何件か前の記事で(→
ここ)なんで「徳川慶喜が攘夷鎖港を叫んだ」時期が
あったんだろうと書いたんですが
この司馬さんの著作を持っていたのを思い出し、読み返してみました。。。
まあ「司馬史観」を疑う人も多いし、100%信用していい内容なのかは疑問なんだけど
250Pほどのコンパクトな文庫版で、改めてよくまとめられているなと思いました(4時間ほどで読める)
なんだろう…安政のころの「慶喜将軍擁立運動」で松平春嶽を始めとする賢候や
幕府の有能官吏たちから寄せられた羨望のまなざしに、答えうる資質っていうのは
十分持っていたと思うし
この人が幕府側にいることでの、西国雄藩とのパワーバランスと言うのが
枠組みを比較的わかりやすいものにしたことで、そのターゲットたる象徴的な存在になって
「討幕」という機運を高めたことと、逆にその後割り切った考えでの恭順態度を取ったことで
「内戦」と言う事態が比較的少なくなった、流れが出てきたと思うのです。
それに慶喜は敵が多いし(まあ実父・斉昭の始末もあったけど)尊皇の総本山・水戸の地元からも
反発されるし、幕閣・大奥からも「よそ者」になってしまって
そして、京都に上れば長州→薩摩と好き放題に動かされている朝廷に対して
よほど確固たる態度と強い意志がないと務められない事情があった。
春嶽は「攘夷不可」の思いが強くって、「攘夷」で荒らしまわる京都の長州勢に対して
開国論で固めた国元では、横井小楠が「実力で阻止すべき」と兵を具体的に上洛させる支援を
してくれたのに、それを自身でつぶしてしまった。
慶喜は長州勢が追い出された後の、薩摩に押される公卿らの態度を詰って
「昨日は長州の攘夷に従い、今日は薩摩の開国に従う」この打開に
文頭の「攘夷論」を語ったと言うのです。
春嶽は「狂したか」と思ったらしいが、そう言った奇略が乱世には必要だし
後ろ盾がないっていうことが、逆に実現させる、変化させると言った実行力に変えていったことが
二人の器の違いであって、維新後には矢面に立つ側がどうしても「敗者」になってしまうと
どうしても批判を受けてしまう損な役割もあったのです。
「大政奉還」は、中岡慎太郎がその論文で一番に「徳川を助ける策なり」と書いていて
実際に恩恵と言うのは「幕府・徳川側」にあったし、一番わかっていたのが慶喜じゃなかったのだろうか。
後ろ盾が少ないと言うことは、逆に従来からの幕閣の縛りもなかったこと。
だからうまく流れれば違った動きになっていたはずです。
しかしそうならなかったのは「果断」ができるという一方で、同時に「情」もなくす面もあったこと。
例えば「天狗党一件」にしても、本来の「尊皇を叫ぶ」支援者たるべき彼らを処断することで
うまく運べば味方になるべき勢力を削ぎ、西国の志士たちにも慶喜を糾弾する書簡が無数に残されて
火を付けてしまった面もあったでしょう。
「陸援隊」にも水戸浪士が、かなりの部分を占めていたことも、それを表しています…
このあたりの幕府側から見た流れは、まだ僕自身勉強不足の面もあるんで
今日書いた感想も、少しおかしいと指摘される方もおられるかもしれません。
また、いい書籍などご教授いただければ幸いであります!