エノカマの旅の途中

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カテゴリ:中岡慎太郎関連( 98 )

今年もこの日がやってきました(まあ旧暦ではないんですけど)
書こうと思っていたことがあったんですが、過去記事を遡ったら同じ様なことを書いてましたので
(よくあることなんですが 苦笑)今日は短くしておきます。。。

今晩が一番、しし座流星群が見られるそうです。
天を見て、慎太郎を偲びたいと思います!
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by enokama | 2011-11-17 19:33 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
昨日のBSTBS歴史番組「NO2」で、大岡越前をやっていたんだけど
解説があの童門さん(一人)やった。。。
案の定、目新しいこともないし知った話ばっかり(苦笑)
BSの歴史番組ってコアな人が見るもんだろうし、あの程度だったら地上波のぬるい番組に回せばと
思うんですけどね。
この人だったら知識の限界が小さいし(無駄に範囲は広いけど)話は広がらないですわ。
鈴木健二氏以来の歴史番組を見続けている人だったら、誰でも務まるわな・・・

先週なんか徳川四代将軍のころの話だし、その前は石田三成の側近・島左近!
ようマニアックなところって・・・
たいがいその時は加来耕三さんだけど、今まではぬるいような著書が多い印象でどうかなと思ってたけど
ようさすがに知ってはるなと感心してたんですが、すごい対照的に今回は落差を感じました。。。

それにしても磯田さんを含めたこの3人で歴史番組は回ってる印象なんですけど
もっといろんな人に出てもらって、いろんな多様な意見も聞きたいと思うんですが
テレビ向きにしたらしたで、研究にも差しさわりが出るかもってことがあるのかな・・・

慶応3年10月の中岡慎太郎の動きは、残されている日記が9月で終わってしまっているので細かくはわからないが、まず10日に上洛した坂本龍馬が白川の陸援隊屯所を訪れている。
よく語られる「この通り準備はできた。いつでも起てるぞ」と慎太郎が言い放ち
龍馬が「武力はいかん」との思いを強くし、大政奉還(=平和論と取る見方では)に向けて
「後藤を叱咤激励する」との話が作られ語られることが多いが、 このことから坂本は話し合いによる平和論者
対して中岡は用兵による武力討幕と決めつけることが多いが、果たしてそうなのだろうか。

どうしても龍馬主役の話となると、慎太郎や薩摩の連中が「わからずや」って書き方になっているんだよね。
討幕の密勅で西国雄藩の融合(薩長芸)を図る一方で、幕府と戦った場合の勝算と言うことに関しては
戦力的にまだまだ劣るので(鳥羽伏見では旧幕府側が本来なら普通に勝てたはず)慶喜を軸とした枠組みでの妥協点としての判断も一方で必要だった
その妥協によるぎりぎりの均衡が崩れたのが、庄内藩を中心とした「江戸薩摩藩邸焼き討ち」事件だったわけですけどね。
まあ、西郷の陰謀とかよく言われるけど、前々からいろいろと各地で仕掛けていた工作がタイミングよく功を奏した偶発的なものであるんですが
これはまた「薩摩藩」のカテゴリで改めて触れたいと思います。

連載の最後です>>
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by enokama | 2011-11-08 23:25 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
ここからは家近良樹著「徳川慶喜」(吉川弘文館)と
前回の桐野作人さんの講演レジュメを主に参照していきます。

家近さんの本は以前、図書館で「慶喜関連」の本を片っ端から引っ張り出して読んだ中で
(大河ドラマになったので数だけは結構あるんですよね。まあ、ドラマごとに便乗本を出すような
あの方やこの方たちも当然いるんですが 苦笑)
一番、納得できるような内容だったので実際に自分でも購入いたしました。。。
ただ家近さん自身のあとがきにあるように「慶喜の行動や考えをまとめるのが非常に難しい」のが
実情であるので、周辺人物や反対勢力の側の考えなどから調べても
人によってまとめ方や「慶喜はこんな人間」ってのは、千差万別になってくることと思います。
例えば僕が「中岡慎太郎はこんな人だ」って語ったことが3年前だったとすると
当時と今日語ることとは異なってくるのです。
同じテーマの書籍にであっても、その月日の流れと新たな発見と言うことで同じ著者であっても
変わってくるのは当然のことなのです。
まだまだ、僕自身も研究が足らないと思いますし始まったばかりですので
2011年秋現在の認識ってことで、ご理解いただければと思います!
(関連記事→こちら

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by enokama | 2011-10-22 13:28 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
中岡慎太郎年表→こちら

中岡慎太郎の慶応3年7~8月の出来事と言えば、やはり「陸援隊」の結成と
御陵衛士・伊東甲子太郎との接近が挙げられますが、この件はまた改めて書きたいと思います。
(関連記事→こちらこちら

7月の「薩土盟約」(→こちら)後、容堂の説得に向け、土佐に帰国した後藤象二郎だったが
その結果は薩摩の期待には程遠いものとなってしまった。

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by enokama | 2011-10-19 23:54 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
すっかり涼しさを通り越して寒いぐらいに感じる今日このごろですが
今年もこの記事を書く時期となってきました・・・

まず私的なお知らせですが
今年も「丹波黒大豆」の解禁が近づいてきました(おそらく9日ぐらいになるかと)
例年通り、ご希望の方には送らせていただきますので、またご連絡くださいね(詳細→こちら

北川村の情報>>
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by enokama | 2011-10-04 23:47 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)
ライフル銃の持ち込みは、大坂に行く予定の芸州藩船「震天丸」に途中、土佐に寄港するよう手配。
九月十八日、龍馬は菅野、陸奥、中島らと共に長崎港から乗り込んだ。
そして二十日には馬関(下関)に到着する・・・以下は佐佐木日記より。

其時一汽船の煙を挙げて東航するのを見て、才谷等も大に不審した。
丁度伊藤俊輔が京都から帰って来たのに問うた。
伊藤は京都の形勢を告げ、また其汽船に就て「実はあれは薩摩の船で、大久保一蔵が下関に来て
長藩の木戸と謀り、長藩に末藩の岩国長府清末の兵は下関に集合し、薩兵は小倉に進んで
時機を待って、緩急事に応ずる約束をして帰ったのだ」と云ふ。

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by enokama | 2011-09-14 23:55 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
佐佐木は後藤・由比らとともに英公使・パークスとの須崎での談判に当たった後
本来の海援隊管轄等にあたる長崎出張官・後藤は前記のように本国での政務に没頭せざるを得ず
代わりに長崎に龍馬と赴き、事件の現地談判に対応することとなった。
長崎では一向に海援隊士の犯行の証拠が出ないまま、彼らは長崎奉行所の取り調べに粘り強く耐え
九月十日になって「お構いなし」との評決が出て、とりあえずの解決となった。

そんな中、土佐では乾退助が着々と兵制改革にて藩兵の操練に余念がないころだが
しかし土佐の地元での大多数の現実は、結果的に後藤が兵を連れられなかったことに見られるように
薩長と同調し、いざとなれば共に武器を持って立つ覚悟には到底遠いように思えた。
長崎の佐佐木と龍馬はここで一策を講じることとなる。。。


佐佐木高行(維新前は三四郎)は上士ながらも
国学を学んだ鹿持雅澄門下であって、同門の土佐勤王党盟主・武市半平太らと交流を持ち
小南五郎衛門・谷干城(守部)らと共に早くから上士「尊攘派」として行動し
文久2年(1862)の勤王党全盛時のころにも、その名が再三登場している(「維新土佐勤王史」)

藩主・豊範の下で保守派と尊攘派が連合した上で、改革派(吉田東洋一門)を暗殺と言う手段を
使ってまで追い落としたが、容堂の謹慎が解け復権した後は勤王党が弾圧となり
佐佐木の行動も限られたものになっていた。
その後、薩長同盟の風説が流れ風向きが変わったころから、容堂は佐佐木を各地の情勢探索に当たらせ
今回のような旧勤王党とも近い人物とも渡り合える折衝役として存在感を示すようになり
龍馬亡きあとの海援隊の指揮や、長崎奉行所の逃亡劇における「長崎会議所」の成立にも一役買い
維新後は初代司法大輔として(江藤新平の前任者)多発した暗殺事件等の対応に
比較的公平な目線で当たっている。

一方、幕末から維新政府の成り立ちまで、長期間に渡って綴った日記「保古飛呂比」は有名で
幕末維新を語る上で一級の史料とされている(日記と謳ってるが、のちに編集はされている)
それでは今回の記事は佐佐木の一文から

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by enokama | 2011-09-13 22:42 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)
中岡慎太郎の薩長同盟以降の行動は
さらなる西国勤王雄藩の結集により、幕府に対抗できる力を構築することで
大村や鳥取と言った勤王派の強い藩への遊説や、急速に対幕に傾く芸州との提携はその一例であるが
最も懸念されたのが出身藩・土佐の動向で、ここで親幕になるか対幕となるかで
師・武市半平太の掲げた目標「薩長土」の同盟が課題となっていた。

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by enokama | 2011-09-10 23:41 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)
元治元年(1864)初頭の参与会議瓦解の後、慶喜は禁裏御守衛総督・摂海防御指揮という役職を
朝廷から受け、江戸から独立したいわゆる一会桑勢力の後援・兵力の後盾を以て以後
京都での幕政機関として存在感を表していた。
従来の譜代藩主からなる老中らの幕政運営から「公武合体」たるべき、朝臣としての政権でもあって
一方で朝廷の意向を無視できない時代に変わってきていたのである。
それは慶喜が水戸の出と言うことでの、常に幕府からの警戒を受ける立場にあって確固たる信頼を
得られなかったところで、逆に朝廷の信任を得ることによって、自身の立場を高める意味も持っていた。

この年夏の禁門の変には、禁裏御守衛総督として「御所に弓を引いた」形となった長州を迎え討った。
当初は長と一会桑の私闘として慎重な姿勢だった薩摩も長州の進軍ぶりを見て
「御所侵攻を防ぐ」と言う立場で参戦している。

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by enokama | 2011-09-09 23:55 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)
少し開きましたが(→こちら)からの続きです。

中岡慎太郎は4月1日に大坂着。
翌日には小松帯刀と会い、4日に京都入りし
早速、小笠原唯八に土佐藩における急務を談じている。
このあたりは、慎太郎の日記として伝わる「行行筆記」にて人物の往来がよくわかるが
(慶応3年のこのころから8月までにかけての記述が中々興味深い)
具体的な内容が詳しく書かれていないのが悩ましいと、どこかの研究者の方のコメントで読んだことがあるし
(「誰々に会った」の程度の記述が多い)まだまだ慎太郎研究としての調べる余地があるのではと思います!

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by enokama | 2011-08-14 23:35 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)