エノカマの旅の途中

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記事が載りました!

明日付の霊山歴史館の会報「維新の道」に、先月の薩摩ツアーの記事を書かせて
いただきました。
従来からブログには報告をしてましたんで、せっかくだからと、この感想記を載せてもらおう
と前から密かに(笑)思っていて・・・話をしていただき・OKをもらいました!

ほぼ「原文ママ」で載ってるのでちょっとびっくりですが、友人(特に歴史好きではない)
に見せたところ「難しいな・・・」って。
まあ、会員向けの記事で学芸員さんにも確認していただいてるんでまあ、大丈夫かな
と思ってます(笑)

この記事の下に「寄稿」の募集も載ってますんで機会があれば、また書いてみたいと思っています。
テーマは「不可能を可能にした男~中岡慎太郎」の予定です(笑)
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グッズをいただきました。
さすが!ご配慮ありがとうございます。うれしいです(笑)
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by enokama | 2008-06-30 23:26 | 歴史全般 | Comments(2)
太宰府天満宮の駐車場から、駅を経て天満宮までの参道に、梅が枝餅等の梅製品や
うその餅、菅原道真の関連グッズと言った土産物を並べる店が並んでいる。
土産屋の通りを抜けて突き当たりに幕末史跡でもある延寿王院があり、左に折れ
太鼓橋を渡ると天満宮に至る。
また、その奥に従来からあった「だざいふ遊園地」、九州国立博物館も新設され
前述の大宰府政庁などの歴史ある史跡を入れると、福岡でも屈指の観光スポットとなっている。

「五卿動座」は1865年の1月に実現しているが、元来福岡藩の上層部は佐幕派が多く
当初の待遇は狭い屋敷に五卿を分散して押し込む有様であり、五卿付きの慎太郎を始めと
する衛士や、この動座に深く関わった西郷を始めとする薩摩の働きかけで、ようやく2月に
なって延寿王院に落ち着くこととなる。

一応、当時の雰囲気を残している部分(院の前におられた方に聞いた。でも内部は現代
風なんで実際はどうなのだろうか?)
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西郷と龍馬>>
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by enokama | 2008-06-29 23:57 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
1863年8月。薩摩と会津の策略により(公武合体で一致していた)朝廷内の主勢力を
握っていた長州勢と、その関係の深い尊攘派7人の公卿たちが追放された。
いきおい七卿は長州に下ることとなり、三田尻英雲荘の大観楼に落ち着く。
それまで付き従ってきた衛士たちは、隣接して設けられた招賢閣と呼ばれる会議所に入り 
それを慕う各脱藩の志士たちもぞくぞく集結し、京都での尊攘派の本拠が移転した形で
一大拠点の様相を呈した。その中に土佐の勤王党弾圧の動きから逃れるため、やむを得ず
脱藩する格好となった中岡慎太郎の姿もあった。
一方、この年の暮れには、薩長融和を図る福岡藩士との接触が早くも始まっている。

翌1864年。長州の禁門の変・敗退後、降伏の条件として3家老の切腹とともに
五卿動座」(征長軍解兵と平行して)が条件として出される。
この年の秋には俗論派の巻き返しによる影響で五卿は湯田を経て、長府の功山寺に
入っている(高杉の挙兵時に拝謁しているのはこのため)
五卿の受け入れには藩主の率先した意向もあり、福岡藩が名乗りを上げ、また長州へ
の寛典も願い出る。
しかし象徴的な存在である「五卿動座」には長州の各諸隊から当然、反発が起きた。
この困難な作業に筑前勤王党の面々と説得に当たったのが慎太郎で(征長総督参謀
と言う要職を務めていた西郷隆盛にも、これ以上長州を追い詰めたくない意向があった)
翌1865年1月に五卿の太宰府動座が実現している。
それに従い、慎太郎も太宰府に入り、今後は太宰府延寿王院を拠点とした活動に入る。
これらの交渉により、慎太郎と西郷の間には同志的関係ができた。
一方、五卿の首領格・三条実美の慎太郎に対する信任も、とても厚いものとなった。

太宰府天満宮本殿前の飛梅
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by enokama | 2008-06-27 00:45 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
新山口(まだ、小郡ってイメージがあるが)を12時半すぎに発ち、博多は1時すぎ。
地下鉄で天神まで行き、荷物を預けてから西鉄電車・二日市乗換えで、太宰府駅には
1時50分ごろに到着した。
大宰府と一口に言っても天満宮はもちろんだが、10世紀にアジアの窓口として
九州の中心となった大宰府政庁跡や観世音寺等の古寺群。
最近では九州国立博物館も、太宰府天満宮奥に出来たりして見所も多いエリアである。
今回は時間の関係もあって、自転車で大宰府政庁跡あたりを回ったあとに天満宮周辺
をお参り、散策してきました。

西鉄太宰府駅
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駅で自転車を借りられる。
3時間まで300円、1時間超過で100円ずつ。結構お得かも!
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もっと見る>>
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by enokama | 2008-06-25 00:07 | 歴史全般 | Comments(0)

休みがない!

ほんと、蒸し暑い日が続きます!
日時の決まっている仕事が、トラブル続きで・・・(えっと、本職の方です)
今日・土曜と明日・日曜、出勤で対応することに(ん~きつい)
また、添乗続きで休みがないってこととは、ちょっと気分が違うんですね。

とりあえず明日はスムーズに行けば、早く帰れるかなってとこまでは来てるのだが
うまく行ってほしい。
早く上がれたら、昼からは雨も止みそうだし、会社近くのあじさい園で写真を撮ってきます!
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by enokama | 2008-06-21 23:31 | 総合 | Comments(2)
2012年御茶屋再訪の記事→こちら

三田尻御茶屋(英雲荘)
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五卿(当初は七卿)がまず落ちてきて、藩の招待所的な施設であるこの地に落ち着いた。
京より随行の士、また藩での弾圧を逃れた土佐藩士の多くが話を聞き、この地にたどり着いた。
長州藩では彼ら脱藩の志士達の施設として「招賢閣」を儲け、佐世八十郎(前原一誠)らにその任に
当たらせた。

もう少し>>
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by enokama | 2008-06-20 00:11 | 長州藩 | Comments(0)
防府駅は意外にも高架駅で南側(海側)がみなと口、北側(山側)がてんじん口
となっていて、まず海側の幕末維新の史跡を回ることとする。
これらの史跡は駅の四方1~2キロに点在しているが、歩くにはちょっとハードに
なるので、駅でレンタルサイクルを借りる事とする(朝9時より)

駅より西南方向、市役所を過ぎると小高い山が見えてくる。ここが桜の名所でもある
桑山で護国神社も置かれ、野村望東尼を始め幕末ゆかりの人物が眠っている。
地図上では西麓に位置する望東尼の墓所だが、登り口は案内板のある南麓の階段から
登る(5分ちょっと)こととなる。
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案内板の通り、姫島脱出後の望東尼は下関に身を寄せ、高杉晋作の臨終を看取った。
翌年、三田尻に移り薩長上洛軍の戦勝祈願を断食して7日間、防府天満宮にお参りし(→関連記事
ほどなくしてなくなっている。

防府の維新史跡と墓所>>
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by enokama | 2008-06-19 23:12 | 長州藩 | Comments(4)
少し間が空きましたが、先月の九州行きのレポの続きです!

5月21日(木)
朝6時5分の新大阪発のひかりに乗り、徳山で在来線に乗り換えで25分ほど
8時半すぎには、防府に到着しました。

防府の名は7世紀ごろから置かれた「周防の国府」からのことで、この地方の中心
として栄えてきました。
江戸時代は、長州藩の表玄関としての軍港・商業港として、御船倉が設けられて栄え
(この場合は三田尻・・・みたじり、と言う方が馴染む)
幕末期は土佐を脱藩した坂本龍馬が瀬戸内を渡り、最初に上陸したところでもある。
また、八一八政変後の「七卿」が落ちてきた三田尻お茶屋(毛利家の招待所)があり、
護衛の志士や各藩を脱藩してきた尊攘派の集まることとなり、会議所が設けられ
「招賢閣」と名付けられた。
主な者は土佐・中岡慎太郎、久留米・真木和泉、熊本・宮部鼎蔵ら。
のちの「禁門の変」などで命を落とした者も多い・・・
また、福岡の勤王尼で歌人だった野村望東尼の終焉の地でもある。

防府天満宮の望東尼の胸像と歌碑
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by enokama | 2008-06-19 00:18 | 長州藩 | Comments(2)
昨晩、歴史好きな友人のお宅におじゃましてDVDを見せてもらいました。
約20年前に年末、日本テレビ系でやっていた「幕末3部作」の一つ『五稜郭』で
主役が里見浩太朗演じる榎本武揚!(土方ではないんです)
函館で死地を求めるが如く参戦した土方歳三(渡哲也)中島三郎助(若林豪)
その他、沢太郎左衛門(秋野大作)勝海舟(津川雅彦)黒田清隆(西郷輝彦)などなかなか
渋い面々です・・・

欧州留学から最新鋭艦「開陽丸」に乗り、先進国の国際情勢を学び帰国した榎本。
しかし、その時期幕府の屋台骨は揺るぎ始めていた・・・
鳥羽伏見の戦いで「錦の御旗」を見て、夜陰逃げ帰った徳川慶喜。奮戦する新撰組や
永井尚志。「国際法」に乗っ取り、阿波沖で薩摩と初めて海戦を行った榎本。
このあたりは押し迫る幕末の緊迫感が伝わります。

勝は無血開城で江戸城を引き渡すが、そのあたりの榎本との葛藤。
彰義隊や会津の敗北、最後まで「徳川武士」の意地を見せたい新撰組らの諸隊を
合流し、榎本脱走軍は北へと向かった。


榎本と言う人は色々、見ていてもあまり評価はよくない。
例えば、土方は最後まで武士らしく戦ったのに、のうのうと生き残って新政府に仕えた。
歴史家の肩書きを持つ人でも、榎本は死ぬべき(処刑)だったって堂々と言う人もいたり。
「足尾鉱毒 榎本」で検索してみたら、無茶苦茶な言われようをしている。

ずっと海外にいて従軍記者的な経験もあった榎本からして、薩長の私怨的な所がやはり
見えて歯がゆかっただろうし、徳川の駿府移封に関する、膨大な家臣団の処置に蝦夷を
考えるのは、当地の事情もよく知っていた上での考え。
優位に立っている海軍と最新鋭の幕府歩兵隊で武備を維持しつつ、意欲のある兵士を
受け入れ、函館に入ってからも諸外国に対して「国際法」に基づく共和国を作った。
すごく、国際人らしくまた「武士道」を考えたある意味、死地を求めた兵士にとっても
最後の幕府の幕引きとしても、彼だからこそできた。

学者でもあった甲賀源吾、中島三郎助。仙台額兵隊の星恂太郎、そして土方・・・
ほんと「和魂洋才」とも言えるいろんな人物がいた。
敗戦濃厚となって、命の欲しいものは門を開けて脱走も許している。そして、戦う意思
のあるものは最後まで戦せている。

単に死ぬことだけが美学ではない。前述のよう榎本軍の首脳には優秀な留学経験のある
知識人も多くいた。その経験を持って新しい国作りに生かせればと・・・
会津戦争では家臣がことごとく戦い尽くす前に、すぐ腹を切ったりしているが、大鳥圭介
らにしても合理的な考えもあった。
それと、全軍の将として死んで責任と言うより、志願してきた兵たちに納得するまで戦わ
せたと言う性質のものなので、生きて降伏しても何らおかしくないのではないか。
大義名分を持って、諸外国とも対等な交渉を行おうとした。

西郷・黒田は長州勢の強硬案を押し切り、こちらでも寛大な処置で戦後処理を行って
黒田は蝦夷地開拓にそのまま、彼らの人材を送っている。
榎本はロシア・清と言った国際問題、蝦夷地の開拓。また技術官僚として各産業の発展
に寄与。東京農大の設立、日本気象協会の設立、メキシコ移民事業・・・
どれだけ明治の発展に貢献したか図りしれない。

榎本の生涯を描いた作品。ほんと、微動だにせず集中して見ました・・・
ぜひ、レンタルしてもらって榎本のことをわかってほしいと思います。
土方も最後の上司が榎本でよかった。
でも、この作品は3時間×2で(前後編)で非常に長いのです。
で、まだ前編までしか見てないのです(開陽丸、沈没まで、、涙)

後編は「宮古湾海戦」「土方の最後」「中島父子の最後」
まだまだ、楽しみだ!
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by enokama | 2008-06-15 01:01 | 幕府東国諸藩 | Comments(0)

明日放送!

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日曜日朝少し早起きになりますが 、NHKの8時25分から「ルソンの壷」と言う番組
をぜひ見てください!(たぶん関西のみかもしれませんが)
なかなか面白い名物社長が出てきます。
いつも霊山の行事で一緒になる人なんです。。。
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by enokama | 2008-06-14 18:00 | 総合 | Comments(4)