エノカマの旅の途中

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カテゴリ:庄内藩( 57 )

新徴組のドラマ

BSで新徴組の時代劇とそれに先立った紹介する番組をやってました。
ビビる大木と堀口栞純が出てて、わかりやすい内容だったかと思います。
ドラマではあまり出てこなかった庄内での取材もあったようで、新徴組の子孫の方がまだ松ヶ岡におられるんだなと感慨深いものがありました。
よく庄内に対する西郷の寛大なる取り扱いも言われることですが、庄内藩が新徴組を国元に引き取ったころは(恭順しようとする)勤王派とも言うべき勢力を粛清してしまっているので、朝敵にならざる得ない事情があったり、酒田の商人たちも薩摩との商売はもちろんあった上(情報は十分入っていたはず)での藩への協力は覚悟を決めた上での戦いであり、その上で終始有利な戦いを進めた経緯では当然だったかなと思います。
だから書物も読んでも「薩摩にはめられた」的な表現はあっても、某所のように卑屈にはならないし「やりきることはやりきった」として、その後の薩摩との割り切った友好的な関係が伝えられるのも僕が庄内藩に惹かれる要因であります。





ドラマの感想>>
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by enokama | 2017-01-15 10:08 | 庄内藩 | Comments(0)
大河ドラマの感想を書きたいとこだけど・・・
また視聴率が低くなってきてることが話題になってるけど、正直「おもしろくない」んですよ!
もう(特に主人公を)見るのが苦痛になってきたので(真央ちゃんは決して悪くないんだけど)
コメントもしようがない!
ついでに戦犯で「安倍が悪い。籾井が悪い」(関係ないやん)ってなぜかなってたりしてるしね。
それも気分が悪いし、もう触れたくないって感じ。
左内が出ないかなとも期待してたけど、今の雰囲気では出してほしくないな!


話題変えて・・・僕から見たら、トンデモ本のたぐいで「絶対買うな」って本の紹介。
結構、本屋で平積みになっているのが減っていて、書店の検索でも「売り切れ」ってなってたりして
実際に売れているようだ!
買う気は当然なかったけど、あまりにも「内容を信用している」ような書評やブログの感想もあったので
買ってちゃんと批評して書こうなと思ったけど、あまりにも酷い内容なのでアホらしくって止めてしまった。
まあ、早乙女貢や星亮一とか中村彰彦の信奉者ならおススメですけどね!

たぶん、新聞の論評に載ってたからかな。。。以下に載せます

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by enokama | 2015-04-22 18:20 | 庄内藩 | Comments(0)
庄内藩の薩摩藩邸焼き討ち事件→その1その2
庄内藩江戸屋敷→こちら
薩摩藩・慶応3年の関連記事→その1その2その3

今まで何度か書いてきましたが、この事件のゆかりの地に行ってきたので紹介します!
(主な引用文献は「薩藩海軍史」と「徳川慶喜公伝」)

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by enokama | 2014-12-03 20:35 | 庄内藩 | Comments(0)
画像を整理してまして、まだブログに載せていなかったものを紹介しています。

少し前(3年ほど前)の画像ですが、庄内藩の江戸屋敷跡を回りました。。。
まずは江戸城外堀にかかる神田橋の守衛(名門譜代の役目)もある要所にあった上屋敷跡。
将軍が寛永寺参詣の際に通った橋でもあり、厳重な警備がされた。

神田橋から江戸城方向への画像
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城に近い周辺部には各藩の上屋敷が多くあって、参勤交代で江戸に上った大名はこちらに滞在し
江戸城へと登城した。
この上屋敷の地には天保国替え一件で「領地安堵」となった際や、慶応3年12月に庄内藩が
薩摩藩下屋敷を焼き討ちした際には喝采を浴びて、周辺の市民たちがお祝いに大勢駆けつけてきた。

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by enokama | 2014-03-29 23:02 | 庄内藩 | Comments(0)
遊佐の放映がありました(遊佐町HPでもしっかり募集していたようです→こちら
行先は吹浦の釜磯海水浴場でした。。。
(一昔前は海水浴シーズンの吹浦駅は大変、にぎわったそうであります!)

それにしてもいい景色だな~鳥海山
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by enokama | 2013-11-10 23:21 | 庄内藩 | Comments(0)
白井矢太夫は名君と言われた藩主・酒井忠徳の信任篤く
財政再建に成功し、その庄内藩の富裕ぶりは「神田大黒」(江戸上屋敷の場所)と呼ばれるほどであった。

そして、矢太夫のもう一つの功績は藩校・致道館の創設で
岡山・閑谷学校、米沢・興譲館も参考に、徂徠学の学風が特色であった。
矢太夫は自ら祭酒(校長)兼司業となって、のちの人材育成につなげた。

その学校の運営資金に充てるため、鳥海山麓に新しく新田を開発した。
そして「白井新田」となり、今もその地名が残っている。
白井新田では開田直後に、矢太夫を生祠として「白井大明神」として祭った。
今の白山神社である。
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こちらは地元のKさんに案内いただけました。
「白山神社」とは拝殿の前にしか書いてないので、たどり着くにはかなり困難が予想されます。
(ほんと、ありがとうございました・・・)
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少し入ると鳥海山麓の自然が
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最後に庄内グルメ>>
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by enokama | 2013-10-16 21:10 | 庄内藩 | Comments(0)
ちょうどNHKBSの「にっぽん百名山」って番組で
「鳥海山」をやっていて、遊佐の町や吹浦駅あたりが出てきました。
実はどうも僕は鳥海山とは、行ったときの天気の相性が悪いので(苦笑)
本当にきれいな画像で見ることができました。。。
再放送もありますので、ぜひご覧ください→こちら

それでは遊佐の第二弾です。。。

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by enokama | 2013-10-15 23:40 | 庄内藩 | Comments(0)
庄内紀行の続き・・・早く更新したかったのですが、ちょっと記事の調べで
前に買っていた庄内本を見てたら、改めて面白くってハマってしまって。
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左の著書は佐藤三郎氏で、庄内の郷土史関係ではよく見かける方です。
入部以前の徳川家とのかかわりから、維新後の十五代忠篤まで庄内・酒井左衛門尉家の記録であります。
初期の藩政基盤の確立から、白井矢太夫の藩政改革、天保の国替え一件や幕末の海防・蝦夷地経営
幕末では本間郡兵衛のことや三烈士のエピソードなどと幅広くわかりやすく書かれています。

右は前も紹介しましたが、庄内軍における戊辰戦争記録で一次史料である「戊辰庄内戦争録」の
現代要約本的なもので、庄内関連で数々の著書がある坂本守正氏です。
「戊辰庄内戦争録」自体が昔の文体で少し厄介なので、こちらの本を読んでからだとわかりやすいと思います。

どちらを読んでいても、庄内藩の気風ってのが気持ちいいし、知ったら絶対好きになると思います。
ただ手に入れるのは難しいかもしれませんけど・・・

遊佐へ>>
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by enokama | 2013-10-10 23:19 | 庄内藩 | Comments(0)
まず、ちょっとした庄内の展示情報ですが
鶴岡の致道博物館で「酒井玄蕃・酒井調良・黒崎研堂~三兄弟の遺墨展(年間展覧会のところをクリック
こちら)」があります。
期間が来年1月17日~2月17日ってことで、気候が厳しそうな時期ではありますが
これはすごい見てみたいな~


この松山の地には明治創業の老舗企業がある
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松岡株式会社→HP

名前の由来にもあるが松ヶ岡開墾場での養蚕事業から、生糸生産の拠点として作られた会社。
おそらく藩が無くなってからの松山での振興事業として、この地に作られたんじゃないかなと思われる。
明治時代の日本発展の主力とも言うべき繊維産業は、現代では中国等に移ってしまっている現状で
こちらでも他の事業にシフトして行っている状況だが(→こちら
「シルク」の生産もこだわって、残されているようだ。

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by enokama | 2013-10-03 23:54 | 庄内藩 | Comments(0)
「支藩」と言う定義ってのは、いつも専門の先生にも確認したいなと思いつつ
しっかりとしたことがまだ聞けずじまいで、確実に「これだ」ってことは僕自身には書けないのだが
たいていの藩史を紐解いても、江戸時代始め「藩祖」となった大名らは、その自身相続のさいに
1万石ぐらいの支藩を二つ三つ分知して、その子らに分け与えて「支藩」の創設となることが多い。
おそらく「継嗣」の問題で本藩での藩主の急逝など、跡継ぎ問題が発生した時に
支藩の男子が本藩を継ぐこともよく聞く話なので、主だった理由は確実な「継嗣」によって
藩の「断絶」を防ぐ意味ではないかなと思う。

庄内の場合は飛び地でもある左沢と、庄内地域では大山藩と松山藩が設置された。
大山は程なく継嗣がなくって断絶し、江戸時代は天領になったり、庄内藩の預かり地になったりして
その変転等々もあって、いろいろと幕末期まで住民間とのトラブルがあったりしたが
松山藩は幕末まで存在して、また本藩とは違った独自な藩政が展開された。

赤が松山 青が大山

この松山は当時17件しかない、中山村と言う寒村に設置された。
最上川の流れに接し、北東方向への防備と言う観点でこの地が選ばれたと言う。
末代までの繁栄を願い「松山」と改称された城下町としての形が徐々に整えられた。

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by enokama | 2013-10-01 23:13 | 庄内藩 | Comments(0)