エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

カテゴリ:福井藩( 15 )

来年の大河「八重の桜」でのキャストがほぼ出揃ったようです→こちら

その中で僕が気になるのは、松平春嶽の位置付けなんですが・・・
(よく最近の今回の大河関連記事で「藩主」と書かれていることが多いが、越前福井藩主・松平慶永が
「安政の大獄」で隠居となって「春嶽」と称すことが多くなり、文久以降は「越前の前藩主」とされなければ
ならない。特に春嶽を叩きたがる人ほど「どうでもいい」らしく、この間違いが多い)

11歳で福井藩主となる。学問に秀で、有能な人材を登用、英邁な藩主と知られ、薩摩藩主・島津斉彬や
土佐藩主・山内容堂、宇和島藩主・伊達宗城とともに四賢侯の一人と称される。「文久の幕政改革」で
政事総裁職となり、会津藩に京都守護職の就任を執拗に要請する。明治の世になると新政府に出仕
民部卿、大蔵卿などを歴任する。春嶽を評して「春嶽と按摩のような名をつけて上を揉んだり下を揉んだり」
と当時の狂歌に歌われる。

立場があいまいなように見える人は、歴史上では嫌われる運命ではありますが
この文章ではやはり「会津」の引き立て役として「悪役」となって
HR一やS乙女、N村A彦の信奉者は溜飲を上げるものと思われます。
まあ今回は「東北の大河」ってことで致し方ない面はありますが、ここで強調され知られるようになっても
幕末福井舞台の大河ドラマなどは、まずありえないことでもあるので
その印象は挽回されることなく、ずっと残ってしまうわけですね。。。

本当に福井の方もおっしゃいますが「アピールが下手で」ってこともありますので
微力ながらも「真実」ってのを、僕も伝えて行きたいと思います。
以下は某所での僕の書き込みです。
荒くて抽象的な文章ですが、ご容赦ください。。。

アピール>>
[PR]
by enokama | 2012-10-17 23:52 | 福井藩 | Comments(3)

福井幕末史跡~2011訪問

画像を整理していて、まだ記事にしていなかったので紹介しておきます。

福井市街地の南・足羽川を渡る橋は、半石半木の奇橋で古くから知られた北国街道上の九十九橋
(柴田勝家によってその形状で架けられたと言う)が有名ですが
幕末藩政改革での産業振興策の一環として、その東に新たに架けられたのが幸橋(さいわいばし)でした。
そして明治以降は電車の通る道ともなって、メインルートとなっていったのです。
長らくこの橋は架け替え工事で仮橋になっていたのですが
昨年11月に訪れた時には工事が終了し、電車も元のように道路の中央を走るようになっていました

f0010195_8593090.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2012-07-07 08:45 | 福井藩 | Comments(0)
福井藩(越前藩)に関しては藩主だった松平春嶽、その側近・中根雪江
利け者の能吏で橋本左内とも近かった村田氏寿の手によって、明治維新後に幕末の記録をまとめた
「再夢記事」「丁卯日記」「続再夢記事」と言う貴重な幕末史料があります。
今回の福井行きでは、それらの史料が図書館に開架であったので(全部で10冊ほどある)
ほしい記事が手に取って短時間で確認できコピーできたので、本当に足を運んだ甲斐が
あったなと思いました!
一番知りたくって、それも詳細に書かれているのが慶応3年の大政奉還~王政復古の流れで
こちらはじっくり読み込んで(なぜかこのことが書かれている「丁卯日記」の部分は文字が小さくて多い)
流れを知りたいと思っています。


今日はその中から、禁門の変で福井藩が護った堺町御門での戦闘の話で(関連記事→こちら
福井藩側から見たその記録です!

入江九一の最後>>
[PR]
by enokama | 2011-11-22 23:57 | 福井藩 | Comments(0)
土日とフリーになるのを確認して
思い立って久しぶりに福井に行ってきました!

歴史(幕末)ブログやりだしてから、正直これだけ批判される藩だとは思わなかったんだけど
武士道と打った士族側の精神論で語る評価と
領民を思いやることと、国を富ますことに重点に置いた施策の評価では
絶対的な見方が違うのです。。。
書物としては絶対に前者が語られることが多いですしね。

僕の歴史研究の原点は福井なので、ずっと拘って行きたいし
もっと発信して行きたいんです。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2011-11-13 23:10 | 福井藩 | Comments(2)

福井より

f0010195_20102494.jpg

f0010195_20102419.jpg

福井にきてます!
それにしてもまだ冷え込みませんね。。。
もう店は閉まりかけているので宿に戻ります。
明日、雨が降りだしそうなので、早めに起きて行動するつもり!
[PR]
by enokama | 2011-11-12 20:10 | 福井藩 | Comments(0)
例の「東大教授・山内昌之」のコラムです。
相変わらず前半は民主党批判で、後半は今の政治家と照らし合わせて
幕末の人物を通した現在の指針を説きます!

まあ、今の政治家と幕末当時の文字通り「命をかけて、国を思い憂いた志士や人物」との対比は
悪いけど先人に失礼なレベルですよね。そんな大物はおらん・・・
このコラムの人物論は普通に人気のある人は持ち上げ、人気のない人はとことん貶めます。。。
まあ、そう言った構成がクレームもないだろうし、無難なんでしょうけど。

でも、そんな固定観念に捉われたとしたら「歴史の再評価」ってものには何もつながりません。
僕もちょっと偉そうに言わせていただくと「悪いと思われている人のいい所を見つける」
「本当のその事項について貢献した人物を発掘したい」
ってことを知りたいと思い、いろいろ調べているのです!

こう言った新聞に連載され、ブログにもよく「いい話だ」として引用されることは
いつまでたっても「悪い奴」は「悪い」として、ずっと伝えられて行くことになるのです。
本当に悪い人で伝えられてきて、実は誤解だったと言う例は結構あるし
それが従来の史観に捉われることで、公にされないこともあります・・・
だから僕は敢えて、逆の方向で引用するんです(前回の批評→こちら

春嶽や福井藩については15年ほど前から、興味持って知っています。
この山内(中村彰彦)ラインの会津史観については、わずか3年ほど前からしか調べていません。
それを知った順番が逆だったとしたら、多くの人と同じような思いを持ったかもしれません。
それを理解していただきたいと思います!

物は言いよう>>
[PR]
by enokama | 2010-11-13 22:46 | 福井藩 | Comments(0)

春嶽の見た幕末

ツアーは橋本左内生誕地・墓所、橘曙覧の庵・藁屋(わらや)跡などを回り
郷土歴史博物館へ。。。(過去記事
f0010195_2254114.jpg

「松平春嶽をめぐる人々」
と言う特別展だったが、これがとても凄いもので


徳川斉昭
尊皇の意思や、藩主になる際の心構えを教わる。切り詰めることはしても、        
投資するべきは惜しまずに行え(神戸繰錬所への投資もここから来ている)
ただし、当初水戸学に傾倒していた横井小楠同様、しだいに疑念を感じ
「開国(攘夷不可)」「実際に役立つ学問の奨励(実学)」へと路線を変えて行く。
ただし、世子である最後の将軍・慶喜には幕府崩壊、その時まで支え続けることとなる。

阿部正弘
ペリーの黒船来航に際して、朝廷や外様・親藩大名にまで意見を求め「挙国一致」を初めて図った人物。
朝廷より「和宮降嫁」の動き、水戸(徳川斉昭)薩摩(島津斉彬)土佐(山内容堂)
そして春嶽と幕政へ発言者が増え、従来の幕府の専断政治は終わりを告げる。
この動きによって、世間に「世界情勢と危機意識」を植え付け、先進的な藩では藩政・軍政改革
や海防対策に乗り出すこととなる。
春嶽の「身分にこだわらない、有能な人物の登用」と言う精神はここにあったのかもしれない。
しかし、彼の死後は従来の保守派(譜代大名)との対立が起こり「安政の大獄」で有為の人物
が多数、犠牲となってしまう。

徳川家茂
後見人的存在で、将軍を支えた。家茂も春嶽を父のように慕った。
(でも結果的に春嶽は逃げてしまい、批判する人が山のようにいますが・・・)
期待も大きかったが若くして亡くなってしまう(この時の模様の書簡・家茂肖像画写真)

勝海舟・坂本龍馬
勝も阿部正弘によって抜擢された人物で、大久保一翁・斉彬・容堂・伊達宗城(宇和島)
らの開明的な改革派(一橋派)の一人となり、春嶽も盟友の一人となる。
のち、海防の急務を悟り東西海軍局構想として「神戸海軍操練所」を設立。
         
坂本はよき片腕となり、日本初の本格的海運株式会社とされる「亀山社中」と繋がっていく。
ちなみに勝海舟の弟子ではあるが、幕府要人との初めての対面が春嶽の可能性が高く
次々に当時の先覚的な人物を紹介し「幕末の英雄」と言われる人物の下地ができた。
春嶽も終生、彼の最大の支援者となり、坂本も春嶽の「理想社会」の良き理解者で、
その実現に向け奔走するが、明治の世を見ることなく暗殺されてしまう。

その他、こちらもなぜか?馬のあった盟友・山内容堂。
大政奉還を最初に提案した大久保一翁。

「和宮降嫁」のころより、春嶽に一目置いていた岩倉具視。
「王政復古」では対立の関係となるが、その人物もあって、まだ平和裡に終わらされたのかもしれない。
彼らの実力を高く評価して、横井小楠・由利公正の新政府登用を勧めたのも岩倉。

福井との縁のある西郷隆盛。単身、福井を訪れたことのある大久保利通。

以上、紹介した人物のゆかりの品がすべて展示してありました。。。
これもすべて館蔵(複製はほとんどない)なんだからびっくりです・・・
人脈もかなりのものですが、こんなお宝が残ってるんですから。
幕末の記録も、春嶽・中根雪江・村田氏寿らによって膨大な量が残されているので
まだまだ、隠された事実も出てくるかもしれません。
しかし、春嶽は死の直前にその記録すべてを「燃やしてしまえ」と指示したそうです。。。
(結局、子息に渡された)
その思いもなんだかわかる気がします。


最後に彼の壮年期の作とされる詩を・・・

「我に才略なく、我に奇なし、常に衆言を聴きて宜しき処に従う。
人事すべて天道の妙の如し。風雷晴雨予め期すること難し」
[PR]
by enokama | 2008-11-07 22:54 | 福井藩 | Comments(2)
橋本景岳(左内)先生 肖像画
f0010195_0502960.jpg

何ヶ所かで飾ってあったんです。
これだけでも、どれだけ慕われて尊敬を集めていたのかが、わかります!
同じ画があったら(複製でいいんだけど)ぜひ欲しいのですが・・・

お墓の写真が多いです>>
[PR]
by enokama | 2008-11-02 01:08 | 福井藩 | Comments(2)
10月26日
バスで幕末史跡めぐりに参加。。

丹厳洞(たんがんどう)
f0010195_22314779.jpg

福井市街地の西側2キロほどのところ。
当時、福井藩の藩医だった山本瑞庵が薬草園を開くべくこの地(笏谷・・・しゃくだに)を訪れ(1864年)
静かな環境を気に入り、庵を立て丹厳洞(洞は山の懐ろの意)と名付けた。

土蔵造りの二階建ての庵は当時のままで、現在は同地で料亭を経営されている方が管理されていて
事前に連絡の上で、見学をさせていただくようになっているようです。
画像は笏谷石の洞と庭園で、洞内は祠となっていました。
この庭にも、かなり古い松平春嶽像がありました。

笏谷石は古くからの福井名産の足羽山麓で産出された石で、青緑色の良質の凝灰岩
です(きれいですが、滑りやすかったです)

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2008-11-01 22:42 | 福井藩 | Comments(2)
今回の目的は従来からあった、幕末・福井藩での出来事について「なぜ、どうして?」
と言った疑問について激しく知りたい、学びたいと言う思いでのものでした。

講演、交流会での各先生方への質問。二日目のガイドさんや「越前龍馬会」の方のご案内。
今回の「福井郷土歴史博物館」での貴重な展示等、多くの収穫を持って帰ることができました!

特に「福井郷土歴史博物館」では優れた幕末維新記録文献とされる
松平春嶽「逸事史補」 村田氏寿「続再夢記事」の原本。
西郷隆盛から橋本左内、坂本龍馬から村田氏寿への書簡など、ずっと前から見たかった資料が
一同に展示してあって、ほんと感動しました!
(ツアーの40分では足らないんで解散後にもう一度訪れ、1時間以上再度じっくり見てきました 笑)
今回わかったことを年度を追って書いて行きたいと思います。。。

「橋本左内」(以前の記事
橋本左内の「安政の大獄」での非業の死について、「逸事史補」に生々しく書かれています。

 「段々評議を遂げるのところ、さして格別の罪状もなく、さりながら罪状なしとも申しがたく
 ・・・流罪、追放、永蟄居位にて刑事伺い差し出し候ところ、老中もこの位にて然るべしとの
 評議相成り、大老掃部頭へ差し出し・・・一両日留置、なおもって附札相下げ申すべきの事
 俄かに掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中驚愕せり・・・」

判決文を大老にお伺いを出したところ、附札が貼られ「罪一等を上す」として帰ってきた一件。
井伊にとって自分の施策(開国とは何ぞや?)に一番、同調する可能性もある人物を結果、殺してしまう。
「見せしめ」だとお聞きしましたが、結果的に自らの首を絞めることになった出来事です。
(「見せしめ」でひどい事例は、敦賀での「天狗党」の一件。近世ではプロ野球の「黒い霧事件」
西鉄ライオンズの池永正明投手にも言えることでしょう)


「春嶽と坂本龍馬の出会い」(以前の記事

「逸事史補」では、やはり龍馬が岡本健三郎を伴って訪れたと書かれているそうです。
しかし、今回展示してあった村田氏寿「続再夢紀事」には
文久二年十二月五日、政事総裁職の要職にあった春嶽が江戸城より常盤橋藩邸に帰った
午後十時ごろより後、大坂近海の海防策の申し立てを土佐藩、間崎哲馬・坂本龍馬・近藤
長次郎(正式な長は凄く難しい、順は原本のまま)と対面し聞いたとありました。
確かに間崎が中心人物だったのが事実のようです・・・
しかし、政府のトップに近い人物が遅くまで仕事した後で疲れてるだろうに、翻意にしている
土佐の家来とは言え、身分がそう高いとも言えない者の意見に耳を傾ける。。。
春嶽さんは、ほんとそんな人物なんですね!


「神戸海軍繰錬所(追記・正しくは「勝海舟海軍塾」→関連記事)への五千両の出資」

講演でもありましたが、当初から「千両」と決まっていた額を予定通り借用したまでの話で
その任を龍馬が果たしたのは有名な話です。
でも十分大金ですし、福井からも藩士を多数派遣してるので期待は大きかったのでしょう!


「挙藩上洛計画の挫折」(以前の記事

この計画の際、三岡八郎や酒井十之丞と言った藩士は薩摩に行き、一部からはいい感触
をもらってます。一方、村田氏寿は薩摩の吉井幸輔や坂本龍馬らと京都で接触しています。
しかし「時期尚早」として福井へ戻ります。
結果、側近・中根雪江らの判断を受け春嶽は中止を決断します(文久三年七月)
このことはやはり親藩と言う立場の縛りが大きかったからだろうと言うことです。
後、薩摩側には福井とも縁のある西郷隆盛がいましたが、この時は「島流し」でいませんでした。
このあたりの影響もどうだったでしょうか?
結果、薩摩は会津と組み(薩摩は一つの方針にこだわらずに、いくつのかの対案を作り
うまく時局を捉えていた)のちには長州と同盟し、最後に憎悪は会津に向かうこととなります。
ここで春嶽が思いきった判断ができていたら(そちらでも厳しい。下手したら国もつぶしかねない)
のちの会津の方の恨み(京都守護職就任の経緯も含めて)もなかったんじゃないかと思います・・
[PR]
by enokama | 2008-10-28 22:27 | 福井藩 | Comments(0)