エノカマの旅の途中

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カテゴリ:私の好きな京都( 153 )

先週18日の泊り明けに京セラ本社の一階にある京セラ美術館にて「鳥羽伏見の戦い150年展」の展示があるので行ってきました(12月3日まで)
最近、地下鉄にポスターが貼られていたのとNHK京都の情報番組で紹介されて知ったもので点数60点ほどの展示ですが、この戦いのあらましや経緯についてもパネル展示がわかりやすくって、改めて確認し知ることができました。
伏見奉行所跡からの出土品や開戦のきっかけのパネルや資料、庄内藩の薩摩藩邸焼き討ちの際の絵図、銃や弾・砲弾類と幅広く
合戦の錦絵のように書かれた鳥羽伏見戦図は直接の表現を憚って、戦国の武将の名前をあてはめるなど(こういった展示は大阪城天守閣にもあった)当時の世情を感じます。

大村益次郎研究もされている竹本知行氏の講演がありました。
火縄銃から始まり、銃の改良に伴う鉄砲の変化から戦術が変わり、社会も変わると言う水戸学の意味も交えた深い話は本当にためになりました。

引き続き移動しまして・・・


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by enokama | 2017-11-21 18:34 | 私の好きな京都 | Comments(0)
岩倉へは今年(→こちらこちら)も度々行ってますが
先日、いつもお世話になっている中岡慎太郎館の豊田さんがこちらで講演されるということで行ってきました!

やっぱり着いたら岩倉は寒いなって感じですが、紅葉がきれいでありました!
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会場は対岳文庫で定員いっぱいで嬉しい限り。
こちらの学芸員さんと豊田さんが古くからの知り合いってことで「岩倉具視と中岡慎太郎」の仲もあって実現したそうです。

記録に残るもので慶応3年4月21日に初対面してから、7回二人は会っているそうです。
日記上では岩倉のことを「岩翁」とか「烏公」とかいろんな名前に置き換えてあるので、そんなに会ってるとは思わなかった。
そんな歴史的な場所が今も残っていることはうれしい限りですね。
対面のきっかけは度々書いてきてますが、やはり岩倉の持つ「国家ビジョン」と言うものに触れたことがきっかけで
のちに陸援隊には従来から岩倉に近かった香川敬三や大橋慎蔵(三)も加入しています。
講演では二人が残した論考を紹介されて、お互いに意見を戦わせて「公卿に人がいない」と語ることも多かったとされる慎太郎も、人材を得たりとしてその議論は充実したものであっただろうと思われます。
岩倉の論考では海外への大使派遣や県令の任期制(世襲ではない)など、新しい国家への先進性のある提言がされており、よく岩倉と慎太郎は「武力討幕派」と言うくくりにされてしまいがちですが「政令二途」と言った状態の解消もある「王政復古」(廃幕)への動きがこのころの早急な課題であり、その形態をどうするのか。
岩倉においては朝廷内での佐幕派への対応と割拠しつつあった西国雄藩勢力への支持者の獲得、慎太郎においては抗幕雄藩勢力の一致した行動や政変が起こることで予想される「武力衝突」への対応と幅広く議論をしたのではないでしょうか。
慶応三年内では岩倉に関しては「武力討幕派」ではないですしね。慶喜の議定就任も想定していたんだから。
慎太郎の書簡の癖や、そこから実際に会うまでの説得の方法ってのもたくさん聞けて、なるほどと思ったことも多かったです。


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by enokama | 2017-11-16 22:11 | 私の好きな京都 | Comments(0)
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御所の東で寺町通丸太町を上がったところの新島旧邸近くに京都市歴史資料館と言う施設があります。
ここはいい展示があるんですが、いつ行っても無料でもあります。
今回は岩倉具視の展示だったのですが、かなり貴重なものが多く展示されておりました。


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by enokama | 2017-10-22 06:01 | 私の好きな京都 | Comments(0)
石薬師通寺町東入ル
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萩を見に木神社に行ってきました。その近くに大久保利通旧邸がある。
この地に邸を構えたのが薩長盟約の成った慶応二年正月ごろで、間口の広い格子造りの民家だった。
当時の面影はないが唯一、茶室が残されている(小松帯刀寓居であった近衛家別邸「御花畑邸」より移されたもの)そうだが公開されたことはない。
岩倉具視や当時は朝敵だった長州から潜入していた品川弥二郎や広沢真臣らとの密議はこの茶室(「有待庵」と呼ばれた)で行われた。
大山巌の回顧では大久保の外出時には常に西郷従道がつき、西郷隆盛が夜に訪れた時は自分はついて離れずに短銃を懐にして警護していた。
要談の席に若輩者は入れず供待部屋で待っていたが、西郷の茶室での密談が長く困ったことがあったと言う。
慶応四年六月に大久保はこの地を引き払ったが、のちに大久保家が買い戻したとの記録も残っている(大正天皇即位の際に「有待庵」と書かれた額が西園寺公望によって書かれている)
大久保、岩倉、品川と言えば「錦の御旗」の作成のエピソードがあり、こちらでも打ち合わされたのかもしれない。
(参考「幕末京都史跡大事典」石田孝喜)


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by enokama | 2017-09-26 15:18 | 私の好きな京都 | Comments(0)

粟田口の明智光秀首塚

光秀関連ゆかりの地もかなり更新してきたつもりですが、まだ京都市内(粟田口)の首塚は載せておりませんでした。(胴塚→こちら
何度か案内もしたことがあるんだけど、意外に知られてなかったりするものです。。。

三条通りから白川沿いを下ります
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by enokama | 2017-09-13 16:16 | 私の好きな京都 | Comments(0)
ブログも長くやっていると、たまに「画像提供」の依頼ってのがあるんですが
今は「神社ブーム」でもあるそうで、その紹介する文庫本の御霊神社(福知山市)の項で私の写真が使われております!
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豊国神社や建勲神社、南洲神社あたりもブログに載せてるんで「なんで福知山の光秀」の画像だったんかなとも思いますが帯にも書いてあるし、少し追いかけている明智光秀絡みなのでうれしいものですね。
提供のお礼に本を送っていただきました!
個人的には山形に水野忠邦が祭神になっている神社があるってのは知らなかったし、興味深いです。。。


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by enokama | 2017-08-03 19:11 | 私の好きな京都 | Comments(0)

先日。表門から入って建屋にも上がれて、学芸員さんの案内を聞けるイベントがあったので再度(→関連記事)行ってきました!
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by enokama | 2017-07-27 05:50 | 私の好きな京都 | Comments(0)

小倉山二尊院

少し前の画像ですが嵐山の二尊院に行ってきました。

近くにある土佐四天王像
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二尊院
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二尊院は元来から御所の仏事を司っていたこともあって、公家との交流が盛んで、今でも二条家、鷹司家、三条家、三条西家、四条家と言った菩提寺になっており
パンフレットにも紹介されております(案内図の精度はちょっと低いですが)。
以下はお墓(幕末の公家が多い)の写真になりますので隠します。。。


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by enokama | 2017-07-05 14:40 | 私の好きな京都 | Comments(0)
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羅城門バス停から18系統のバスに乗ると、旧鳥羽街道の昔ながらの狭い街道筋を行きます。
所々狭い場所は一方通行になっていて旧家も多いところであります。
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バス停は名神高速の下をくぐる手前で、小枝橋自体はだいぶ先になります。

西詰から
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だいぶ京都の西側のイメージですが実は鴨川を渡る橋。九条のあたりから大きく方向を変えて、この先で桂川と合流します。


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by enokama | 2017-06-22 13:28 | 私の好きな京都 | Comments(0)
千本九条のあたりは「四ッ塚」と呼ばれ、今も地名が残っている。
その昔、狐塚・杉塚・経田塚・琵琶塚の四つの塚があったことから由来する。
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この古来から羅城門の位置したように「洛中への入口」となっていた要衝に
「王政復古政変」後に徳川慶喜ら旧幕府側陣営が大坂へと移り、京都は薩長土芸と言った諸藩が警衛していた中で
薩摩軍は東寺に伊地知正治を隊長とする陣営を置き、この四ッ塚に関門を置いていた。

千本九条付近から東寺の五重塔
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慶応四年一月。尾越土と言った諸侯の奔走もあって新政府の議定就任が確実となっていた徳川慶喜は
滞在した大坂から朝廷に「軽装上洛」を求められていたが、前年暮れの江戸での「薩摩藩邸焼き討ち事件」もあって周辺は「主戦論」が強まり
「君側の奸を除く」として、滝川具挙の率いる先発隊が京都へ向け進軍する。
京都に近づく鳥羽街道には薩摩兵が取りつき、滝川は四ッ塚関門に入洛を求める使者を送るも薩摩側はこれを拒む。


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by enokama | 2017-06-21 12:04 | 私の好きな京都 | Comments(0)