エノカマの旅の途中

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しあわせさん

先日の日曜、添乗で讃岐のこんぴらさんに行って来ました。
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本殿、階段785段。

行程は昼食にうどん食べて、琴平に着いて3時間半フリー・・・
もう1回うどん食べた(笑)
やっぱりコシが違う!

土産のうどんは地元産の小麦で作られたものを買った。
風味が好き・・・

琴平散策>>
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by enokama | 2007-10-31 23:52 | 旅行 | Comments(2)
浮見堂
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紅葉が深くなれば・・・

高畑界隈を歩く>>
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by enokama | 2007-10-27 01:30 | 大和の史蹟 | Comments(0)

正倉院展の帰りに・・・

てな訳で今年もこの時期に奈良に行って来ました

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ほんとは奈良国立博物館で「正倉院展」を見てと思ったんですが
まだでした(泣)

でもせっかくの平日の休みだし、始まってからだと混むだろうと思って
じっくり、写真を撮っておこうと・・・コスモス寺こと「般若寺」に昨年に続き
行って来ました。
天気予報はも一つだけど「明るくなってきたやん」・・・
なんとか行けるかな!

コスモス寺>>
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by enokama | 2007-10-26 23:33 | 大和の史蹟 | Comments(0)
第一次征長(戦火は交えなかったが)が終わり、長州の威信は地に落ちてしまった。
こんな中、俗論党台頭の中で追われる身となった高杉晋作は、筑前脱藩の同志・中村円太を頼りに
福岡藩に亡命を図る(1864年11月始め)
潜伏先は勤王志士に多分の援助を惜しまなかった尼僧・野村望東尼のいた
城南の平尾山荘 筑前勤王党の秘密裏の活動拠点となっていたところである。
望東尼や月形ら勤王党との交流を経て、再起を図っていた。また薩長融和にさきがけ
この平尾山荘で西郷隆盛と密会したと伝説も伝えられている(西郷は広島にいたことがはっきりしている
ので史実ではない)

だが、この地での滞在も長くはなかった。
俗論派の握ることとなった政権での長州では幕府恭順のため、主戦派だった3家老の首級・4参謀の斬首の
征長総督府の一条件を呑むこととなる。
その事態に高杉は急ぎ帰国。正義派の勢力を回復すべく、やがて長府・功山寺に五卿拝謁のあと
馬関新地襲撃にて挙兵、翌年1月には俗論派軍との内訌戦に勝利をもたらすこととなる。

このころ具体的になってきた、福岡藩あげての長州救済に向けての「五卿動座」「征長兵解兵」の運動
その先兵として、早川勇は高杉帰国を追うように再度長州に入国する。
尊攘のシンボルとしての「五卿動座」により、過激尊攘派と切り離すこの動きには
当然各諸隊の反発を呼び殺気立った雰囲気となる。

しかし、このころから早川は強力な同調者と行動を共にすることとなる。
土佐脱藩・中岡慎太郎である。
彼は「薩長融和」の意を十分汲んだ上で諸隊の反発を押さえつつ周旋に回り
また早川の命が狙われているとなると、機転をきかして彼の身を守った。
12月初旬、福岡藩士の月形らとの交渉で小倉にいた西郷の下に赴く際は、関門海峡の長州関係者の
渡海が禁じられていたこともあり
福岡藩・早川勇の従者、寺石貫夫として行動した。

「場合によっては刺す覚悟」とした慎太郎の西郷との対面だったが
その態度に感服し、長州側の説得にさらに尽力することとなる。
ここで長州に続き、薩摩・西郷と言う後盾を得て、慎太郎の活動はさらに飛躍したものとなっていく。
また、西郷・月形の周辺では「薩長筑同盟」の構想も出されていたという。
「五卿動座」は1865年1月14日に実現、大宰府に向け下関を出発することとなる。

この第一次征長後の情勢、各藩の勤王派は弾圧されることが多くなっていた。
しかし、黒田長溥は長州の工作には、敢えて顔のきくであろう勤王党を使わざるを得なかった。
皮肉なことにその長州は高杉晋作により、反幕を色濃くする正義派が再び政権を握り
そこに筑前勤王党も同調する流れができはじめたのだ。
このままだと、福岡藩も幕府に敵対する勢力とされかねない。
これだけは、どうしても避けなければならない・・・
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by enokama | 2007-10-24 22:08 | 福岡藩 | Comments(0)
「安政の大獄~桜田門外の変」と世の中が騒然とする中、勤王党首魁・月形洗蔵は行動に出る。
桜田門外の変後の政情不安の中での参勤交代の中止を求めたのである。

藩主・黒田長溥は、井伊の独裁政治には批判的で「全国一和」の信条の下
朝廷と幕府の悪化した関係を修復したいとの思いを持っていて、この機会を狙って
月形は思い切った建白を出す。

「天朝は天下の君である 幕府は諸侯と共にその臣である」とし
参勤せずに在国し、富国強兵の策を講じるべきであり、今は参勤出府の時期ではない。
参勤するのであれば大兵を率いる覚悟で、一藩の犠牲を辞さない覚悟が必要だ。

土佐の山内容堂同様、勤王の意はあったと思え、思い切った藩政改革は保守派の反発を招き
勤王派からは淡い期待を抱かれ、苦悩もあったかと思う。
しかし、幕府否定の考えは到底、許されるものではなかった。
長博は一時的に参勤を延期したものの、参勤を決定した際には勤王党の処分に踏み切り
30名以上の関係者が幽閉・流罪となる。
これを「辛酉(しんゆう)の獄」(1861年4月) と言う
洗蔵らも幽閉となるが早川らの運動や、井伊体制後の文久期の緊張緩和もあり
1863年6月に釈放される。

同年8月「八一八の政変」で京の朝廷と結びつき、攘夷を目論んでいた長州勢は七卿と
共に追放され(のち五卿に)薩摩との仲は険悪なものとなってしまう。
しかし、この直後から月形・早川らは、同じ西国尊王雄藩の同盟「薩長同盟」(薩長筑)の構想を
早々と打ち出す。
背景に長州に同情的な勤王党の面々、藩主の出身である薩摩とのパイプがある。

長州は禁門の変、4カ国艦隊の砲撃、第一次征長と言った流れで窮地に立たされた。
そこへ藩主・長溥は救済に乗り出す。
征長軍の解兵。その条件に出された五卿動座での福岡藩(大宰府)で一括引き受け。
家老・加藤司書は征長総督府の置かれた広島に再三赴き、尾張や薩摩・西郷らとの交渉に臨み
一方、勤王党の月形・早川勇が中心となって、このころは長府・功山寺に滞在した五卿との対面や
五卿引き渡しに否定的な諸隊との交渉に決死の覚悟で臨んだ。
このころが一番の筑前勤王党のめざましい活躍が見られたころである。
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by enokama | 2007-10-22 22:32 | 福岡藩 | Comments(2)

菊花賞の予想

◎サンツェッぺリン
○アサクサキングス
▲アルナスライン
△ホクトスルタン
×ヴィクトリー

先週、負けすぎて今日は自宅観戦・・・
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by enokama | 2007-10-21 14:13 | 競馬 | Comments(0)
福岡藩の動き、なかなか更新できなくて申し訳ないです(苦笑)
本はかなり読み込みましたんで、中岡慎太郎の動きと含めて紹介
して行きたいと思ってます。


早川勇(養敬)

筑豊を流れる遠賀川の河口近く、虫生津(むしょうず)村(現・遠賀町)に生まれる。
大庄屋の息子と言う立場は、土佐の中岡慎太郎と同様、庶民の生活の矢面に立つこととなり
早川も幼いころから勉学に励んだ。のちに慎太郎と知己となる下地はこのころからあった。
12歳のころ、近隣の福岡藩の大儒・月形一門の月形春耕の私塾に習い、その学識を買われ
15歳で福岡城下の本家・月形深蔵の元に入門する。
ここで、深蔵の息子・洗蔵と起居を共にし、のちの勤王党活動の同志となる。
このころ、月形一門は尊王攘夷を唱え、勇も多大な影響を受けていたが
一旦は医者を目指し(周囲の人物に比べ身分が低いのを感じてか?) 
江戸留学後、村医として開業する。「養敬」とはこのころの医者としての名前である。

しかし、時勢は彼をほっとけはしなかった。日頃から議論を戦わせてきた洗蔵や
藩医の最高位の名家の出ながら、激しい尊王攘夷論を語った鷹取養巴に引っ張り出される形で
福岡にて勤王党活動に身を投じることとなる。


黒田長溥(ながひろ)

島津藩の出。蘭癖大名と言われた島津重豪の子で、のち福岡藩・黒田家の養子となり、11代藩主となる。
先代10代藩主・斉清も蘭癖大名であり、治政は家臣に任せきりで、むしろ学者として名を馳せた。
長崎にいたシーボルトとも交流があって、主として本草学(草木等の植物)の研究で多数の著書も残した。

そんな影響も受けて藩主就任当初から開国通商論で、嘉永6年(1853年)阿部正弘の行った
ペリー来航における幕府の意見微集では、各論喧々諤々の中、最も強硬な幕政批判を以て
まだ唱える者も少なかった開国論を主張したことでも知られている。
一方、藩内では写真・時計・ガラスそして軍制改革等、近代化路線を推し進めていた。
ただし急激な開明論には元来、保守的な門閥層や根強い尊攘論(勤王党の勢力が強かった)の前に
肝心な財政再建が達成できなかったこともあって、掛け声だけで中途半端に終わってしまった感が強い。
また、福岡藩は佐賀藩と隔年交代で長崎警備の任に着いていたが
佐賀藩は財政を立て直して、長崎でも砲台の強化を進め、その任務を十分に生かした
外国からの情報収集等で知識も得て近代化を進め、藩内での武器製造にも踏み切るほどの
幕末に大きな存在感を示した佐賀藩に対して、意気込みこそ見せたものの
大きな遅れを取ってしまった感が強い。

また、有為の青年を長崎はてはオランダへと留学させて、人材教育に力を注いで
維新後に多数の福岡出身者の外交・法律畑での活躍の下地を作った(団琢磨、金子堅太郎ら)
外交面では出身の薩摩とのパイプの他に、幕府の征長には批判的で「全国一和」を願い
長州の救済に動いた。
勤王党とは反目・協調をくりかえしながらも、独自の路線を進もうとする。
しかし、彼は結果的に誤った判断を下すこととなる・・・
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by enokama | 2007-10-21 12:41 | 福岡藩 | Comments(0)

そして神戸・・・

実は兵庫県に住んでながら、京都・大阪に行くよりも時間がかかること
もあって、神戸には馴染みがあまりなく、ブログのアップも初めてになります。

神戸市立博物館
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昨今、民放のバラエティの低俗化が目に余るこのごろ。
癒されるのはNHKの教養番組(NHK大好きです!)

「その時 歴史が動いた」 「ダーウィンがきた」(日曜) 「世界遺産」(土曜)や
「NHKスペシャル」の大自然の特集(富山湾の時はほんと、感動した)
いらないタレントのコメントも、数字も気にしなくていいんで製作者の意思が
ひしひしと感じられ、こfだわりも大好きなんです!

今年の初夏に放送された「三大文明 インカ・マヤ・アステカ」
その展示会が「神戸市立博物館」であり、僕にとって久々の連休でもあり、行って
きました。(入場料は1300円。JAF割引だと300円引きでちょっとびっくり 笑)

マヤ文明・・・密林の王朝
自然と共生し、密林の中に育った文明。暦を支配するものが覇権を握った。
(作物の種付けや収穫の時期を指示した)また、幅広い交易も特色。

アステカ文明・・・湖上の大都市
湖の中、埋め立てでつくられた中心都市・テノチティトラン。
ここも自然と共生した文明があった(現在のメキシコシチーの場所)
諸民族の戦争の主因は「神に捧げる生贄の獲得」
捕虜となったものは、神殿の儀式で心臓を捧げられ、勝者の王権は神格化
され強化されて行った。
これらの儀式は、自然のサイクルと再生の原理を保つ「神々との契約」の
遂行のために行われた。

インカ文明・・・天空の都
高度な文明で知られたインカだが、文字がないとされてきた。
しかし「キープ」と言うロープ状の物に(結び目の位置やロープの色などで)
情報や数値を記憶させていた可能性も出てきたそうだ。
また「ミイラ」の習慣があり、非常に手入れが行き届き、リアルに残っている
のもびっくりしました(定期的に衣装など変えて、死者も共生している感覚。
生と死の境があまりない)

今回は特にインカのリアルな展示が良かったです。
今の私たちには理解できない習慣も、長年にわたり信念に基づき続けられて
きたわけです。

ちょっと歩きました>>
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by enokama | 2007-10-21 01:25 | 散歩 | Comments(2)
先月、御福餅のネタを取り上げたのですが、まさかこんなこんなことに
なるとは(苦笑)
実際、赤福の替わりに買って行く人も見られるそうですが、販売量も違い
ますし、身の丈以上の販売もしんどいかも知れません。

赤福は大阪・京都でも、なんぼでも買えて山積みされてました。生ものだと考えると
売れ残りも十分出てくるし、再利用と勘ぐられてもおかしくない状態だったのでは
(ちなみに御福餅は保存料の使用が明記されています。関西にも赤福の工場が
あるんで、ちゃんとやれば作りたてが可能とも言えますが)

圧倒的なブランドがあったがゆえのケース(北海道の白い恋人、然り)
個人的には今まで大丈夫だったのに、ちょっとの賞味期限でやいやい言わんでも!
との思いもありますが(コンビニで処分する弁当とか、飢えに苦しむ国から見たら
どう思うだろう)
でも、今の時代ではしょうがないんでしょうか。「作りたてを販売する」方法は実際、
システムを構築し開示して実践しているところもありますし、そういう所が残っていく
んでしょうね。
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by enokama | 2007-10-20 04:15 | 総合 | Comments(0)

2007 秋華賞

淀の秋のG1シリーズ始まりました。
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新しいターフビジョン。長~い・・・

もっと見る>>
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by enokama | 2007-10-19 23:29 | 競馬 | Comments(0)