エノカマの旅の途中

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カテゴリ:福岡藩( 16 )

福岡市博物館の展示

去年、エコポイントでもらった名門大洋フェリーの金券の期限が迫っているので
仕事の落ち着いている今、急遽、九州に行ってきました。

早朝に出て、新幹線で博多、特急かもめに乗り換えて佐賀へ
川副町から柳川へ、久留米で泊まり、次の日は西鉄電車で福岡へ
そして高速バスで小倉~門司、夜20時前出発のフェリーで大阪に戻りました。

佐賀と久留米はまたの機会として、
福岡と門司のレポを先にしたいと思います。

もっと見る>>
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by enokama | 2012-05-22 23:09 | 福岡藩 | Comments(2)
先日の福岡行のネタ、もう一本行きます!

ホテルは6時半から食事ができたので、早起きして7時には博多駅前のホテルを出発。
天神まで地下鉄、西鉄電車に乗り換えて太宰府には8時前に到着しました。

前回のレポ→その1その2その3

西郷さんの定宿>>
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by enokama | 2011-08-09 23:27 | 福岡藩 | Comments(2)
まずは福岡市内の史跡めぐりです。

筑前勤王党と言えば、月形一門とは切り離せないもので
月形しょうがに始まり(変換できない。通称・質(すなお))→深蔵→洗蔵と激烈な「勤王思想」を
植え付けて行き、幕末の福岡藩に多大な影響を与えて行きます。。。

深蔵・洗蔵の代での主な門下生が、鷹取養巴・早川養敬(勇)・筑紫衛・伊丹真一郎・
野村万作(望東尼の夫)らであり、彼らがそのまま勤王党の中心をなし
加藤司書や武部建彦らの家老の支持も得て、藩政・国政一新を目指したものでした。
ただこれらの人物がことごとく殺されてしまい、幕末の回天に大きな役割を持った時期が
あったことも伝えられず、あまり知られていないことが現状です・・・

その月形一族の墓所が、予備校が多くあったころから呼ばれるようになった親不孝通り
(今は親富考通りになっているらしい)の一角にあります。
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平野二郎国臣ゆかりの地>>
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by enokama | 2011-08-04 23:26 | 福岡藩 | Comments(0)

もう一人いた・・・

昨日の「篤姫」、月照さんが出てきました。
若かりし頃の熱い西郷さんと、すべてを悟ったような月照・・・
小松っとんもええ人や。いい演出でよかったです!

ほんとはこの入水の時、もう一人役者がいたんですがね。
「憂国の士」福岡藩・平野国臣。いったん西郷と月照は筑前福岡に逃れるんですが
(この時に野村望東尼とも接触している)西郷は月照を平野に託して、先に帰国し彼ら
の保護を求め(返事はドラマ通り冷たいものだったが)
のちに平野らも薩摩へ入ろうとするが、当時はまだ「二重鎖国」のころで入国には難渋
を極めました。
そんな思いで入った薩摩、しかしそこも安住の地ではなかった。

失意の思いで平野の読んだ句
「我が胸の燃ゆるおもひにくらぶれば 煙は薄し桜島山」

そして日向へ向かう船での酒宴。月夜に風流人の平野は笛を奏で、彼らを慰めるが
その目の届かない間(当人は眠りに入ってたとか)に二人は入水してしまうのです。
気づいた平野は慌てて引きあげるも、月照は息絶えてしまう・・・

西郷さんはここで死んでた命だった。
これ以後は違った思いで生きていった。小沢さんがここで演技を変えてきたとしたら
大したもんですが。。。期待しましょう!

平野国臣はこの後、変転し脱藩。そして「生野の変」を起こし捕らえられ六角獄に収監。
「禁門の変」が起こりその火の手がせまるや、獄舎の罪人たちはすべて首を刎ねられた。
平野はゆくゆくは「全国統一国家」を目指していたと言う。

この入水時の錦絵がたまに「霊山歴史館」に展示されます。またごらんください!
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by enokama | 2008-07-29 00:29 | 福岡藩 | Comments(2)
この幕末の福岡藩の動きには何回か費やしたわけですが、途中で長州などの
動きや実際、僕が訪れた際の記録などを入れたこともあって、長々となってしまいました。
「薩長同盟」はやはり、結果的に討幕へと至る大きな力であった訳だし、各藩の勤王党への弾圧もあって
脱藩者が大勢駆け込んだ尊皇攘夷の総本山とも言える長州。
「公武合体」から舵取りを変えて、その長州を潰しきらずに互いに割拠し(抗幕)連合する道を取った薩摩。
一般的に坂本龍馬の功績と片付けてしまう向きもあるが、その構想はずっと前からあって
多くの血が流れた事実が福岡にはあった。

僕は思うが、やはり「薩長同盟」の最大の力は西郷の腹一つだったと思う。
征長後は幕府を抑えたし(幕府を見限ったとも)このころの日本である意味最高の実力者。
薩摩から手を挙げても、ひどい目にさんざんあった長州はそう簡単に組む訳がない。
そこで手を挙げた「第一次征長軍の解兵&五卿動座」の工作をした福岡藩の勤王党の面々。
長州にあって、もっとも理解を示し諸隊を抑えた中岡慎太郎。
そして、庇護されていた薩摩から下関にやってきて、停滞気味の交渉を一気に「経済面」で進めた坂本龍馬。
どれが欠けても成し遂げられなかったことだろう。
その中、激動の流れにあって福岡は維新後も延々と悲劇が残った。
生きてたら新政府にも入ってただろう時勢を読める優れた人材はいたが、誰もいなくなり
その後も後を引いた流れに翻弄された・・・
でも、この福岡藩一連の出来事はもっと語られなくてはならないことだろう。

この弾圧を指揮した黒田長溥は、他の藩主にも言えることだが、のちに弁明した記録は全く残ってない。
廃藩後は東京に移り、かなり早い時期に洋館を建て外国人を招いたりしたそうだ。
藩がなくなり、役目を終えた殿様は経済面の保証をされ徳川慶喜のように趣味に没頭するなど
庄内や会津の敗戦国の旧藩主でも、領民や開拓等で苦しんだ旧士族を尻目に結構な暮らしはできた
(庄内は領地安堵の替わりに支払った賠償金の一部が藩主・酒井家に着服された説がある)
所詮は殿様にすぎないってことでしょうか。
「私が国を治めていた時には領民を苦しめた」と残してるのは、民政家だった松平春嶽ぐらいだろうか
(すごく人間くさいところがいいんです)

早川勇は唯一と言っていい維新の流れを知る代表として、黒田家の顧問的な役目をしたり
新政府でも数々の役職を歴任した後、晩年は福岡出身者の人材の育成に尽力した。
薩長閥などで人脈がないとされ、そこに食い込むには真の実力が求められることでもあって
他の「賊軍」とされた東北諸藩なども人材育成に動いた。
盛岡藩出身の原敬がやっと首相になって、ようやく近代国家に近づいたとも言える。
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by enokama | 2007-12-30 19:31 | 福岡藩 | Comments(2)
慶応2年(1866)1月、福岡藩士たちによって最初に構想された「薩長同盟」はその筑前勤王党が
壊滅したあと、引き続き土佐の中岡慎太郎・坂本龍馬らの奔走が中心となって成立の運びとなる。
また、この年3月「長州再征」の動きのなか、大宰府に転座していた「五卿」の処遇について
佐幕派のみとなった福岡藩に対し「罪人としての江戸への護送」を命じ
幕府目付・小林甚六郎を派遣し、藩政府は応じる構えを見せた。

この動きを懸念した西郷隆盛は薩摩より兵を大宰府に派遣し、武力威嚇し五卿を守った。
もう幕威も衰えてきたとも言え、薩長同盟成立後の薩摩からの武力援助も得られた
長州の第二次征長「四境戦争」(6月)の勝利により、幕府は五卿の引渡しを完全にあきらめた。
このころの福岡藩は完全に、その流れに置き去りにされている。

福岡藩贋札事件>>
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by enokama | 2007-12-29 01:08 | 福岡藩 | Comments(0)
筑前勤王党の首魁と言えば、月形洗蔵。
「月形半平太」と言う話が作られているように、土佐の武市半平太とは双璧の存在だったのかもしれない。
一方で激しすぎる性格もあり、中岡慎太郎は「この人とは合わない」と書いているほど・・・
しかし、月形は武士としての名誉の死を許されなかった。
テロの関与は見られず純然たる政治思想犯であるにもかかわらず、除族の上
「斬首刑」と言う極刑に処せられた。1865年の10月のことである、享年38歳。

勤王党の精神的支柱と言うべき、藩医の鷹取養巴。月形とともに、遠賀の村医だった早川勇をはるばる
訪ね、盛んに論じあった。
土佐で言えば、間崎哲馬あたりの人物になるだろうか。
そんな鷹取も切腹は許されなかった。いや、死ななければならないほどの罪科は
ないと言っていい。ただ一心な思想だけが彼を葬り去った。

筑紫衛は千石取りの上士でありながらも、月形一門にあって勤王派と交る。
その中でも過激な行動に出ることが多かった。
一族預かりとなって蟄居中の自宅の便所の汲み取り口から脱走を図った。
そして川を泳ぎ切って逃亡したが、厳しい取調べのため、それまでの体力の衰えもあり溺死した。
その遺体は塩漬けにされた上、改めて首を打たれた・・・

この獄では水責めや殴打等、過酷な拷問が行われたが一人して口を割る者はいなかったと言う。
しかし、一連の暗殺等の関与が疑われた者、またこの勤王党の獄を見て救出を図った者も含まれていたが
この機を見て勤王党及び類すると見られた者はことごとく斬られたと行っていい。その数15名。


土方久元「回天実記」には次のような記述がある。

十月二十五日早起五ッ時参殿八ッ時退出一昨二十三日之夜当藩正義家十五人陰々密々斬首有之候由
然未た姓名等は不相分形勢如此憤慨之至也今夜俄に五卿方使者として武部諌尾(清岡公張)
大山彦太郎(中岡慎太郎)両人福岡へ被差立候事に相成右に付暮頃より又々参殿五ッ時退出

また、勤王党を代表する家老で、ほんの数ヶ月前まで長州の五卿動座・征長兵解兵の最前線にいた
加藤司書も切腹を命じられた。
同時に彼に近い勤王党寄りの3人の役人も切腹している。
加藤は解兵に向けて征長総督府のある広島にいたころ、長州や西郷隆盛と交わるうち幕府の弱体化をさとり
その後「幕府に頓着せず・・・」と言った思い切った建白を出したが
到底、佐幕派の強い藩上層部には受け入れられるものではなく、のち罷免されていた。
あの高杉晋作を匿ったこともある平尾山荘の野村望東尼は孤島・姫島への流罪となっている。
(流されて10ヶ月後、高杉の意を受けた福岡脱藩浪士らによって
救出される。高杉の臨終に立ち会ったあと、三田尻にて没)

長州の五卿動座・征長兵解兵に福岡藩は多大な周旋行動を行い、長州の激派・諸隊相手には
文字どおり命を張った行動だった。
その多くは藩主自ら、その人脈を信じ命令した勤王党の面々だった。さんざん使っておいての上での
この仕打ちである。
そして、誰もいなくなった・・・

だだ一人、長州の最前線にいながら、唯一死罪を逃れた人物がいる。
早川勇。牢居を命じられた・・・僕もなぜ彼が助かったのかずっと謎だった。
栗田氏の著書でもはっきりとはわからないらしい。
ただ、死罪だったのは確かだが藩主・長溥が一等罪を減じたのは確からしい。
「のちに使うこともあるだろう」との意もあったと言う。
実際、早川は明治維新後、福岡藩を一身に背負うこととなるがわずか一人。
あまりにも血が流れすぎた。
この後は人物がいなくなったこともあり、情勢の変化にも対応することもできず福岡藩は無力化していった。
のち戊辰の役に福岡藩も出兵するが、寄せ集めで士気も乏しい兵は各藩の笑い者となったと言う。

そして、まだまだ悲劇は続く・・・
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by enokama | 2007-12-11 23:06 | 福岡藩 | Comments(3)
乙丑の獄(いっちゅうのごく)は幕末史では意外に知られていない出来事かもしれない。
公式な資料もほとんど残ってないようだし、有力な人物がほとんど消されて
しまったこともあり、伝わることも少なかった。
この件はほぼ、栗田氏の著書でようやく僕も流れがつかめた次第であります。 

勤王党への過酷な弾圧は土佐が有名だが、脱藩の実力者坂本龍馬・中岡慎太郎
また、在郷の上士・板垣退助や勤王党の残った面々によって、藩上層部が佐幕寄りの中
幕末の難しい難局の舵取りを変えて、勤王討幕の勢力となりえた。

最も早く「薩長同盟」を唱えた福岡藩も、時流の読み違いがなければ新政府の
中心勢力となったろうし、人物も多数いた。
だが「根を切り葉を枯らすべし」と言われたこの獄は土佐以上に過酷すぎた。
そしてやがてくる時勢の変化に、対応できる人物が誰もいなくなる事態となり
完全に西国でも無力な、置いてけぼりを食った藩となってしまう。

弾圧といっても思想的な面だけでは、このような事態には至らない。
土佐も参政・吉田東洋の暗殺と言う事件が大きな要因になっている。

1864年2月に保守派の重職藩奉行・牧市内の暗殺。また、このころ脱藩の身ながら
長州・京都に走り七卿に付き、高杉の一時的な福岡亡命にも立ち会った行動家・中村円太
(勤王党でも過激で藩に睨まれる札付きの人物だった)が
一時期藩牢獄に拘束されていたのだが、その脱獄事件が起きた。
両件とも勤王党の筑紫衛の主導とされ、月形洗蔵や早川勇は過激なテロ行動に自重をうながしている。

また、五卿動座→勤王党謹慎の流れのあとの1965年6月、五卿動座や長州処分に長州~芸州~岩国で
と幅広く奔走した喜多岡勇平が暗殺されている。
久坂玄瑞のいわゆる「草莽の結集」に応じて(土佐の吉村虎太郎もその一人) 福岡を脱藩し
七卿の一人・沢宣嘉を擁し「生野の乱」を起こし捕らえられ、のち六角獄で斬られた憂国の士・平野国臣や
野村望東尼(家が隣りだった)とも親しく、早くから勤王の志を持つ一方
藩主・黒田長溥とも近く信任を得ていて、罷免されていく勤王派の中でも役職に残されていたことで
このころ佐幕派に近くなっていたとの疑いを持たれていた。この暗殺には長溥も激怒したと言う。
勤王党と藩主のパイプ役となる人物の暗殺は焦りとしても、暴走と言ってもいい
事態で自滅につながる行為だった。
この件も一端となり、一気に勤王党への弾圧は加速して行く。

また月形洗蔵は、土佐の武市半平太同様に脱藩者が相次ぐ一方、勤王党の面々のほとんどが謹慎にあった中でも
「二百年来の恩を賜り、君家に背くのに忍ばない」として黒田家の家来としての忠誠心を持っていた。
この度の「薩長融和」の動きは、むろん福岡藩の立場も考えての行動と信じていた。
脱藩して長州へ走った者はほとんどが程なく命を落としている中、謹慎(辛酉の獄→こちら)もあって
逆に筑前勤王党の勢力が温存されて、この長州救済に大きな力を発揮したのだが
藩の手で自分達が追い込まれようとは夢にも思わなかっただろう・・・
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by enokama | 2007-12-09 23:23 | 福岡藩 | Comments(4)
高杉晋作が福岡・平尾山荘での滞在を経て「帰国しての挙兵」を決断するころ
その時の奇兵隊総督・赤祢武人は別の動きを見せていた。

赤祢は周防・岩国のはるか沖合の小島・柱島の出身(医者の子)で
周防大島の対岸(本州側)大畠にあった妙円寺の僧で、勤王僧とも海防僧
(徹底討幕論者で海防の重要性を唱えた)とも呼ばれた月性が開いていた清狂草堂に学んだ。
同門には世良修蔵・大楽源太郎(いずれも後に非業の死を遂げる)らがいる。
のち吉田松陰(月性との交流があった)の門下に入り、京に上って大儒の梅田雲浜にも学んでいる。

第一次征長後の俗論派の握る藩政下で高杉不在時、いわゆる奇兵隊を始めとする「諸隊」は
長府・功山寺に移ってきた五卿警護の名分のもと、この地に集結していた(長府藩独自の判断)
近辺の寺院に駐屯した、その諸隊の数は2000を超えたと言う。
そして、赤根らは打開を図るべく萩の俗論派との交渉に入り、諸隊の慰撫をもって
獄中にいる正義派の要人たちの生命の保証を取り付けていた。
(人質とも言え、高杉の挙兵後に彼らは処刑される運命となる)
当時の状況では現実的で妥当な判断だっただろう。

当然、高杉の挙兵計画を聞き、赤祢は反対する。赤祢の論に対し「一農民の言うことではないか。
毛利三百年来の家臣である予が、この挙を起こす決意をしているのではないか」と
罵った有名な話も残っている。
現実この挙兵は無謀と見え、大いなる賭けだったかも知れない(実は計算はされていた可能性もある)
そして奇跡的に勝利し、その中心となった諸隊は次の征長戦にも勝利する。

赤祢はこの後、五卿動座の地・大宰府にいた。
長州の強硬論を抑えての福岡藩の五卿動座・征長軍の解兵への働きと成果だったがここに至り
この処置を喜ばぬ幕府より「江戸への五卿護送」を求められる。
当然、決死の覚悟で実現したことでもあり、圧力に屈することは許されない。
ここで西郷隆盛の働きかけもあって、福岡藩より早川勇・筑紫衛を京に派遣し、情勢を探らせることとなる。
この2人の上京を聞き、赤祢(他1人)も次の自らの居場所を求め同行を願う。
早川は西郷とも話し合い「使えることもあろう」と許可する。
3月6日、福岡を発った。
また、このころ西郷・早川らの間では、この次のステップとして「薩長肥同盟」と
「五卿帰洛・復官」の案が出されていて、赤祢らも当然知ることとなる。
しかし、これが裏目に出た。赤祢らは大坂にて幕吏に拘束されてしまう。
そして、この秘事も福岡藩「筑紫、早川」との名前も出てしまったため、構想は流れてしまったとも伝わる。

このことが元来強かった、福岡藩佐幕派に口実を与えてしまうこととなる。
第二次征長が現実を帯び「長州の次は筑前」と言った流言が聞かれるようになる。
そして4月の末、早川らは帰国を命じられる。
この時点で筑前勤王党の活動は完全に終わり、この年の2月の人事でいわゆる「勤王派内閣」となり
西郷からも期待された政権の中心、家老・加藤司書も5月に罷免される。
そして、勤王党の一斉検挙へと続いて行く。

赤祢はこの後入獄し、新撰組の伊東甲子太郎・幕臣永井尚志と言った面々に建言が採用され
出獄が許され、近づくこととなる。そして、その文言に基づき第二次征長直前、自ら周旋しようと
再度、長州に入るが理解されることはなく拘束され、裏切り者として処刑される。
彼は有能で、時期が時期なら十分な仕事もできたのではないだろうか。
高杉の活躍の裏で、時代に翻弄された一人でもあった。

また、彼の事を快く思わない長州人は当然多く、誤解を受けなかなか復権が許さ
れなかった。しかし、国を憂う気持ちは月性の教えもあり人一倍であった。
ぼちぼち、山口では彼の正当な評価を問う声も出てきて、書物も出版されて
いる。僕ももう少し、調べてみたい人物です・・・
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by enokama | 2007-11-30 22:02 | 福岡藩 | Comments(0)
先週、琴平から何枚か持ち帰ってきた中の、一枚の地図を見ていたら
日柳燕石(くさなぎえんせき)と高杉晋作の会合した所 呑象楼が金刀比羅宮にほど近い所にあった・・・
「そういや、愛人おうのを連れて高杉が讃岐に逃げてきたことあったな」
それが琴平だったんです。
時間あったのにな・・・惜しいことした(泣)


内訌戦の勝利で長州は再び「正義派」が政権を握り、「武装恭順」の形を持って再び幕府に対抗する
態度を示した。
4月には潜伏先の但馬から桂小五郎が帰国を果たしている。
この長州の動きを見た幕府サイドでは、改めて「長州再征」が議論されるようになる。

中岡慎太郎は五卿付きとして、大宰府を拠点にしながらも下関、京、薩摩と行き来し
「薩長融和」に向け奔走している。
5月には同じ意思を持って下関を訪れた坂本龍馬と合流。慎太郎と龍馬はこのころから
文字通り「両輪」となって活動し(龍馬は自身の社中の実利をもって薩長の仲立ちを、おおいに進めた)
翌年1月「薩長同盟」が成立する運びとなる。

内訌戦の後の高杉は伊藤俊輔と共に、長崎にて英国商人グラバーと対談している。
むろん、両人とも単純な攘夷論は捨て去っている。
ただ諸隊との齟齬もあって、また長州に居づらくなっていた高杉は伊藤とともに洋行の計画を立てていて
その斡旋を頼んだものだった。
その長崎滞在中、所用で長崎に来ていた箱館駐在英国領事・ラウダーに英語のレッスンを受けていたのだが
「今は洋行よりも、長州が独立して下関を開港する機会である。今度、パークスという外国からの信用も厚い
公使がくるので、彼と協議すれば開けてくるだろう」と言われ、再度の征長の動きもあった時期での
イギリス側からの斡旋・接近に、外国貿易により見込まれる利益と
その富によるさらなる軍備拡張も期待される計画に彼らは乗った。
ここで薩摩(薩英戦争後における接近)に続いた長州へのイギリスの肩入れも、注目されることであろ。

「下関開港」を決意した高杉・伊藤らは帰藩後、さっそく藩庁に説得にかかる。
しかしもともと長州は「攘夷の大本山」でもあり
開港によって下関の大半を占める領地を召し上げられる可能性(替地の形となるが)のある
長府・清末の支藩も反発する。
そして、暗殺団も結成されたと言い、高杉・伊藤・井上聞多の開港派は藩外逃亡を余儀なくされる。
井上は九州・別府にて博徒の子分となり、伊藤は対馬から朝鮮へ走ろうとした。

高杉はカモフラージュも兼ねて、愛人・おうのを同伴して逃避行をしている。
大阪→道後を経て、讃岐・琴平の大親分・日柳燕石の元へ身を寄せることとなる。
燕石も勤王家と知られ、長州の要人として手厚く匿い、捕吏からも守りきった(ただし、匿った罪でのちに投獄される)
やがて、高杉は迫り来る征長の動きに対抗できる人物として、またもや待望され9月に藩に復帰。
「四境戦争」を迎えることとなる。

各藩の動きは、この年の春「長州再征」も見据えて、長州とも縁の深い対馬藩と
土佐藩で勤王党弾圧が行われ、多くの犠牲者が出た。
そしてその流れは「五卿動座」を果たした福岡藩にも訪れることとなる。
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by enokama | 2007-11-05 21:05 | 福岡藩 | Comments(7)