エノカマの旅の途中

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5040分の1

昨日開催の高知競馬場の7頭立てのレースで、入着順が7,6,5,4,3,2,1ときれいに馬番の逆になった。その確率5040分の1!(人気通りだったらしい)
中央で最近の記録では、98年に馬番どうりに(16年ぶりの記録)93年には今回と同じ、馬番の逆で入着した記録がある(どちらも7頭立て)
1番の記録は80年に小倉の新馬戦・8頭立てのレースで馬番どうりの入着(確率・40320分の1!!!) 少頭数のレースじゃないとできない記録で、函館あたりの新馬戦や長距離戦ぐらいが1番可能性あるかもしれないけど、なかなかかな。せめて着順掲示板の5着までがきれいに並ぶのを1回見てみたいもんです。

ネタ元は今月号の「優駿」(「競馬塾」廃刊、「競馬の達人」がつまらなくなった後、10年ぐらいほぼ毎月買ってる)の巻末特集「決勝写真」にたまたま載ってました。今月号は牧場めぐりの特集もあって、いい写真も多いですんで、購入をおすすめします!
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by enokama | 2006-07-31 23:32 | 競馬 | Comments(2)

適塾

橋本佐内のことを書いたので今日は適塾について語ります。

緒方洪庵(1810-1863)文化7-文久3
江戸末期の医学者で蘭学者でもあり、一番に知られたのは教育者としての顔であろう。その門からは明治期日本で活躍した多くの人材を輩出した。名は章,字は公裁,号を華陰,適々斎,洪庵とした。

備中国足守に生まれる。父とともに大坂に出、医学に進む決心をし,1826年(文政9)中天游の門に入る(当時の大阪は文字どおり、日本経済の中心で豊かな商人が多かった。そんな中で彼らは教育・文化面に力を注ぎ後進を育成した。中天游はそんな成熟した環境の中で蘭学の塾を始めた)
4年後江戸に行き31年(天保2)坪井信道に師事、さらに宇田川玄真(うだがわげんしん)にも学んだ。天游の死で大坂に出るが、36年には長崎に遊学。38年大坂に戻り、瓦町で医業に従事するとともに蘭学塾を開く。

同年、中天游門下の兄弟子でもある摂津名塩(現西宮市)の医師・億川百記の娘八重と結婚(のちに適塾で洪庵の右腕でもあった長州出身の伊藤慎蔵により、名塩の地にも蘭学塾が開かれる。当時は山間の寒村だったこの地にも入門希望者が多数訪れる。現在は跡地に八重の胸像と碑があり、附近の通りは蘭学通りと言う名が付いている)

塾は45年に過書町(現,大阪市中央区北浜3丁目)に拡大移転する(この建物は現存、史跡・重要文化財) 適塾(適々塾,適々斎塾)と称し、各地から入門者があり日本有数の人材輩出塾となる。一方、種痘法の導入・普及に努力し、大坂に除痘館を設け分苗を行った。また、コレラ流行(1858)時にはいち早く、それに関する医書を刊行するなど素早い反応をみせた。62年幕府に召され,奥医師兼西洋医学所頭取となり法眼に叙せられたが在職わずか10ヵ月で喀血、急死した。

代表的な著訳書として,生理学書《人身窮理学小解》《病学通論》,ドイツの内科医フーフェラントの内科書の訳《扶氏経験遺訓》《虎狼痢治準》などがあり,医師の義務をうたった《扶氏医戒之略》は有名で緒方家蔵本と億川家蔵本がある。  

門下生は戊辰~函館戦争を見ても、新政府軍の軍師・大村益次郎。その江戸・上野戦争のさなか、平然と授業を続けた福沢諭吉。函館の旧幕・榎本武揚の函館政府に身を投じた幕府陸軍きっての秀才・大鳥圭介。その本拠・五稜郭を設計した軍学者・武田斐三郎。その函館戦争の最中、国際的な慣習に則り、敵見方訳へだてなく診察した医師・高松凌雲。日本赤十字社の創設者・佐野常民。そして橋本左内ら個性豊かな人材を輩出した。

前述のとうり、適塾の建物は戦災からも逃れて北浜に現存していて、適塾~大阪大学医学部と言う流れもあって現在は大阪大学が管理しています。中にはゾーフ部屋があって、当時は貴重だったゾーフ(蘭和辞書)が一部のみ置かれていて、塾生は競い合って見て勉学に励みました。また、大部屋の柱には誰かが酔っ払ってつけたと言われる刀傷が残っていて、往時がしのばれます。幕末期に盛んに作られた、唯一残っている蘭学塾の遺構です。 
開館時間 午前10時~午後4時(年末年始・日祝日・月曜 休み)
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by enokama | 2006-07-28 23:27 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(4)

悔いを残さない人生って

某局で去年亡くなった本田美奈子の特集をやっていた。
去年の1月に病気が発見されて、デビュー20周年の企画がいろいろ予定されている年で本人も張り切ってただけに、とてもショック受けているけど、まだ早期で大丈夫のようで「闘う」と言うコメントを出していた。
そして一旦快方に向かって、退院もしたんだけど再発して。僕もてっきり治ってるんだろって思ってただけに、ネットニュースで見たときは嘘だろと思ったし、涙が出た・・・

昔のアイドル歌手の時のビデオ出てて、当時はそう思わなかったけど歌唱力はズバ抜けてるね。それとアイドル歌手って言われたくなくって「アーチストを目指している」と宣言してたこと。それからレッスンや舞台を積んでの完成された歌声はほんとに心に残って。
また病床の写真があったけど、いい笑顔の写真がいっぱいあって、ほんとにいい人だったんだなと、もっと歌いたかったんだろうと、惜しい気持ちがいっぱいです。

少し話は変わるけど、幕末に大老・井伊直弼によって行われた「安政の大獄」(将軍継嗣問題で対立の候補を押した人々をことごとく処罰した・・・継嗣問題に直接関係のない、反幕とみなされた思想家や幕府内の改革派も含まれ、人材の払底や幕府の弱体化にもつながった。のちに反感を買い、暗殺されるのも当然の結末と言える)で殺された中に越前藩士の橋本佐内がいる。あまり一般には知名度はないけど、この時に刑死した長州・吉田松陰や薩摩・西郷隆盛(奄美に藩主と対立して流刑になってたため難を逃れた。しかし将来を悲観して入水自殺を図るものの蘇生。以後の活躍は有名なところ)と並ぶぐらい、各地に知られた名士で思想家(わずか15歳で著した「啓発録」が有名。以下)

①去稚心:稚心を去るというのは、自分を甘やかしたり、自分勝手をしたり、自分の都合を優先したり、親の保護に甘えたり、責任を転嫁したりするような心を捨てる、ということです 
②振気 :やる気を起こせ振気というのは「気を振るう」ということ。何か事を始めようとする時、必ずしもやる気満々で取り組めることばかりではない。日常でも、○○する気がしないというようなことは時々あるのではないか。そんな時、多くの人は腹に力を込めて、さあ頑張るぞと気合を入れ「気をふるいたたせる」るでしょう。
③立志 :志を立てて目的を持つ事。(目的と手段を間違えるな)
④勉学 :親に習い、目的とする師などの人物の真似をして学べ。
⑤拓交友:友を選べ。総ての人は我が友であるが苦言を呈してくれる益友を選べ 

将軍継嗣問題で共に行動した西郷隆盛は本当に親友だったそうで、西郷が死んだ時に肌身離さず持っていた竹筒の中に佐内の手紙が入っていたと言う。また極刑になった理由は越前藩に影響を持っていた横井小楠の思想もあり、徹底的な開国論であったこともあるらしい(井伊自身は横浜での開国の勅許に捺印しているので矛盾もしている。元々は攘夷で外国嫌いらしくその場逃れの行動といわれてもおかしくない。また国学者で攘夷寄りの思想の梅田雲浜や頼山陽の息子・樹三郎の検挙もあって、思想的なものよりも反対勢力の抹殺のみと言う面もある) 体制を維持するだけの従来に近い人事を押す井伊側に対し、処罰された人々の方が開国問題や外圧等で揺れ動くなかで、国のことを思っての行動(実力があって、この大局を乗り切れるとの評価が当時高かった水戸の慶喜を押した)で無念のことだと思う。
左内の最後、武士なので死ぬ覚悟はできてるって言ってても処刑の時、その刑刀を一旦手で受け止めたと言う話も残っている。そりゃ死にたくないよ。まだ何もしてないし、そのことを為すためにいろいろ努力してきたのに。

藩医の子に生まれ、名門の大阪・適塾に入門(本来は医師の学校だが、他の分野で活躍する人物も多数出た。大鳥圭介、大村益次郎、福沢諭吉、高松凌雲らが有名)浮浪者の病気を診察するぐらいの心優しき青年。本来は医師になるはずが、時代の流れや大阪時代の経験もあり政治の道へ。開明的な藩主・松平春嶽に見出され行動。人物登用にも優れた藩主に仕えた、開明的な志士の生んだ悲劇。享年25。

福井駅から西へ電車道に出る。南へ向かって幸橋を渡って、右手に見える足羽山のふもとに左内の墓と銅像があります(左内公園) ちなみにこのあたりは左内町と言う地名になっています。
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by enokama | 2006-07-27 00:03 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)

公共事業と地方

久しぶりの更新になります。特にネタがないわけじゃないけど、写真撮ろうと思っても雨雨で・・・
先週の京都・祇園祭は最悪の天候でした。まだ暑い暑いのほうがいい!
今週の大阪・天神祭はまだ恵まれて実施されたようですね。もうそろそろ梅雨明けで夏本番と行きたいもんです。

滋賀県で公共事業を抑える公約をした知事が早速、矢面にたたされている。トレセンのある栗東にできる新幹線「びわこ何ちゃら・・・」(ネーミングも最悪)って駅。30分おきにこだまが止まるだけで、在来線にもつながらないと言う正直使えそうにない駅。岐阜近辺の人たちが使わない岐阜羽島(平行私鉄対策で名岐間がかなりよくなった上に、こだまが減って利用が減った)や新尾道(福山から在来線が十分使える)三河安城(まだ在来線に接してるだけまし)と言った例があるんだけど。税金の地方委譲をもっと進めたら、たぶんできないもんだろうけどね。

まあ何か作らないと土建屋も大変だけど、逆にいるものは作りきったんだね。僕の住んでいる近辺もバタバタとつぶれていってる。農道もほぼ舗装されたし、ダムはできるところはみんな作ったし、下水も通ったし・・・ 第一作っていっても、人口自体減ってるし地域が成り立たなくなってきて、作っても意味のない事業が増えてきたこと。これは少子化とか簡単に言うけど、僕らの世代でも正職につけずバイト掛け持ち(でもあまり稼げない)とか、僕らみたいに勤めてても何だ!って言うぐらい保険や税金引かれたりして余裕の感じることがまったくないこともあるし。
角栄さんの政策以来、土建の担ってきたことは大きいだろう。でもやはり時代が変わってきたし、税を納めるほうの目もシビアになってきた現状、変わらないとだめだろう。馬主に鹿児島とかの土建屋の人も多いんで、かなり儲けてたんだろうけどね。

先日行った高知、高速は須崎まで延びていて(これまでが不便すぎたんでようやく。これより先は需要が・・・)高知駅は高架工事中。それ以外、バスは相変わらずカマボコ型の何年前?ってのがまだ走っていたし、路面電車も昔のものをだましだまし使って何とか残してるって感じで、市街地の賑わいはもっとあっても。西国の雄藩だったところはも一つ、今は元気ないんですね(それが明治維新の特色でもあるけど)江戸時代のように各藩に完全に委ねる(地方自立)ようなやり方は今できるんだろうか。それこそ、いい所悪い所で格差は広がってしまうけど・・・
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by enokama | 2006-07-26 00:00 | 総合 | Comments(0)
結局、昨夜は同室の方と12時ぐらいまで話が盛り上がって・・・(笑)
まあ、いいお風呂なんでもう一回入りたいなと思って、6時過ぎには起きて入ってきました(旅先では元気なんだなあ)
8時出発で安芸へ。約110年前、まだ時計があまりなかった時代にこのあたりの地主だった畠中氏が、近隣の人に時を伝えるため(野良仕事の人が目印にしていた)アメリカから部品を取り寄せつくった時計台が野良時計(残念ながらもう動いていない。ぜんまいの回し方が特殊で、先代の人から伝えられなかったらしい)と呼ばれています。
安芸城下(土居廊中)の武家屋敷群へ。あまり田園の中って感じで観光地化してなく静かなたたずまいです(今回は行ってないけど、歴史民俗資料館もある)
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安芸をあとにして、浦戸大橋を渡って高知・桂浜へ。龍馬像と対面、浜はかなり波が高いです(高知はそのため、遊泳禁止のところが多い。へたしたら、さらわれます・・・)
続いて、桂浜より登った浦戸城址にある県立坂本龍馬記念館へ。昔からあったかなと思ってたんですが「15周年」と出ていました。後発の博物館なんでどうしても展示品は複製が多いんですが、龍馬の一生がわかりやすく年代を追って紹介されています。また図書コーナーも充実していて、城址の場所でもあり展望もかなりきれいです。
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また8月31日まで企画展「それぞれの幕末 龍馬、半平太そして以蔵」をやっていて、特にあまり知られていない岡田以蔵についての紹介が興味を引きました(武市半平太とは師弟の間柄で、イメージとは異なり半平太同行の手剣術修行の際、まめに日記を書いていた。また勝海舟や中浜万次郎の護衛もしたこともあり、無学な印象はけっしてない) 

以蔵の辞世の句 「君がために尽くす心は水の泡 消えにしあとは澄み渡る空」
なんとも・・・

隣接の桂浜荘で食事のあと、バスで高知市内・高知城下へ。お城を登るのは今の時期きついけど、天守に着いての風がここちいい。また今は大河の「山内一豊」でいろいろイベントが企画されてるようです(城隣接の高知ゆかりの文学者を紹介した高知文学館でも特別展がはじまる。今回はその展示替えで休みだった) 
お城のあとはしばらく自由だったんですが、僕は城から南下して電車道を横切り、鏡川べりの山内神社に隣接した「土佐山内家宝物資料館」へ。大名の宝物なんで、さすがに貴重なものが多くってお勧めです。この後はひろめ市場で新鮮な海産物を堪能(かつおの叩きは絶品)した後、バスへ。

板垣退助像と高知城
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最後の立ち寄り先は坂本龍馬誕生地近くにある「市立龍馬の生まれたまち記念館」
最近できた施設なんですが、主に幼少期の龍馬や取り巻く人たちを紹介。
坂本家の離れを再現したコーナーもあってくつろげます(くつろぎすぎて実はここで
デジカメを忘れてしまいました・・・苦笑。最終解散後、電話してわかって路面電車で取りに行きました。記念館の方ご迷惑おかけしました)
ちなみにこちらは19時まで開館(18時30分まで入場)なので立ち寄りやすいと思います。
また少し前まで誕生地の碑の前に龍馬の胸像の乗った電話ボックスがあったんですが撤去されています。

高知駅で解散。18時10分はりまや橋発のバスで帰路に着きました。
今回は素人質問にも親切に答えていただいた木村学芸課長をはじめ、歴史好きの方と充実した旅行を楽しむことができました。またこのような機会がありましたらぜひ参加したいと思います。
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by enokama | 2006-07-12 00:24 | 土佐藩 | Comments(0)

高知へ行ってきました

先週の1~2日にかけて、僕が会員になっている京都・霊山歴史館の研修ツアー「龍馬・慎太郎の故郷と功名が辻の舞台を訪ねて」に参加してきました。
会員になって久しいんですが、今回は僕の尊敬する幕末の土佐陸援隊長で、薩長同盟の真の立役者と評価する人もいる中岡慎太郎の故郷・北川村(ちょっと交通の便が悪いので、個人では行きにくい)に行くのと、土佐勤王党の悲しい出来事のあった奈半利川沿いにある「二十三士温泉」泊と言うことで、初めて参加しました(ツアーはだいたい年に一度くらい実施 )

霊山のツアーは全国に会員がいますんで、基本的に現地集合・解散。僕は添乗の仕事で四国は高速が充実して、バスがかなり早くなってるのを知ってますんで、渋滞等も見越して神戸・三ノ宮発の往復バスを選択して高知に向かいました(朝7時30分発ではりまや橋着が11時15分ぐらい・往復割引で9800円。JRだったら岡山~高知で2時間30分強かかって、運賃ももっとすることを考えるとお得感あります)
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高知駅が12時30分の集合なんで、それまで1箇所立ち寄ろうと思って、はりまや橋の南の路面電車沿いにある(桟橋通4で下車)高知市立自由民権記念館へ。板垣退助の国会開設運動から始まり(岐阜で演説中に暴漢に襲われた際の刀も展示されている)植木枝盛や林有造・中江兆民・中島信行らの国会開設後の動きまで、かなり充実した内容でした。またいわゆる民権派の人たちの作成した憲法草案も(伊藤博文らの憲法は結局、かなり民主的なものとはかけ離れてしまった)展示していて、図書室の資料も充実してました。限られた時間でゆっくりできなかったんでまた訪れてみたいです。また板垣の銅像は全国で5箇所あります(高知城・岐阜公園・日光神橋。あと2箇所はどこでしょう?) 月曜休館・9時30分~5時まで。

高知駅でツアー合流。安芸の地場産館に立ち寄ってから、奈半利川沿いに北川村・モネの庭へ。フランスの画家・クロードモネの庭を模して作られていて、現地の方(フランス)が監修されています。じつはモネは日本の庭も参考にした部分もあってある意味、里帰り的な面もあるそうです。ちょうど熱帯睡蓮の時期で、昼下がりで微妙に閉じかけているものもあったりで自然を感じられます。お土産は北川村の柚子菓子やワインを。
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モネの庭を後にして、最近できたバイパスを通って中岡慎太郎館(生家)へ。慎太郎の笑顔の写真が迎えてくれます。館内は北川の庄屋見習いの時期から、脱藩して長州での活動。禁門の変から筑前を含めた薩長同盟の構想~陸援隊の結成と彼の功績が紹介されてます。また生家も程ないところにあります。学芸員の豊田さんにも久しぶりにお会いして、いろいろ話聞かせてもらいました。ちょっと残念なのが、彼の手紙等の資料がまとまって東京にあったんですが、その多くが戦災でなくなってしまったこと。残ってたら薩長同盟の具体的な動きなんかもわかったでしょうけど。北川村の空気を十分満喫して後にしました。
夏季企画展「幕末土佐勤皇志士の手紙」は 8月2日~9月18日
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宿泊は田野町の「二十三士温泉」 土佐で勤王派の弾圧が行われ(禁門の変の後、筑前や長州・越前などでも見られた)捕らえられた首領・武市半平太らの釈放を求め、決起したものの反乱軍と見なされて全員殺されてしまった二十三士の最後の地、奈半利川の河原の前にあります。また、昭和初期のライオン宰相こと浜口雄幸が、五台山ふもとの生家(今は記念館になっている)から養子に入った先、浜口家も歩いて程ないところに保存されています(入場無料)
温泉は昔からのものではなく、最近ボーリングしたものですが(炭酸水素塩温泉)すごいなめらかでいい温泉でした。また、やはり歴史好きの方同士なんで、話はなかなか尽きませんで楽しい一夜を過ごしました。
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2日目は後日・・・
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by enokama | 2006-07-09 00:10 | 土佐藩 | Comments(0)