エノカマの旅の途中

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カテゴリ:薩摩藩( 43 )

「薩長盟約」の真実

しばらく風邪気味で更新が滞っておりました。。。

少し前の放送ですが、民放 のBSでは珍しくいい(愛之助の)歴史番組があったので書き残しておきます。
小松主導であったのは確かだけど、この番組の「締め」はどうだったんだろうな・・・

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by enokama | 2016-02-12 19:03 | 薩摩藩 | Comments(0)
(12月6日に終了しました)
佐倉には昨年末に行ったとこですが、順天堂熱が高くなったのと
この大久保展がすごいらしいと言うことで、結構知り合いの方が行かれているので行ってきました!
昨年は城郭めぐりはしたんだけど、その一角にあるこちらには行ってなかったんですよね。
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by enokama | 2015-12-06 19:08 | 薩摩藩 | Comments(0)
この一件を受け、長州藩では桂譲助と言う藩士が従士十人余りと長州候使節として、薩摩に向かった。
阿久根で応対したのは、海江田武次(信義)と本田彌右衛門(親雄)で
桂は「外国船と誤認して貴藩の船舶を砲撃してしまった。斬鬼の至りに堪へず、藩主父子も厚く謝意を
示している」と伝えるが、海江田らは「軽微な事件ではなく、我らが専決することはできない」として
鹿児島に復命し、藩主・忠義らに伝えた。
激高し「砲撃者の首級を出せ」と言う者もいたが、すでに公武(朝廷及び幕府)へ報告済みのことで
上京中の久光とも熟議の上で判断するとのことで、桂らは帰藩した。
京都では一橋(徳川)慶喜に申告し、薩摩藩は長州に奈良原喜左衛門・高崎左太郎(正風)を糾問史として
向かわせようとしたが、幕府より「公武において長州の処置を議して裁決するので、薩摩よりの直接談判は
猶予してほしい」とし、派遣は中止された。

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by enokama | 2015-01-26 22:17 | 薩摩藩 | Comments(2)
関門海峡においての長州藩による「攘夷砲撃」は一旦、外国船の報復攻撃や
八一八の政変で一旦は収まったように見えていたが(→こちらこちら
この文久三年の暮れにも事件が起きている。

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by enokama | 2015-01-25 22:33 | 薩摩藩 | Comments(0)
慶応2年(1866年)3月11日。
五代は新納刑部、長崎在住の通弁・堀孝之とともに約1年の洋行を終え、帰国する。
その間、朝敵となった長州への「第一次征長」に対する「寛大な処分」を求める動きが
薩摩の西郷や福岡の月形洗蔵・喜多岡勇平・早川勇、長府岩国の長州両支藩、芸州藩等の働きにより
「非戦」となり、新たに「薩長」を軸とした西国雄藩の連合が模索されるようになり、この年初頭には
京都にて「薩長同盟」が結ばれていた。

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by enokama | 2014-07-06 23:36 | 薩摩藩 | Comments(0)
この戦争で蒸気船を失った薩摩だが、文久3年9月に長崎にて安行丸を購入し
幕府から長崎丸等3隻を借入、越前藩・福岡藩借入の6隻で船団を組み、久光の上洛に与している。

翌元治元年には5隻を長崎で購入し、平時は商用・輸送船としての海軍力(武器を載せて転用する)の整備を再開している(ただ幕府借入の長崎丸は商用での航海の際に長州の砲撃が起因となって沈没。文久3年12月。人的被害も多く受けた)
そして艦船購入と共に人材育成に乗り出し6月に洋学館として「開成所」(海軍・陸軍・天文・器械・物理・医学等)の設立となる。
開成所当初の講師陣は、一連の「集成館事業」でも主要メンバーであった大和高取出身の蘭学者・石河確太郎や八木偁平(元悦と言う医家の名も持ち、大坂の適塾に学び種痘事業にも携わった)
幕臣となっていた中浜万次郎を3か年の契約で派遣してもらっていた。
慶応となって、石河が開成館から離れ、八木も若くして亡くなり、洋学館としては蘭学から英学へとの流れが強くなって、前島密・安保清康・嵯峨根良吉と言った講師陣が次々と招かれた。
(嵯峨根は英国海軍法規を翻訳の命あり)

これらの多大になるであろう費用の原資は各諸藩の物産を集めて、長崎から輸出すると言った「貿易立国」の
先駆けとも言うべき施策が「薩藩海軍史」には具体的数字とともに記されている。
小松帯刀は中浜万次郎の体験談も聞き、将来的には米国・英国への直航もできるような訓練方策も検討すべしとの意見も披露している。

そして藩重役(小松はすでに家老で他は大目付。慶応元年にはいずれも家老昇進)らの役割分担も決められた(主な実務官僚を上げる)
 小松帯刀・・・海軍掛、集成館、開成所、他国修行
 岩下方平・・・陸軍掛、造士館、演武館、銃薬方、甲冑方、台場掛(のちに渡欧し、パリ万博も担当)
 桂久武・・・御勝手方掛、勧業方、米穀金銭出納、琉球三島掛(財政担当。戦時の兵糧等、後方支援)
 新納刑部・・・外国掛、外国処置応接、西洋器械方、諸生遠航(実際に英国留学生を引率し渡航)
 

五代の藩復帰>>
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by enokama | 2014-05-14 22:14 | 薩摩藩 | Comments(0)
五代と松木は英国艦隊の薩摩退去に伴い「自動的捕虜」(薩藩海軍史)として
薩摩での上陸釈放よりも、むしろ自らが望んで旗艦ユーリアラス号に残り、洋学者としての知識を以て
交渉をすることで、今後の展望を開こうとしたのかもしれない。。
(五代は火薬庫を爆破して、船共々死のうとしたが機会がなかったとも語っている)
そして横浜への入港となるが、この英国艦には清水卯三郎と言う日本人通弁が乗船していて
彼らに同情し何かと世話を焼いていた。
ニール代理公使とキューパー総督も彼らを捕虜にして、交渉をしようとする訳でもなく
入港して出迎えた英国領事・ガワーは五代とは旧知の仲であって、キューパー総督に説き
直ちに夜陰に紛れての脱出策が行われ、ボートにて二人は羽田付近で密かに上陸し
清水の手配で江戸小舟町まで行き、清水の持つ船宿鈴木に身を隠した。
ここからの二人の行動はまったくの潜行・潜伏生活となるが、彼らの命を狙う者らが藩内にいたと言う
事情があった。。。

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by enokama | 2014-04-30 21:47 | 薩摩藩 | Comments(0)
平日が残業となって、土日もしばらく家にいられなかったので
ブログの更新が少し開いてしまいました。。。

今、五代のことを書いているので改めて、大阪市立中央図書館の3F大阪コーナーで
関連書籍を確認してきました。

少し解読には時間がかかりそうですが「五代友厚伝記資料」は五代に関係する書簡・史料のまとめで
五代竜作(友厚の養子らしい)「五代友厚傳」(1933年)は基礎的な史伝となっています。
「五代友厚秘史」と言う長編で分冊になっているものもあるのですが
「」付きの文章も多いので信憑性はいかがなものか?
宮本又次「五代友厚伝」(1981年)は当時の時代背景についての解釈が、ちょっと?って感じる面も
あったんだけど、大阪開港・開市のあたりが一番詳しかったので、その部分はよかったです。
またこんな記述もあって、明治新政府初期の財政は越前出身の由利公正(三岡八郎)が担当したのですが
結局、その任は短期で終わっています。
福井関連の書物では「薩長土肥」にポストが集中したので、越前の由利が疎外された的なものも
読んだことがあるのですが、その財政政策(太政官札の発行等)がまったく100%成功とも言えず
諸外国からの反発もあったのが事実です。
やっぱり反対側の立場からの書物も読んでおくことだなと思いました。
五代も由利も坂本龍馬とも縁のある「商才」のあった人物ですが、いわゆる「由利財政」には五代も結局
反対の立場を取りました。

結局「伝記資料」と「五代友厚傳」(こちらは以前に取っていた部分もあったのですが)「五代友厚伝」と
100枚ほどコピーを取ってきました。
小説としては何冊かありましたが、やはり佐江氏の作品が一番よかったと思います。

実は映画化の話も出ているのですが、ベースの小説がフィクションの多い物なので
(五代の生涯自体が面白いから創作はそういらないと思うのだが)どうなるのでしょうか?
脚本も募集しているようです→こちらです
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by enokama | 2014-04-26 23:20 | 薩摩藩 | Comments(0)
交渉が決裂し、開戦必至とも言える状況で
そのきっかけとなる出来事が起こった。

あの五代が購入した虎の子の蒸気船3隻だが、万一のことを考えて、薩摩半島の西岸に位置する
坊津辺りに廻航し避難させると言う建策があったが、小松・大久保一蔵(利通)・堀次郎(伊地知貞馨)と並んで島津久光の有力側近の一人であった側役・中山中左衛門はこれを聞き、大いに怒り
「その卑怯未練の行為なる」として、この意見を却下した。
そしてひとまず前之浜(現在の磯庭園辺り)から望見することのできない、重富脇元浦に避難させていた(赤印)

この蒸気船の管理は高名な洋学者としても江戸でも知られ、蕃書調所に勤務し幕府の欧州使節団の一員としての洋行経験も持つ、船奉行・松木弘安と船奉行副役・五代才助が付き添っていたが、英国はこの蒸気船に目を付けた。
到着早々から端船を出して偵察を行い、停泊地をすでに掴んでいたのだった。
7月2日早朝「東風強烈晴雨計降下し」と言う悪天候をついて、桜島沖(橙印)の停泊地から
五隻の船を出し、重富沖へと移動した。
そしてアーガス号は青鷹丸、コケット号は白鳳丸、レースホース号は天祐丸、それぞれを汽船の舷側に縛着し拿捕したのである。
このことは購入価格が30万英ドル超と高額な蒸気船を押さえることで、賠償交渉を有利に進める意味もあったと言う(3隻の購入価格が賠償金要求額を上回っていたため)
五代と松木は青鷹丸にいたが、天佑丸が拿捕される際に乗員は抵抗し、太鼓役師匠であった本田彦次郎は英兵の銃剣にて突かれ、海中に転落し行方不明となり、他にも負傷者を出した。
「宣戦布告もなしに、我が船を掠奪するとは何事か」と抗論するも及ばず
二人は乗務員たちをすべて下船させ、自分たちが捕虜になることで事後交渉を行おうとしたと言う。
(旗艦パーシュースに拘留)

写真は英国艦隊が往来した重富と鹿児島市街の中間、吉野付近(海の対岸が桜島)
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by enokama | 2014-04-05 20:58 | 薩摩藩 | Comments(0)
こちらからは去年夏、鹿児島へ行った時に尚古集成館であった
特別展「薩英戦争150年~前の浜の戦」の図録と、薩摩のとても素晴らしい史料の一つである
「薩藩海軍史」から紹介していきたいと思います。
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60ページほどで、海に開けた薩摩の国情から斉彬の集成館事業~生麦事件から薩英戦争~戦後の講和~薩摩スチューデントと展示品の写真を交えて、学芸員の方がパート毎に分かれて解説されています。
特別展示室に「図録をお求めの方は声をかけてください」と書いてあって、渡されてお金を払おうとしたら「無料です」って言われてびっくりしてしまいした。すごいな~太っ腹だ(笑)
(過去にも似たような経験はありますけど→こちら

薩藩海軍史は「上中下」とあって、上巻はかなり遡って島津家が薩摩に来てから江戸時代中期あたりまでの海軍事情で、中巻は斉彬の時代から生麦事件・薩英戦争あたり、下巻は幕政末期から明治海軍の成立までが書かれています。
もちろん、全巻求めるのも大変なので部分部分のコピーだけ持ってるのですが、海軍以外の「薩摩の幕末史」も含まれていて「庄内藩邸焼き討ち」の真相あたりも、いろんな角度からの記録を以て
詳細に書かれていて、読み応えのあるものとなっています。

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by enokama | 2014-04-04 23:39 | 薩摩藩 | Comments(0)