坂本龍馬は三度、四時軒を訪れている。
1864年(元冶元年)で長州勢が「禁門の変」「下関攘夷戦」で打撃を蒙り、その事後処理に
発つ勝海舟と長崎に同行する際(2月)とその帰りに使いとして(4月)訪ねている。
勝門下として西郷と対面したり、戦後の長州の視察をしたりとメキメキと見聞や人脈を広げて
いたころで、当時の先覚者たちの理論には多いに共鳴しただろう。
この後、各藩とも幕府の一時的な盛り返しの時期で「第二次征長」の動きもあり「参勤交代
の復活」や各勤王党への弾圧の動きも見られた。
勝の謹慎や神戸操連所の閉鎖で、薩摩の西郷を頼った龍馬だったが「第一次征長」の戦後
処理での
薩長融和の動き も聞いたのだろう。
高杉晋作も攘夷を捨て下関を開港する勢いだったり、西郷も幕府を半ば見限り、長洲の救済
を通り越して提携する動きもあり、龍馬もその動きに同調する。
前述の通り1865年(慶応元年)5月鹿児島から、この四時軒に立ち寄り、大宰府の五卿への
拝謁後、下関に入っている。
5月19日、小楠との対談に臨む龍馬だったが「薩摩・長州の同盟」を説くのに対し
すでに福井の顧問的な立場からも退場し、この地に閉居し情勢にも時代の流れにも
疎くなりがちなこともあったのだろう。
幕府の立場も立て、長州の過激な行動には理解を示さなかった小楠はことごとく意見が
対立し、ケンカ別れしてしまった(熊本の上層部も当然、幕府寄り)
「第二次征長」は薩摩も消極的で、福岡・福井と言った雄藩も自重を求めていたが
小楠は熊本藩の出兵には賛成の立場でいた。しかし情勢を改めて聞き、長州の勢力の大
きさや幕府の弱体化も悟って、のちには藩に征長の自重を建言した。
しかし龍馬の考えもどうだったのだろう。「薩長同盟」ってことは、武力でも一致し幕府
を倒すってことも当然あっただろう。だからこの流れから言ったら西郷や中岡の行動
は一貫していたと思う(長州が攘夷を捨て、薩摩が助幕を捨てたこともあるが)
龍馬はこのあとの「大政奉還」や「議会制度や公議論」を土佐の後藤象二郎と共に
藩論とするのに尽力したが、それは春嶽や小楠との従来の主張と変わらない。
だから従来から討幕・攘夷・尊王の主張をした「長州との提携」はやはり、小楠には
飛躍しすぎた意見だと感じるのもわかるような気がする。
大政奉還→龍馬暗殺の流れの後「王政復古」「小御所会議」では薩摩や岩倉具視
が「徳川家や慶喜の影響の排除」を目論むのに対して「雄藩連合」を基本としての
従来からの「私政」から「公」に開かれた身分にこだわらない、能力のあるものを公平に
選ぶ「公議論」を主張し孤軍奮闘する春嶽(もう一人、酔っ払いもいましたが・・・)
僕が春嶽のことをよく書くのは、彼の人柄にもあるけど「人に優しい国家」がおそらく
できていたんじゃないかなと思うから。「庶民」の生活も心配し、この小楠と龍馬の対立
も聞いて、関係修復しようとも動いている(この手の話には事かかない人だが)
だから龍馬の新政府の人事リストにはしっかり、小楠が入ってるわけです!
「一橋派の擁立」から「文久の改革」「挙藩上洛計画」「王政復古」春嶽の理想の実現の
チャンスは幾度かあった。しかし、薩長土にしても最終的には殿様よりも藩士が主導で
動いた形となっていたので「胆力」や「策謀」と言った面ではかなわなかった。
おそらく、
橋本左内が生きてたらその人材になりえただろうが、村田氏寿や三岡八郎
(クセが多すぎることもあるけど)と言った人物は優秀であっても、物足らない面もあった
(結構この事は福井藩関連の書籍に書いている人が多い)
そんな中で春嶽が見出した人物と言ってもいい坂本龍馬には、一縷の望みも持っていた
だろう。
あの暗殺で慎太郎の死を岩倉が嘆き悲しんだように、龍馬の死は春嶽の悲しみが一番
多かっただろう。
また「小御所会議」ではその両人(岩倉と春嶽)は敵対勢力となるも、お互いの人物
としての評価は高かったと言う。
のちに小楠は春嶽の推奨もあっただろう、当然のように新政府の役人となる。
そして最も岩倉が頼りにしたのは小楠だった・・・
しかし、小楠はほどなくして暗殺されてしまう。
(キリスト教への理解があったことが、懐古調の攘夷論者の反感を買う。皮肉にも十津川
郷士が中心だった・・・)
三岡八郎(由利公正)らの福井勢も藩閥の前に役職を追われ、春嶽も雄藩の藩主としては
最も長く新政府に残ったが、ほどなく役を追われている。
小楠の理論は多く明治政府に採用されたが「富国強兵」はかなり強引な面もあって
人材の公平な採用や「武士道の精神」と言った理想論には遠くなってしまった。
「私」から「公」への政治には至らなかったのだ。
また、ぜひ機会がありましたら「四時軒」に行って、当時の人々の思いに馳せてみたい
と思います。