
白洲家は元禄4年、四代藩主・九鬼副隆の儒官として白洲文蔵が召抱えられて以来
代々、藩校・造士館などで教鞭を取り儒学を教えた家柄。
幕末期に生きた当代・退蔵も大坂・篠崎小竹、江戸・古賀謹堂に学んだ。
また西洋兵書を訳し、海外事情にも感心を持っていた退蔵は江戸にいたころ、黒船来航を知り
藩命に従い浦賀に赴いて、船頭に成りすまして接近を試みている。
小藩ながらも危機感を持って、黒船に偵察を送る(黒船の中に入ったと言う話もある)のもある意味、凄い
ことです。
そういった経験から、西洋文明を知った退蔵は「開国論」となり、兵制も洋式に改めることを
藩主・隆義に建言し、やがて大参事まで勤め、財政再建や藩の近代化に努めた。
(
こちらが詳しい)
退蔵自身も代々、朱子学を奉じていたのに時流を先取りし、維新後には「洋学校」の設立も図り
従来佐幕だった藩論も、一気に朝廷に接近して西軍に加わり
各藩で厄介者とされた「太政官札」も逆に集めたことにより(
福岡藩の失敗例)のちに信用が上がったこと
で大きな利益も上げてます。
そして、武家社会の終わりも悟り、廃藩置県に先立つ明治3年、岩倉具視に「一藩帰農」するとして
領地返上の奏請を行い(さすがに「時期尚早」と却下されたようですが)
廃藩後は旧藩主・九鬼隆義を中心とした藩士たちで(脱士帰商)神戸で「志摩三商会」を設立して成功。
神戸の政財界は旧三田藩士が中心となって発展した背景となりました。
このあたりの時流を読む見極めの早さや、黒船来航時の出来事でもあるように貪欲な情報収集による
判断の的確さ。その中心に退蔵はいました。
次郎にもそのDNAを十分感じますね!
息子、文平も神戸にあって綿貿易の「白洲商店」を興し莫大な富を築き
次男・次郎の伝説につながって行くわけです。。。
白洲家墓所>>