エノカマの旅の途中

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サライの「龍馬特集」

ji5islさんからのコメントもありましたが、僕も購入してきました(500円は安い)
常々「龍馬の事はわからん」って僕は言ってるんですが(笑)
まあこの特集は入門って感じですんで、特に目新しい記事はないんですが
「龍馬の軌跡」を訪ねるには、わかりやすくまとめてあり実用的となってます。

記事は相変わらず、「大政奉還」「船中八策」の後藤象二郎や「薩長同盟」の中岡慎太郎
の功績って結構あるんだけど「龍馬が奇跡的に成し遂げた」とあるのはしょうがない
のでしょうか(龍馬さんが悪いんじゃないんですがね)

「薩長同盟」の立会いは龍馬だったから伝説的になったんでしょうね。
あのころの動きだったら、慎太郎がその場にいたっておかしくなかったと思うんですが
それだったらあっさりと、ドラマチックなこともなくすんなり成立していたと思います。
西郷とはお互いに亡くなるまで革命家の同志って感じだったし、桂とも半ば長州を拠点
にしてた経緯からも、同盟に動いた当初の「諸隊」の説得に比べたら楽勝です。
また、その慎太郎にとっての「薩長同盟」の働きかけは、奇跡的なことではなく
「一貫した信念」があってのことで「奇跡」ではなく「必然」なことだったですし。

「大政奉還」の功績ってのは、僕はまだわからんのです。
大老に井伊がならずに、大久保一翁が一早く唱えて通ってたとしたら 、その時点ですんなり返していたこと。
橋本左内や西郷隆盛がそれを支え「雄藩連合」ののちに国会を開設する。
まだ、この国家だったら十分国際的にもやって行けたと思いますがね・・・
だから、容堂に龍馬がうまく乗せられた感じでならないし、この時点でこの工作は
どうだったかなと。
あと、龍馬の暗殺は童門氏は「薩摩説」を取ってるんですね。まあ、薩摩の一部も
邪魔に思ってた人物もいただろうけど、消してしまうほどの存在ではなかったかと。
それだったら一緒に慎太郎がいることも予想はできるはずだし、うまく討幕の路線に
乗せてきた土佐には重要人物ですよ。なんで一緒にやられたのか・・

やっぱり僕は会津かなと。ほんと国元に苦しい思いをさせてまで、京都に兵を置いて
頑張ってきたのに、なんであっさり戦もせずに政権を返してしまったのかと。
寺田屋の一件もあるし・・・
それぐらいの「お国の大事」での行動は当然で、あっさり引き下がることはしないはずだし
薩摩以上の動機は十分です。
仮りに「平和路線」って堅持して行こうって思っても300年近い権力を手放すんだから
いずれ崩れてしまってたんじゃないかと。そうなったら軍備を充実したところが勝ちに
なってきます。

なんか、夢もないようなこと書いてすいません。
またそれぞれの龍馬像を描いてください。
それだけ華のある人物ですから・・・
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by enokama | 2008-07-29 02:17 | 土佐藩 | Comments(6)

もう一人いた・・・

昨日の「篤姫」、月照さんが出てきました。
若かりし頃の熱い西郷さんと、すべてを悟ったような月照・・・
小松っとんもええ人や。いい演出でよかったです!

ほんとはこの入水の時、もう一人役者がいたんですがね。
「憂国の士」福岡藩・平野国臣。いったん西郷と月照は筑前福岡に逃れるんですが
(この時に野村望東尼とも接触している)西郷は月照を平野に託して、先に帰国し彼ら
の保護を求め(返事はドラマ通り冷たいものだったが)
のちに平野らも薩摩へ入ろうとするが、当時はまだ「二重鎖国」のころで入国には難渋
を極めました。
そんな思いで入った薩摩、しかしそこも安住の地ではなかった。

失意の思いで平野の読んだ句
「我が胸の燃ゆるおもひにくらぶれば 煙は薄し桜島山」

そして日向へ向かう船での酒宴。月夜に風流人の平野は笛を奏で、彼らを慰めるが
その目の届かない間(当人は眠りに入ってたとか)に二人は入水してしまうのです。
気づいた平野は慌てて引きあげるも、月照は息絶えてしまう・・・

西郷さんはここで死んでた命だった。
これ以後は違った思いで生きていった。小沢さんがここで演技を変えてきたとしたら
大したもんですが。。。期待しましょう!

平野国臣はこの後、変転し脱藩。そして「生野の変」を起こし捕らえられ六角獄に収監。
「禁門の変」が起こりその火の手がせまるや、獄舎の罪人たちはすべて首を刎ねられた。
平野はゆくゆくは「全国統一国家」を目指していたと言う。

この入水時の錦絵がたまに「霊山歴史館」に展示されます。またごらんください!
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by enokama | 2008-07-29 00:29 | 福岡藩 | Comments(2)
水上バスからの風景
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造幣局の北側のOAP港で下船。

龍海寺は緒方洪庵と一族の墓所。
洪庵は最後、幕府に出仕していたために江戸で死去したのだが、師匠の中天遊のそばに
埋めてほしいとの遺言で、遺髪が納められている。
また、適塾の弟子で新政府の高官となっていた大村益次郎も、京都で刺客に襲われた際
足を切断する手術を行うが、その「足塚」が洪庵の墓に隣接してある。
このあたりの師弟の絆はすばらしいと思いますね。

成正寺
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このあたりは「与力町」の地名も残っていて「大塩平八郎の乱」の舞台ともなったところ。
お墓は本堂の正面に移されていて、碑も新しいものが立っている。

大坂天満宮
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天神祭の準備も慌しい・・・

このあとはミナミに出て、道頓堀ゆかりの「成安道頓の碑」「法善寺」へ。
久しぶりに道頓堀を歩いてみたんですが、もう劇場が一つも(映画館もなくなった)
ないので、客層が変わったという感もあります。
ただ単に新世界にも言えることですが、地方や中韓台の人たちの来る「観光地」になっている
感があって、地元の人には逆に違和感のある場所なのかな。
「くいだおれ」もこの地域の変化には、しょうがなかったと思います。

今回はかなり歩きましたが、なんとかフラフラになりながらも満喫することができました。
大阪も石碑がそれなりにあって、文化の薫りがする町だったんです。
資料作成&案内をしていただいた「維新」のマスターにお礼を申し上げます!

あと、これも歩いてこその発見ですが「~龍馬」とついた店が道中に3軒見つかりました(笑)
やっぱりファンが多いんですね!
最後は道頓堀ウインズのまん前にある「よさこい龍馬」で乾杯~♪
最近できた店のようで、いろいろサービスしてくれました。
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by enokama | 2008-07-26 08:01 | 大坂発見 | Comments(1)
江戸堀界隈。
緒方洪庵の師匠・中天遊です。
このころは大坂の絶頂期で商人文化も高く、教育にも力が注がれた。
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頼山陽も大阪生まれ。
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中之島の南側の川・土佐堀川の南にも「江戸堀」(現土佐堀通)があって
蔵屋敷がありました。

薩摩藩
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長州藩
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あの「七卿落ち」の際、立寄ったとありますが、実際に歩いて見ると薩邸と500mも離れて
ないんですよね・・犬猿の仲のころ、ほんまに大丈夫やったんやろうか。
この両藩の屋敷の中間点あたりに、大村益次郎が適塾の塾頭だったころの寓居跡
の碑があります。

淀屋橋に戻って船に乗ります!
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by enokama | 2008-07-25 22:19 | 大坂発見 | Comments(0)
7月20日(日)
暑い日が続きますが、今月もミクシィのコミュの方と大阪市内を散策してきました。
今回は江戸時代末期の古地図を見ながら、蔵屋敷が林立し(全国の物産のほとんどが
大阪に送られ、金に換えていた)活気のあったころの中之島周辺の風景や、幕末動乱の
舞台を思い浮かべながら歩いてまいりました。

北浜の五代像前をスタート。中之島の遊歩道は現在、京阪電車の延長工事の追い込み
(秋に開通)でほとんど通れませんが、ちょうどその延長線のあたりが一番蔵屋敷の
多かった所です(西へ向かって歩きます)
維新後、東京遷都で役目を失った屋敷群の跡地は空き地になり、大阪自体の人口も
減って活気が失われたのですが「大阪の父」とも言われた五代友厚の各種事業や
造幣局の誘致もあり、徐々に盛り返して行きました。
以下、2つの建物はそんな時代に活躍した実業家たちの寄付を元に建設されたものです!

中央公会堂(大正7年)
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寄付者の岩本栄之助は、建築途中に株相場の暴落で多大な損失を受け
完成を見ずに自殺している。
維新直後は通商会社・為替会社跡(銀行の前身)が置かれた場所。

中之島図書館(明治37年・大正11年建て増し)
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まだ現役の建物で、通常はこの正面入り口の脇から出入りする。

中之島を歩く>>
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by enokama | 2008-07-25 21:58 | 大坂発見 | Comments(1)
坂本龍馬が世に出るきっかけとなったのは、一介の浪士でありながら賢候といわれる
代表的な人物で、文久期には政事総裁職の要職にあった福井藩・松平春嶽へのある意味
奇跡的な対面に始まると言っていい。

春嶽の記述には「岡本健三郎」と共に江戸藩邸にいきなり訪れたようになっていて
その引用をした書籍にはよく書かれていることだが、岡本は龍馬暗殺直前に土佐の使者として
福井に赴いた時の同行者であり(蟄居中の三岡八郎と会ったとき)思いちがいのようで
一方、福井藩士・村田氏寿の記述には「間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎・・」とあり、土佐勤王党
きっての開明派(吉田東洋の一門でもあり、弟子に中岡慎太郎らも)で海外通、海防問題
にも強い関心をもった間崎に付き添って行ったのが現実のようだ。
(浪人が一人でいきなり会えるってことは現実ありえない話)
春嶽は勝海舟らとも並んだ代表的な開国論者で、領国も日本海に面していることもあり
海防にも力を入れていた。
そこに盟友の土佐の山内容堂の家臣が会いたいと言えば、十分会うチャンスはあったわけだ。

また春嶽自身も人物と見れば許せる限り、身分にとらわれず 話は聞く、殿様としては異例の人物であり
薩摩の西郷はもちろん、自身とは相反する自論を展開する攘夷派と見られた長州の桂小五郎・久坂玄瑞
土佐の武市半平太らとも、実際に会い議論を展開している。
こういったことからも政事総裁職と言う幕政トップの位置にありながらも、時の権力者の中
では最も近づきやすい人物だった。
その付き添っていった浪人がなぜか?目をかけられて、その活動にも終始惜しみない援助を
し支えてくれるようになるのだから、本当に奇跡的な出会いだっただろう。
間崎哲馬は土佐勤王党の弾圧時、早々に切腹を命じられ惜しい人物をなくした。

それだけでなく、龍馬の資質を見込んだ春嶽は、さらに当時の先覚者の代表的な人物の
横井小楠→勝海舟と紹介してくれて、龍馬の未来の指針が見えてくるのである。
(斬りに行く可能性のある者に紹介状を書くわけはないんで、勝の話は例のごとく
ホラっぽいが・・・ちなみに同行者は千葉重太郎)

だから、龍馬の思想が完全に徳川否定になっていない(大政奉還もその例)のはその影響
も多いためだ。多くの龍馬の紹介で「倒幕の立役者って書き方」は、厳密にはおかしくって
春嶽・小楠に代表される「雄藩連合」(徳川も一勢力として残る可能性を残す)「開国貿易や
殖産産業による富国論」「二院制による議会政治」は死ぬ間際まで変わっていない。

四時軒からの阿蘇方面への、のどかな風景
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龍馬や度々訪れた福井藩士たちも眺めたのだろう・・・
長居する人も多いそう。なんか、ほっとする空間です!
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by enokama | 2008-07-19 06:55 | 横井小楠の周辺 | Comments(4)
小楠の思想は過去の記事にも書いてますんで(こちら
今日は四時軒を訪れた人について書きたいと思います!

今回は平日で記念館はガランとしてましたが、そのかわり館の管理者の方と
いかにも歴史好きそうな男性客の方3人で、1時間ぐらいしゃべってました。
あまり知られてない小さな資料館では、こういう感じがいいですね(笑)

まず、前の記事で紹介した「維新の群像」
福井から来た人が見て「なんで熊本にあるの?」って聞かれたそう。
福井城の堀端にも小楠像があるんで、てっきり地元の人って思ってたみたい。
熊本では不遇(だから、あまり地元では知られていない) 
招聘されて厚遇、その思想を実践的に行い成功を収めた福井では知名度がある。
熊本で小楠をよく知ってる方だったら歯がゆい思いかもしれません・・・
福井藩とのつながりはこちらもごらんください!

四時軒内の春嶽の書
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三寺三作の入門(1849年10月)以降、福井藩では小楠の学識に藩主・松平春嶽を始め
多くの藩士が影響を受け、実際に福井城下での講義に始まり、藩校・明道館の開校に際して
も多くの助言を入れている。
1857年5月には藩士・村田氏寿(藩の外交官として、薩摩や坂本龍馬とのパイプも持ち
軍の差引もできる有能な実務官僚)が四時軒にしばらく滞在し(11日~20日まで)
招聘交渉を行う。

四時軒外観(昭和57年修復)
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秋津川よりの外観
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しかし熊本での立場の弱さからか、なかなか藩よりOKが出ない。
春嶽夫人の勇姫が熊本の出であり、その後押しもありようやく翌年4月に実現する。
このころ安政の大獄で春嶽は謹慎。橋本左内は刑死となるが、小楠は藩論を統一し
「海外貿易」「富国富民」の藩政改革に成功をおさめた。
のち政事総裁職となった春嶽の補佐もし「参勤交代の緩和」「外様・譜代にこだわらない
能力主義の人材の起用」を提言する(国是七条・下書きが記念館に展示)

のち熊本に帰藩後はまた不遇を囲うが、春嶽はその援助を行い
また新政府樹立後、強い推薦をし参与として登用される道ができた。
しかし、ほどなく1869年(明治2年)その開明的考えを受け入れられない攘夷論者
により暗殺される。享年61歳(暗殺時に護身した短刀も展示。3ヶ所刃こぼれ)
しかし、新政府は彼の思想を大いに反映したものとなった・・・
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by enokama | 2008-07-16 00:17 | 横井小楠の周辺 | Comments(4)
生誕の地(1809年。城北・坪井)
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8歳から藩校・時習館へ。この藩校の特色は下級武士や商人であっても実力が
あれば入れることが特長・・・小楠は文武両道に秀でた優秀な生徒だった。

14歳。水道町に転居(鶴屋デパート裏)
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25歳で時習館・講堂世話役を経て、居寮長(塾長にあたる)となり、のち江戸・水戸
などへも遊学。
水戸学に傾倒し、藤田東湖・梅田雲浜と言った儒学者とも交流するが、のちに疑問
を感じ開国論や富国富民論と言った提言を行う。

35歳(1843年)改革派家老・長岡監物らと時習館の改革に取り組み、私塾も開く。
1846年に相撲町に移り「小楠堂」と名付け開く。
この「小楠堂」の時代に梁川星厳や梅田雲浜の紹介を持って、福井藩士・三寺三作が
入門(1849年10月)し福井に名声が伝わり、大阪の適塾にいた橋本左内との交流も
始まる。
しかし藩内では終始、各派の対立もあり不遇を囲い、酒席での不祥事も度々見られ
生活も困窮した。
そう言った中での人間関係など思うことがあったのだろう。
郊外の沼山津に移り、秋津川の向こうに阿蘇を遠望し四季の移ろいを感じる所
「四時軒」を開く・・・この地から、小楠の活躍が始まる!

小楠と維新群像
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福井の像はこちら
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by enokama | 2008-07-15 01:09 | 横井小楠の周辺 | Comments(2)
5月の九州旅行の件、まだ残ってます・・・
本や資料の読み込みも大変なもんで、少し開きました。
もう少しお付き合いください!

熊本は幕末の開明的思想家・横井小楠の出身地。
彼の提言した項目のことごとくが、明治政府の基本政策となり「五箇条の御誓文」
も彼の思想を、直弟子となる福井藩・三岡八郎が起案したものである。

四時軒は彼の47歳(1855年)から新政府に登用される60歳(1868年)までこの地
で過ごし「実学」と呼ばれる現実に根ざした学問を説いた。
熊本藩内では異端の扱いで不遇な時期が多かったが、、その名声を聞き長州・吉田松陰
(「小楠堂」の頃。肥後勤王党の宮部鼎蔵とも面識があった)や土佐・坂本龍馬(3回訪れた)
と言った志士もこの地を訪れている。

なかなか行き難いところでもあり、取りあえず路面電車の終点(健軍)から歩いたら
いいのかなと調べて行ったのですが、これがかなり遠くって。

副都心と言った感じの健軍電停
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かなり歩きますが(30分近く歩いたぞ・・・)この交差点を南に曲がる
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バス停は産交バスの「秋津薬局前」(薬局は捜したけどなかった 笑)
熊本駅から「沼山津」「木山」(健軍経由)行きのバスが1Hに4~5本頻発してます。
所要35~40分。380円
他に四時軒の南へ行く路線もあるが、電車通りを通るこのバスが1番わかりやすい。
タクシーは運転手で知らん人がいたり、結構この辺でも料金が高くつくそう。

看板がまめにあるので迷いはしない
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交差点から歩約10分で到着!
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月曜休館、9時半~16時半。入場200円(記念館と四時軒)
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by enokama | 2008-07-14 22:58 | 横井小楠の周辺 | Comments(0)

番外~夏の予定

金曜夜、もうそろそろ夏の予定を立てたいなと思って、久しぶりに添乗の事務所に
立寄ってきた(その後は「維新」に行ってました。ご馳走さまでした!)
まず、例年動くことが多い次の「海の日」の3連休はなさそうで、17日の祇園祭りとか
PLの花火や平日の登山とかはあるんですが・・・ってことでお呼びはなさそう。(平日は無理なんで)
お盆の時期はほんと5年ぐらいまでは休む間もないぐらいだったのだが、最近はまったく
この時期のツアーは少なくなっている(実際、宿の方に聞いても、むしろお盆の後
の方が多いぐらいとか。まあ、元々この時期の料金がバカ高になっていたこともある)
逆にあるのが近場で京都の大文字やら奈良・春日大社の万灯会。
よさこいとか阿波踊りも出てきそうですが、こちらはツアーで行くのがむしろいいと思う。
個人で行くのは道路規制や止めるとこが大変だけど、バスだったら確実だし観覧席も
しっかり押さえてあります。

いろいろ、理由あるんだけど旅行時期の分散化ってのは団塊世代ってことで定年を迎える
人が増え、またその年代の方が(従来からの)ツアー客の主流になっていることも一因。
若い世代ほど、個人で時間気にせずってどうしてもなってくる。今の人は昔の団体行動
って教育もそれほど受けてないし。
やっぱり仕事辞めて、とりあえずしたいことって旅行。八十八ヶ所のお参りとかも月1とか
ツアーで行ってたら、それも楽しみで生きがいみたいになってくる。
そういう方に楽しんでもらいたいし、もっとこういういい所があるって教えてあげたい。
そのあたりのやりがいが、普段の製造現場の仕事と違って休日を惜しんでまでやっている理由。
そのかわり、しっかりミスなしでやらないと、本業休んで謝りに行かないとだめなんで
ただ同じように楽しんでるって訳にも行けない・・・
「そっちを仕事にしてしまえばいいやん」とはよく言われるんですが、今の僕の職場の
「月給制・組合有」みたいな、安定性がない業界と言っておきます。
まあ、それでも僕は資格も持ってますんで(一応、独立可能のもの)
旅行の相談はまた受け付けますよ。旅行会社と違って無料でやります(笑)

あと、話してたのは「高速道路のシートベルト」の件。
バスガイドさんも着席していて、6月の添乗の時も車内を立つことのないようにしていた。
でも、仕事の上では問題があって、例えば「四国八十八ヶ所」だと添乗員がまとめて朱印を
するんで帳面やお軸等、集めるんだけどこれがなかなか時間のかかる手間な作業で
今や四国内・橋もほとんど高速道路なんで、休憩を余分に取ってまで、バスが止まって
いる時にしなくてはならないと言うことで、時間のロスが出てきます。
また、安いツアーだったらOPの集金とか車内販売とか(その売り上げで稼いでる)
元々時間的にきついコース(安いほどそう)とかだったら大変になってくる。
まあ、添乗員はいいとしても責任はバス会社さんになる訳ですから、こちらもうまく
やっていかないといけないわけです。
燃料も上がってるのにやっぱり旅行代金には転嫁しないようにしてるとこも多いとか
(トラック業界もそうらしいが)なかなかまた大変なことになってきました。
ある程度は安全重視の意味でも、少しでも助けていいと思うんですがね。

てなわけで来週はまた「大阪ウォーク」に参加してきます。
その次はたぶん登山の仕事が出てきそうで、お盆は地元の祭りと、ちょっとまとまった
連休にはカレンダーはなってるんで、一応は年間目標の「庄内歴史探訪」を計画している。
調べたら、飛行機は少なくて高い!夜行バスは走ってない・・・
じつはそのあたりが、この3月まで最近の夜行列車としては異例の2往復体制の
「特急・日本海」の存在になってたわけです。
1本は大阪夜19時過ぎ発で、酒田に朝7時半ぐらいに着く列車があった。
それに乗ったら結構楽に行けたんですが、残った方の列車の酒田着は夜中3時・・・
どうして過ごせって。。
で立てた計画が

8月14日 大阪23:27(急行きたぐに)-新潟8:30・・・8:33(いなほ1号にのりかえ。
まあ、接続はしてくれるかな)ー酒田に10時半過ぎ着。
(酒田・鶴岡。15日は現地泊。2日かけて観光)
8月16日 鶴岡14:43(いなほ10号)-新潟22:55(急行きたぐに)-17日朝、大阪着。
夜の夜行待ちは新潟の街をぶらつきます。
問題はこの列車が急行なのには理由があって今どき「3段寝台」 居住性、カプセルより
狭いんじゃ・・・
A寝台はどんな感じで、料金比較はどうなのだろうか?
そんで、切符を今日買いに行ったらまだ1ヶ月前なってないって(飛行機みたいに早けりゃ
いいってことないんで 笑)
まあ、遠い所ではあるようです!
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by enokama | 2008-07-12 23:55 | 添乗報告書・旅行業界 | Comments(4)