エノカマの旅の途中

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カテゴリ:横井小楠の周辺( 9 )

横井小楠の絶筆 発見

昼のNHKニュースで「しょうなん」「あんさつまえ」って聞こえたので
まさかな?と思ったら、横井小楠の話題でした!
NHKのサイト→ここ(生物っぽいので、早めに再生してくださいね)

詩の題名は元旦に思いついたという意味の「元旦偶作」で、京都の自宅で酒を飲んでいる
小楠が新年への希望を抱いて晴れ晴れとした心境でいるという内容です。
小楠は当時、明治政府の招きで京都にいたということで、詩の内容から明治2年の元旦に
書いたとみられています。小楠はその4日後に暗殺されており
この詩は小楠の「絶筆」である可能性が高いということです

去年の某ドラマで、むちゃくちゃひどい扱いだった小楠なんで
どんな人かは、ほとんど今回も知られることなく、新たに興味を持つ人もないだろうし
ニュース検索でも、こちらしか出てこなかったんですが
相変わらず龍馬にくっつけたような扱いは、小楠のスケールからしたら不満ですけど
よくぞ、全国ニュースに乗ったなって思いです!

新年を迎えて、これからの国家構想を新たに・・・
酒を飲みながらってのも、彼らしいですね。
小楠の思いはどうだったんだろう。
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by enokama | 2011-01-07 22:38 | 横井小楠の周辺 | Comments(4)
(11月29日 撮影)
山門
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水路閣
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天授庵
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天授庵はちょうど山門の南に位置する南禅寺きっての古刹である。
本堂の桃山時代の名人・長谷川等伯の襖絵(未公開)、枯山水の庭園(画像)・本堂南側の池泉廻泉式庭園
(今回は紅葉が終わってしまって残念でした)が公開されている。
代々細川家との所縁が深く、山沿いの細川家廟所や肥後藩士の墓(結構多い)に続いた場所に
横井小楠墓所がある。

小楠の暗殺と墓所>>
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by enokama | 2009-12-04 23:21 | 横井小楠の周辺 | Comments(2)
坂本龍馬が世に出るきっかけとなったのは、一介の浪士でありながら賢候といわれる
代表的な人物で、文久期には政事総裁職の要職にあった福井藩・松平春嶽へのある意味
奇跡的な対面に始まると言っていい。

春嶽の記述には「岡本健三郎」と共に江戸藩邸にいきなり訪れたようになっていて
その引用をした書籍にはよく書かれていることだが、岡本は龍馬暗殺直前に土佐の使者として
福井に赴いた時の同行者であり(蟄居中の三岡八郎と会ったとき)思いちがいのようで
一方、福井藩士・村田氏寿の記述には「間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎・・」とあり、土佐勤王党
きっての開明派(吉田東洋の一門でもあり、弟子に中岡慎太郎らも)で海外通、海防問題
にも強い関心をもった間崎に付き添って行ったのが現実のようだ。
(浪人が一人でいきなり会えるってことは現実ありえない話)
春嶽は勝海舟らとも並んだ代表的な開国論者で、領国も日本海に面していることもあり
海防にも力を入れていた。
そこに盟友の土佐の山内容堂の家臣が会いたいと言えば、十分会うチャンスはあったわけだ。

また春嶽自身も人物と見れば許せる限り、身分にとらわれず 話は聞く、殿様としては異例の人物であり
薩摩の西郷はもちろん、自身とは相反する自論を展開する攘夷派と見られた長州の桂小五郎・久坂玄瑞
土佐の武市半平太らとも、実際に会い議論を展開している。
こういったことからも政事総裁職と言う幕政トップの位置にありながらも、時の権力者の中
では最も近づきやすい人物だった。
その付き添っていった浪人がなぜか?目をかけられて、その活動にも終始惜しみない援助を
し支えてくれるようになるのだから、本当に奇跡的な出会いだっただろう。
間崎哲馬は土佐勤王党の弾圧時、早々に切腹を命じられ惜しい人物をなくした。

それだけでなく、龍馬の資質を見込んだ春嶽は、さらに当時の先覚者の代表的な人物の
横井小楠→勝海舟と紹介してくれて、龍馬の未来の指針が見えてくるのである。
(斬りに行く可能性のある者に紹介状を書くわけはないんで、勝の話は例のごとく
ホラっぽいが・・・ちなみに同行者は千葉重太郎)

だから、龍馬の思想が完全に徳川否定になっていない(大政奉還もその例)のはその影響
も多いためだ。多くの龍馬の紹介で「倒幕の立役者って書き方」は、厳密にはおかしくって
春嶽・小楠に代表される「雄藩連合」(徳川も一勢力として残る可能性を残す)「開国貿易や
殖産産業による富国論」「二院制による議会政治」は死ぬ間際まで変わっていない。

四時軒からの阿蘇方面への、のどかな風景
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龍馬や度々訪れた福井藩士たちも眺めたのだろう・・・
長居する人も多いそう。なんか、ほっとする空間です!
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by enokama | 2008-07-19 06:55 | 横井小楠の周辺 | Comments(4)
小楠の思想は過去の記事にも書いてますんで(こちら
今日は四時軒を訪れた人について書きたいと思います!

今回は平日で記念館はガランとしてましたが、そのかわり館の管理者の方と
いかにも歴史好きそうな男性客の方3人で、1時間ぐらいしゃべってました。
あまり知られてない小さな資料館では、こういう感じがいいですね(笑)

まず、前の記事で紹介した「維新の群像」
福井から来た人が見て「なんで熊本にあるの?」って聞かれたそう。
福井城の堀端にも小楠像があるんで、てっきり地元の人って思ってたみたい。
熊本では不遇(だから、あまり地元では知られていない) 
招聘されて厚遇、その思想を実践的に行い成功を収めた福井では知名度がある。
熊本で小楠をよく知ってる方だったら歯がゆい思いかもしれません・・・
福井藩とのつながりはこちらもごらんください!

四時軒内の春嶽の書
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三寺三作の入門(1849年10月)以降、福井藩では小楠の学識に藩主・松平春嶽を始め
多くの藩士が影響を受け、実際に福井城下での講義に始まり、藩校・明道館の開校に際して
も多くの助言を入れている。
1857年5月には藩士・村田氏寿(藩の外交官として、薩摩や坂本龍馬とのパイプも持ち
軍の差引もできる有能な実務官僚)が四時軒にしばらく滞在し(11日~20日まで)
招聘交渉を行う。

四時軒外観(昭和57年修復)
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秋津川よりの外観
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しかし熊本での立場の弱さからか、なかなか藩よりOKが出ない。
春嶽夫人の勇姫が熊本の出であり、その後押しもありようやく翌年4月に実現する。
このころ安政の大獄で春嶽は謹慎。橋本左内は刑死となるが、小楠は藩論を統一し
「海外貿易」「富国富民」の藩政改革に成功をおさめた。
のち政事総裁職となった春嶽の補佐もし「参勤交代の緩和」「外様・譜代にこだわらない
能力主義の人材の起用」を提言する(国是七条・下書きが記念館に展示)

のち熊本に帰藩後はまた不遇を囲うが、春嶽はその援助を行い
また新政府樹立後、強い推薦をし参与として登用される道ができた。
しかし、ほどなく1869年(明治2年)その開明的考えを受け入れられない攘夷論者
により暗殺される。享年61歳(暗殺時に護身した短刀も展示。3ヶ所刃こぼれ)
しかし、新政府は彼の思想を大いに反映したものとなった・・・
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by enokama | 2008-07-16 00:17 | 横井小楠の周辺 | Comments(4)
生誕の地(1809年。城北・坪井)
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8歳から藩校・時習館へ。この藩校の特色は下級武士や商人であっても実力が
あれば入れることが特長・・・小楠は文武両道に秀でた優秀な生徒だった。

14歳。水道町に転居(鶴屋デパート裏)
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25歳で時習館・講堂世話役を経て、居寮長(塾長にあたる)となり、のち江戸・水戸
などへも遊学。
水戸学に傾倒し、藤田東湖・梅田雲浜と言った儒学者とも交流するが、のちに疑問
を感じ開国論や富国富民論と言った提言を行う。

35歳(1843年)改革派家老・長岡監物らと時習館の改革に取り組み、私塾も開く。
1846年に相撲町に移り「小楠堂」と名付け開く。
この「小楠堂」の時代に梁川星厳や梅田雲浜の紹介を持って、福井藩士・三寺三作が
入門(1849年10月)し福井に名声が伝わり、大阪の適塾にいた橋本左内との交流も
始まる。
しかし藩内では終始、各派の対立もあり不遇を囲い、酒席での不祥事も度々見られ
生活も困窮した。
そう言った中での人間関係など思うことがあったのだろう。
郊外の沼山津に移り、秋津川の向こうに阿蘇を遠望し四季の移ろいを感じる所
「四時軒」を開く・・・この地から、小楠の活躍が始まる!

小楠と維新群像
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福井の像はこちら
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by enokama | 2008-07-15 01:09 | 横井小楠の周辺 | Comments(2)
5月の九州旅行の件、まだ残ってます・・・
本や資料の読み込みも大変なもんで、少し開きました。
もう少しお付き合いください!

熊本は幕末の開明的思想家・横井小楠の出身地。
彼の提言した項目のことごとくが、明治政府の基本政策となり「五箇条の御誓文」
も彼の思想を、直弟子となる福井藩・三岡八郎が起案したものである。

四時軒は彼の47歳(1855年)から新政府に登用される60歳(1868年)までこの地
で過ごし「実学」と呼ばれる現実に根ざした学問を説いた。
熊本藩内では異端の扱いで不遇な時期が多かったが、、その名声を聞き長州・吉田松陰
(「小楠堂」の頃。肥後勤王党の宮部鼎蔵とも面識があった)や土佐・坂本龍馬(3回訪れた)
と言った志士もこの地を訪れている。

なかなか行き難いところでもあり、取りあえず路面電車の終点(健軍)から歩いたら
いいのかなと調べて行ったのですが、これがかなり遠くって。

副都心と言った感じの健軍電停
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かなり歩きますが(30分近く歩いたぞ・・・)この交差点を南に曲がる
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バス停は産交バスの「秋津薬局前」(薬局は捜したけどなかった 笑)
熊本駅から「沼山津」「木山」(健軍経由)行きのバスが1Hに4~5本頻発してます。
所要35~40分。380円
他に四時軒の南へ行く路線もあるが、電車通りを通るこのバスが1番わかりやすい。
タクシーは運転手で知らん人がいたり、結構この辺でも料金が高くつくそう。

看板がまめにあるので迷いはしない
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交差点から歩約10分で到着!
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月曜休館、9時半~16時半。入場200円(記念館と四時軒)
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by enokama | 2008-07-14 22:58 | 横井小楠の周辺 | Comments(0)
「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に
決すべし」
「有材の公卿・諸侯及び天下の人材を顧問に備え、官爵を賜り、宜しく従来
有名無実の官を除くべきこと」

坂本龍馬が大いに絡んだと伝えられる「新政府綱領八策」のうちの二条。
幕末期、近代国家にはかかせないことでもある議会開設についての一番有名
な文である。すでに二院制のことに触れられている。
いわゆる「公議論」であり「開国論」と共に、横井小楠~松平春嶽の構想に
沿うものになっている。
すでに横井小楠は「外様・譜代に限らず賢を選んで正官となす」
「上院は公武御一席。下院は広く天下の人材活用」と構想を持っていた。

また、大政奉還の直後でもあり、やはり徳川の実権がある程度残る可能性も大いに
あった時期で、事実このころ欧州洋行の経験が豊富で徳川慶喜のブレーンと
なっていた西周(にしあまね。津和野藩出身)は上院を万石以上の大名、下院
は各藩の藩士を当て、欧州流の二院制とするが、その上に絶対的権力の「大君」
(当時のフランス皇帝・ナポレオンの絶対主義的政治。徳川将軍がこれに当たる)
とする案も示していた。また、天皇は象徴的存在として朝廷の影響を排除、三権
分立も唱え、なかなか慶喜も侮れない考えをもっていた。
また、欧州の議会はまず特権階級のものであったが、民主政治の進展により
庶民の議会が始まり(下院) 徐々にそちらに優越されるようになり、改めて
「上院」はチェック機関的な存在となっていったが、日本では長い間の封建制度
もあり、一般庶民の政治参加の考えには触れられていない。

最後に開明派大名の松平春嶽は、小楠の意見も取り入れつつ自らも議会制度を
調べていたと言う(文久期の政治総裁職のころ)
海外文献の「大英国志」によるもので、解釈に関しては長州・桂小五郎との交流
もあった(桂の人脈は意外に調べてみると幕臣にもあったりする。春嶽の人物
と見たら、身分にこだわらない姿勢がここにもある)
イギリス議会の二院制に関することで上院「巴刀門(ハルリモン)」下院「高門士
(タカモンス)」の記述があり、上院が幕臣・諸侯、下院が諸藩の藩士を当てると
ある。上院を諸藩の藩士で当て、下院を農商の一般庶民としてもいいと、当時と
しては飛躍した思い切った考えも持っていた。また「天子将軍」よりも議会を最優先
させるとあり、かなり進んだ構想であった。

維新後、上院にあたる貴族院が設置され、文字どうり貴族層や学者等が当てら
れた。ただし、その構成もあり「大正デモクラシー」の民主運動はどうしてもストッ
プをかけざるを得なかったと言う。
現在でも、存在価値やその機能としての問題が挙げられている。
個人的には構成や選挙制度もあるが理想とする「良識の府」とは遠くかけ離れて
いる現実(議員の顔ぶれをみても)に見えて、無駄にしか思えない。
また、国会開設時の理想を改めて考えて見直すのも大事と思う。
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by enokama | 2007-07-27 23:18 | 横井小楠の周辺 | Comments(5)

幕末の二院制論

参議院の選挙に行ってきた。
投票日を待たずにと言うことで「期日前投票」となる。
最近は、ほとんど投票日に行ったことがない。自分の出かける予定もあるし
添乗に出ていることも多い。
人の外出することの多い時期に投票すると言うことは、やはり投票率を下げる
ためと勘ぐられても仕方の無いこと。税のかからない施設で運動を行い、ノルマを
課して署名や行動を行う団体の思う壷で、その票読みを利用する政党や広告攻勢
で何も意見しないマスコミ・・・

こんなのもらった
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本来、二院制を取る各国の上院は「良識の府」とされている。
衆議院で当選できなくなって、参議院に回って解散のない任期6年をぬくぬくとして
いるような候補。労組丸抱えやプロ市民の代表の候補。現実的でない政党候補。
残念ながら、それにふさわしい人物はいないので白票にした。
利益団体の代表はどちらかの議院に絞るべきではなかろうか。同じ様な構成の
議院が二つあるだけと言うのは無駄なだけだ。
比例代表の方(実質、昔の全国区に戻っているが)は某馬主さんに入れた。
馬主は保有財産はもちろん、企業等の経営をしている場合も健全でなければなら
ない。事業を順調に行っていて、多額の納税をしている。企業の経営者ももっと国政
に入っていいと思う。
戦前の貴族院は「多額納税者の枠」があったそうだ。それが現代にあってもいいん
じゃないだろうか。税金対策を取らずに堂々と多額納税する替わりに、口を出すこと
が出来る。当然「良識の府」にふさわしい人物審査は行う。

ほんと、解散なしで6年も任せる人物の選挙だから、選ぶ人物がいないとしても
「権利」は行使すべきと思います。白票でも意思を示したら、その議院のシステム
や選挙制度が悪いってことで伝えることができます。
棄権はほんとかっこ悪いことです。

龍馬の「二院制論」のこと書こうとしたんですが長くなってしまって。
また改めて・・・
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by enokama | 2007-07-25 01:13 | 横井小楠の周辺 | Comments(2)

横井小楠

福岡に行って、せっかくなんで郷土図書のコーナーで見つけてきました。
地元紙の西日本新聞の発行で、著者は熊本・菊池の高校の先生です。
価格が1500円と手頃ですが、わかりやすく解説してくれてます!
他のシリーズでは、平尾山荘の項で紹介した「大隈言道」もあるようです。
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勝海舟をして「俺はおそろしいものを二人見た」
として西郷隆盛と共に称された横井小楠。

幕末は学問の時代とも言え、開国等の緊張もあり、これからの時代を見据えて各
藩も藩校の充実や遊学、幕府では海外留学に派遣されるものもいた。
吉田松陰も各地を遊学して、自身の指針としたが、小楠も水戸学からはじまり
勤王攘夷の矛盾を知り「開国貿易」「殖産産業」「富国強兵」と彼の思想は
そのまま新政府の指針となった。
また明治の「五箇条の御誓文」も彼の言葉のほぼ焼き写しでもある。

彼の学問は「実学」(実際に役に立つ学問) 江戸幕府の最高学府だった「昌平
こう」の学問に飽き足らず、化学や外交等を学び、明治の時代でも特異な才能
を発揮した幕臣・榎本武揚。
従来の佐賀藩・藩是「葉隠」に反発し長崎に近いこともあって、語学や
経済論を学んだ大隈重信らもそれに近いものと言えるだろう。

元来、肥後熊本藩は肥後の「議論倒れ」と言う言葉もあるように、守旧派の
「学校党」、尊王攘夷の「勤王党」(池田屋で死んだ宮部鼎蔵が知られる)
古来の神道派「敬神党」(のちに反乱を起こす大田黒伴雄ら)といろんな派が
あって、「実学党」としての熊本滞在時は不遇の時代も多かった。
しかし、幕末随一の開明派大名の福井藩主・松平春嶽に請われ招聘され
藩政指導を行い、師弟関係ともなった三岡八郎(由利公正)を通じて「物産総会所」
を開き、生糸を長崎に送り輸出することによって多大な利益を上げ(外国からの
収入であることに注目)開国貿易によって不景気になると言う流説が多かったな
かで実際に成果をあげて、自身の理論の確かさを証明した。
また一時期、春嶽が幕政に関与したさいは「参勤交代の廃止」も手がけている。
当然のごとく新政府は参与として、小楠を重用する。しかし明治早々、暗殺されて
しまう。
前述のように、彼の思想は明治政府の指針となった。
けれども大事なことが抜けていた「利政より仁政」「士道論」
この二点は「富国」「強兵」に並ぶ第三の柱だったがすっかり抜け落ちてしまった・・・

この福井藩と小楠の縁で熊本市と福井市は姉妹都市になっています。
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by enokama | 2007-02-19 01:19 | 横井小楠の周辺 | Comments(0)