行った福井藩。
また、個性的な藩士たちが大好きで、僕はこのブログでも再三取り上げています。

今回は第20回を数える「全国龍馬ファンの集い」が坂本龍馬とのつながりも
深い福井で行われると言うことで
「京都龍馬会」さんにお世話になりまして、行かせていただきました!
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昨日、土曜日は午後から2部構成で、高知市の岡崎市長や、長崎で福井藩の海外貿易に
深くかかわりをもった小曽根家十七代目当主・吉郎氏ら、ゆかりの深い方々の出演による
シンポジウムで興味深いお話を聞きました。
夜は交流会で、松平春嶽公の子孫で二十代目の当主・宗紀氏。福井藩関連の書籍を多数
執筆されている舟澤茂樹さんとも直にお話を聞かせていただき、貴重な時間を過ごすことができました!

今日、日曜日はバスツアーに参加して、個人ではなかなか行き難い「丹厳洞」(たんがんどう)
や福井松平家の菩提寺・大安禅寺(だいあんぜんじ)など、松平家や藩士たち(橋本左内、
中根雪江、由利公正、笠原白翁、橘曙覧、横井小楠)のゆかりの地を訪ねてきました。
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福井を十分満喫して、とても有意義な二日間でした!
(また、少しずつ記事アップしていきます)

趣向をこらした楽しい企画をされた「越前龍馬会」を中心とする実行委員会の皆さん。
今回、連れってていただいた「京都龍馬会」のみなさん(26日の私の行動が伝わって
なくって、すみませんでした。前日に何名かの方にはお話したつもりだったんですが
酒席のことだったんで・・・)
ご一緒した大阪・高知・梼原・金沢・・・の各龍馬会の皆様。
他、中岡慎太郎をかなり評価して熱く語っていただいた方や、大村益次郎の墓所(山口・小郡)
について、教えていただいた方(すみません、名前失念してしまいました)
日曜のガイドをしていただいた歴史ボランティア「語り部」の山下さん。
ありがとうございました!

また、連絡先いただいた方にはメール入れさせていただきます。
酒席での交換で、私もほとんど名刺が渡せていないんで、誰かな?と思われるかも
しれませんが
・講演の最後で「挙藩上洛計画」の質問をした。
・交流会は京都・大阪の席にいました。
・たばこ屋旅館の二次会で大阪の方と一緒にいました。
また、良ければ今後とも交流お願いします!


本文とは関係ありませんが10月26日は私の誕生日でした(帰って思い出しました 笑)
プレゼント・メール送っていただいた方、ほんとにありがとうございました!
今日はいい誕生日となりました。。。
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by enokama | 2008-10-26 23:55 | 福井藩 | Comments(4)

庄内こぼれ話

わずか、車中2泊・現地1泊2日の庄内滞在でしたが、かなり僕自身思い入れもあったこともあり
記事が思ってた以上に長期間となりました。
でも、まだ終わらないんです。ようやく鶴岡を発って港町・酒田に行きます・・・
もう少しお付き合いください。
同時期に庄内に行かれたAki_1031 さんも詳しく記事を書かれています。
合わせて読んでいただいて、庄内の事をもっと知っていただけたら幸いです!

鶴岡の泊まりは駅の近くでしたが、夕食を食べようにも、ちょっとした普通の飲み屋ぐらいって感じ
しかないところ。酒田に泊まって数多いすし屋に、行ったらよかったかなとも後で思いました。
しかしながら意外な発見が・・・
酒田(HPあり)もそうですが、ラーメン屋がやたら多い!
「○○食堂」って所にも当然メニューがあるようで隠れたラーメンどころのようです。
3軒行ったんですが(行きすぎ!笑)どこもうまい。

「麺は太めで黄身がかった、かなりの縮れ麺」が
「魚介ベースのダシがうまく、あっさりながらもコクのあるスープ」
にうまく絡んでうまいんです。大阪に戻って早速ラーメン食べたんですが、とても・・・
ぜひ、うまい庄内ラーメンをお試しください!

もう一つネタ
「庄内」と「荘内」
この庄内標記ですが2種類あります。
書物を読んでも書く人によってバラバラです。
この記事にもありますが、結局どっちでもいいようです!

名詞的な物が「荘内」を名乗ることが多く
「荘内神社」「荘内病院」「荘内日報」「荘内銀行」 バスは「庄内交通」
地域の表現で「庄内」を使うような使い分けのようです。
(例)庄内地方を地盤とする「荘内日報」・・・みたいな感じです。
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by enokama | 2008-10-23 00:55 | 庄内藩 | Comments(2)
新徴屋敷(松ヶ岡開墾場敷地内)
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庄内に移住した新徴組隊士のために建てられた住宅。
鶴岡城下(大宝寺)にあったものを、松ヶ岡開墾の組屋敷として移築された。
当時よくこの地方で見られた石置き屋根。


脱走を図った者には新徴組隊士が多くいた。
元々の土着でもないし、東京へ帰りたいと思う者が当然現れた。
しかし、県幹部は彼らが庄内を離れることを固く禁じた・・・
その秘事を漏らすのを恐れていた。

実は開墾事業に名を借りて兵の離散を防ぎ、有事の際にと兵力を温存する目的もあったと言うのだ。
もちろん新政府はすでに、禁じていることだった。
当然、中央政庁は庄内士族の集結には疑念を抱き、警戒は怠らずされていた。
明治6年1月。ついに一部の新徴組隊士は雪中を集団脱走、司法省に強制労働の不当と兵力の温存を訴えた。
しかし、西郷の働きかけで補助金も出、失業武士対策のモデルケースと称えられ、輝かしい事業としての
評価は変わらずされた。

ついに明治10年、その疑念が生じる出来事が起こった。
下野して鹿児島に帰っていた西郷を戴いて、士族の大規模な反乱(乱ではなく戦争の規模)が起こったのだ。
当然、西郷を慕う気持ちの多い庄内士族の中では呼応する動きが出る。ここで兵力を温存している効果
が出てくるのだ。
しかし立たなかった。いや、立てなかったのかもしれない。
全国に6カ所ある鎮台は当然、九州へ動員される。しかしただ一つ仙台だけは動かなかった・・
従来から「対庄内」の想定はしてあり、密偵の多くも領内にもぐりこんでいた。
また、旧藩主の子息もドイツに留学中で、ここに決起するとなると戊辰戦争でまったく影響のなかった
領国を焼くことにもなりかねない。
菅自身も西郷が自ら立ったとは信じがたかった。ただ担がれたのだと見た。。

庄内が動かないことを確信した酒田県令・三島通庸や西郷従道は、その疑念を払拭するため
西南戦争へ巡査としての応募を勧めた。この時、東北諸藩の旧士族たちは「戊辰の仇」と
ばかりに多くの者が政府軍として参戦していた。会津の猛将・佐川官兵衛もその一人で
熊本・南阿蘇の地で戦死している。
ただ、庄内は当然のことながら、一人として応募する者はいなかった・・・
また、当時は現在ほどの交通も整備されておらず、実際に馳参じようとした者もいたが
結果、鹿児島までは遠すぎて、間に合わなかったと言う。 

ただ二人の庄内藩士だけが薩摩側として、西南戦争に参戦した。
鹿児島・私学校に留学していた伴兼之と榊原政治で、それぞれ植木・延岡で戦死する。
彼らを預かっていた篠原国幹と西郷は、さかんに帰国を勧めたが結果、薩摩に殉じたのである。


この後の庄内の動きは酒田編にて・・・
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by enokama | 2008-10-22 23:19 | 庄内藩 | Comments(0)
鶴岡駅に着いて「観光案内所」でまず聞きたかったのは
松ヶ岡」の場所は?
バスで15分ほど「ゆぽか」(温泉施設)で降りて徒歩20分!
う~ん、バスはそんなにないし、そんなに歩くのもなーと思い
「自転車では?」「行った人もいますけど大変だったらしいですよ」

自転車で内川を越え、加藤鉱一事務所の前を通り、明治に庄内士族がまず最初に開墾した赤川
(羽黒橋)を渡ると見渡す限りの田園地帯で、稲刈り真近な黄金色の稲穂が頭を垂れてました。
このあたりは出羽三山の一つ・羽黒山に向かう「羽黒街道」と言う道で、最近まで独立した
羽黒町(鶴岡市に合併)と言う町でした。
田畑や村中を右左と曲がり、登り坂で自転車の速度も自然に落ち「まだか・・・」と思いつつ
赤川を渡ってから20分ぐらいで5棟の蚕室を残す「松ヶ岡開墾場」に到着します。
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続き>>
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by enokama | 2008-10-22 00:34 | 庄内藩 | Comments(4)
先週末は金曜晩、大阪・本町の事務所で添乗準備の後、維新へ。
土曜は篠山へ添乗(自宅篠山→難波発→篠山→京丹波→難波着 行ったりきたり 笑)
今田・立杭の「陶器祭り」に行ってきたんですが、3000人の人口しかいない、ほんと普段
ひっそりした場所に、びっくりするぐらいの人出で(駐車場もあんなにあるとは・・・)
焼き物のツアーって行くけど、はっきり言ってどこをどう見て、どこがいいのか僕にはわからない(苦笑)
でも、たいがい時間が足らないって言われるんです。陶芸美術館でもじっくり見てはる・・・
まだ仏さんとか、古寺の地獄絵とか(閻魔さんに舌を抜かれるやつ)はわかってきた感じ
なんですがね。まだ修業が足らないのかな?

この日も帰りに維新へ。
マスターとも話していたんですが「ここに集まる人は、ほんと話のレベルが高い」
薩長同盟、戊辰戦争、西南戦争・・・西郷さんはもちろん、黒田清隆、板垣退助、桐野利秋
同じ人物でもその時々でどう考えていたのか?それぞれの人の得意分野で、語り合えるんで
さらに掘り下げて人物像に迫ることができる。ほんと勉強させてもらってます!
でももう一月なんだな・・・

日曜は黒大豆枝豆の最終収穫。もう粒は最高に大きくなってますが、これでおしまいです・・・
秋華賞は土曜日、飯田君が勝たなかった時点で今週の馬券は終わりだったんでパス。
あんなのわからない。京都内回り2000のG1は見直したらいいのに、枠の不利もあるし。
今週は武士沢(名前がいいでしょ)を思いっきり応援する!

「篤姫」はビデオ3回分(忙しかったんで)と、この日の分をまとめて。
展開早っ・・・長州叩いて、中1週でもう手を握ってるの・・・(笑)
四者会談(薩摩三人組と坂本龍馬)もあっけなさすぎる(何、あの和気あいあい 笑)
でも、小松が操連所の若いもんを長崎に連れて行くシーンや(あまり一般に知られてないと思う)
霧島温泉のまったり感はよかった。
三吉君ちょっとだけだったけどいい(槍ィ)中岡さんはあと2回後ぐらいに台詞のない・・・悪寒。。
小松っとんの愛人の話は知らなかったです。まあこの大河の主な層には面白い、いい脚本です。
あと、この時期の詳しい話は「龍馬伝」でってことですね。
話題に出てた「キムタク龍馬」はOKでしょう。
歴史に目を向けてもらうんだったらいい主役!
後は岩崎や後藤あたりのアクの強いキャラクター。こっちの方が重要かな・・・

今年の阪神タイガースも終わりました。
この状態で日本シリーズはありえないですね。。。
悪いところを出しきって(最後が藤川でよかったって言うコメントも)悔いなきでしょう。
岡田監督は今年優勝したら、来年は若手をドンドン使って切り替えて行きたかったとも。
今の陣容は自身が二軍監督の時からの選手だったし、もう1回やり直したかったのかな。
でもほんと名将でした!
次はFAで三浦とか清水って言ってるけど、それでいいのかな?
Gはそれで反則(あの3、4番はねえ・・)技だけど(苦笑)


今週末は福井へ、龍馬会の方に連れてっていただきます!
土曜は春嶽さんの講演、日曜は橋本左内ゆかりのツアーへ。
ほんと楽しみです。
11月9日は大阪市内ウォーク。
15日は龍馬慎太郎の墓前祭。
16&23日は京都で久しぶりに競馬をライブで見てきます。
また、いろいろとお世話になりますがよろしくお願いします!
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by enokama | 2008-10-21 23:16 | 総合 | Comments(6)
松ヶ岡遠景
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西郷隆盛は言った・・・
「庄内藩には王政復古が通じない為に、本当の朝廷の御趣旨のあるところが達していな
かったのである。このことは深く察してやるべき事である。敵となり見方となる。これは皆
運命と申す他ない。今彼らが順逆を知って一と帰順した以上は兄弟も同然ではないか。
自分はどうして自らを偉ぶって彼らを敵視することができるだろう。」

続き>>
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by enokama | 2008-10-19 23:17 | 庄内藩 | Comments(0)
鶴岡市郊外 松ヶ岡開墾場
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幕末、庄内藩の藩政をリードした菅実秀は、あの長岡藩の悲劇で知られる河合継之助同様
その才覚をもって異例の昇進を重ね中老にまでになった。
そして佐幕で藩論を統一、西軍(官軍)に対して徹底した抗戦に入る。
もし、藩領が激しい戦いの場となり、彼が悲劇的に死んだとしたら、河合のように「敗者」を語る
ことの多い日本史において、有名になっていたに違いない。

庄内とともに朝敵とされた会津、また長岡と違ったところは、藩領をまったく荒らされることなく
「攻撃は最大の防御」として他国の領地に攻め込み、最新兵器を持って、お得意のゲリラ戦法を
用い相手を霍乱、ほぼ連戦連勝のまま戦いを進めた。
新庄藩に至っては庄内の最新兵器をうらやみ、分けてもらった経緯がありながら
早々に西軍へ寝返っていた。これを攻め落とし、続いて従来から勤王派が強く
西軍の奥羽鎮撫総督府・九条総督を引き取ったことを契機に、列藩同盟からは裏切り者と
呼ばれた秋田藩領にも激しく攻め立て、最新兵器も用いた新政府軍(西軍)に対しても
終始、優勢な戦いを進めた。

中でも菅に傾倒し、二番隊長「鬼玄蕃」と恐れられた酒井了恒は
「戦陣で食糧の乏しい時は自身には一膳で済ませても、兵には二膳を与えよ」
「兵が寝る前には寝るな。常に兵より苦労しろ」
「作戦においては決して固辞をするな、ぶつかってダメだったらすぐに避けて固辞しない」
との教えを守り、士気を高め結束を固めた。
しかし、その素顔は長身細面の青年で詩作家でもあった・・・

また民家、村落を荒らすことや野菜一本も取ることもなく、捕虜・間諜も殺すことなく
永年、徳川家に受けた恩義に報いるため正々堂々と戦った。
そして東北における最後の恭順者となったのだ。

敗戦後の西郷の意を受けた黒田清隆の戦後処理は、会津とは違って寛大であった。
「武士が一旦、兜を脱いで降伏した時は後のことは見ないもの・・・」
西郷は一旦は叩いた長州の処理でも、慶喜の意によるさらなる戦いは断固阻止しようとした。
(五卿の移転と征長軍解兵の工作)
「我が藩が無名の戦を起こしてしまったのは誠に遺憾であった」と言う菅に対し
「貴藩は幕府の親藩であって、三百年の恩顧がある徳川氏のために国運をかけてその回復
を計るのは当然のことであり、恥じることはない」と語ったのは、西郷に心酔する一人である大山綱良。
ここに長州とのスタンスの違いが見える。
この後、庄内の人たちは西郷・黒田と深く交わるようになる。

その一環の一つが「松ヶ岡開墾場」だった。
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by enokama | 2008-10-17 04:07 | 庄内藩 | Comments(4)

最盛期

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「丹波黒大豆」
今週が旬で食べごろです(来週以降だと、だんだん硬くなって行く・・・)
うちの畑も13日から刈り取って、葉取りを総出でやってました!
見た目は悪いですが、皆さん「うまい」ってほんとに言ってくれます。。。
一回買ってくれたら、次の年以降ずっとです(笑)
また、来年になりますが予約はお早めにお願いします!
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by enokama | 2008-10-15 20:06 | 総合 | Comments(0)