歴史作家の桐野作人さんのブログ(7月17日付)の記事に載ってたんですが
下関市立長府博物館(館長になられた)古城春樹さんが、表題の「三吉慎蔵は坂本龍馬の非護衛説」に
ついての論考をこのほど書かれたそうです。
もちろん「護衛」って言うのは、司馬御大の作った設定であって
平尾道雄さんを始めとする、坂本龍馬の従前の研究資料では僕も見たことがありません・・・
まあ、平尾さんが書いた時点でもって、おそらく「誤っただろう解釈」で
龍馬の姉・栄の自決の件や「船中八策」が既成事実のようになって、その話の広がった解釈で
「五箇条のご誓文」になった話などは流布しすぎてしまって、今更直せないのかもしれません。
この三吉君の護衛説も「龍馬話」では、まず100%違った解釈がありません(→
関連記事)
中岡慎太郎(石川名義)から三吉慎蔵あての手紙について(→
こちら)は以前に書きましたが
慎太郎が慎蔵に書いた「長府藩の行く道」についての時勢論などは
「護衛」としてだけで、京都に赴いた訳でなく「藩命を受けた京師探索」を果たしたからこそ
理解され、書かれたものであった証拠だと思います。
(余談だが「薩長同盟」が成ってからの慎太郎の上洛は、龍馬の寺田屋での負傷が原因ではなかろうか。
負傷治療で龍馬は静養を余儀なくされるが、その間に刻々と動く流れ「第二次征長」に対して
長州から薩摩への働きかけについては、やはり従来からの長州人の微妙なしこりもあって
緩衝的存在で具体的な「薩長同盟の遂行」の役目は慎太郎が適任であり、薩摩人とのすり合わせ・
龍馬からの引き継ぎが主目的であったのではないだろうか。そして事実、薩摩の長州への援軍の話や
龍馬の社中の海軍としての参加は、慎太郎の動きなしではありえなかった)
三吉君が龍馬らの手紙をしっかり保管していたことで、意外とわからない「龍馬が何をしたか」
ってことを知る手ががりが、長府にはあるのです。
あと僕は最近、萩本藩と長府・岩国等の支藩の関係ってのが少し気になってまして
ひとくくりに「長州」で区切った考えでは、捉えられない部分があるかなとも思っています。
(そのあたりは結構、古川薫さんが書いてるんですけどね)
また図書館での調べも含めて、長府に行きたいもんです!
関連書籍
「龍馬とお龍の下関」(→
こちら)
古城さんの書かれた本で「龍馬と下関」について、わかりやすくまとめてあります。
長府博物館所蔵のお宝写真と、古川薫さんの序文も素晴らしいです!