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エノカマの旅の途中

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  • 福井藩記録から見た禁門の変~堺町御門の長州兵
    [ 2011-11-22 23:57 ]
  • 福井県立図書館に行った!
    [ 2011-11-13 23:10 ]
  • 福井より
    [ 2011-11-12 20:10 ]
  • 松平春嶽公は人気ないのですが、私は擁護します
    [ 2010-11-13 22:46 ]
  • 春嶽の見た幕末
    [ 2008-11-07 22:54 ]
  • めったに行けない福井の幕末史跡 その2
    [ 2008-11-02 01:08 ]
  • めったに行けない福井の幕末史跡
    [ 2008-11-01 22:42 ]
  • 福井へ行って学んできたこと
    [ 2008-10-28 22:27 ]
  • 全国龍馬ファンの集い「越前へ行こう、春嶽に会おう」
    [ 2008-10-26 23:55 ]
  • 橋本左内 その後の福井藩
    [ 2007-07-03 01:56 ]

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2011年 11月 22日

福井藩(越前藩)に関しては藩主だった松平春嶽、その側近・中根雪江
利け者の能吏で橋本左内とも近かった村田氏寿の手によって、明治維新後に幕末の記録をまとめた
「再夢記事」「丁卯日記」「続再夢記事」と言う貴重な幕末史料があります。
今回の福井行きでは、それらの史料が図書館に開架であったので(全部で10冊ほどある)
ほしい記事が手に取って短時間で確認できコピーできたので、本当に足を運んだ甲斐が
あったなと思いました!
一番知りたくって、それも詳細に書かれているのが慶応3年の大政奉還~王政復古の流れで
こちらはじっくり読み込んで(なぜかこのことが書かれている「丁卯日記」の部分は文字が小さくて多い)
流れを知りたいと思っています。


今日はその中から、禁門の変で福井藩が護った堺町御門での戦闘の話で(関連記事→こちら
福井藩側から見たその記録です!

入江九一の最後>>

by enokama | 2011-11-22 23:57 | 福井藩 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01福井県立図書館に行った!semスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 13日

土日とフリーになるのを確認して
思い立って久しぶりに福井に行ってきました!

歴史(幕末)ブログやりだしてから、正直これだけ批判される藩だとは思わなかったんだけど
武士道と打った士族側の精神論で語る評価と
領民を思いやることと、国を富ますことに重点に置いた施策の評価では
絶対的な見方が違うのです。。。
書物としては絶対に前者が語られることが多いですしね。

僕の歴史研究の原点は福井なので、ずっと拘って行きたいし
もっと発信して行きたいんです。


もっと見る>>

by enokama | 2011-11-13 23:10 | 福井藩 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01福井よりsemスキン用のアイコン02

  

2011年 11月 12日



福井にきてます!
それにしてもまだ冷え込みませんね。。。
もう店は閉まりかけているので宿に戻ります。
明日、雨が降りだしそうなので、早めに起きて行動するつもり!

by enokama | 2011-11-12 20:10 | 福井藩 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01松平春嶽公は人気ないのですが、私は擁護しますsemスキン用のアイコン02

  

2010年 11月 13日

例の「東大教授・山内昌之」のコラムです。
相変わらず前半は民主党批判で、後半は今の政治家と照らし合わせて
幕末の人物を通した現在の指針を説きます!

まあ、今の政治家と幕末当時の文字通り「命をかけて、国を思い憂いた志士や人物」との対比は
悪いけど先人に失礼なレベルですよね。そんな大物はおらん・・・
このコラムの人物論は普通に人気のある人は持ち上げ、人気のない人はとことん貶めます。。。
まあ、そう言った構成がクレームもないだろうし、無難なんでしょうけど。

でも、そんな固定観念に捉われたとしたら「歴史の再評価」ってものには何もつながりません。
僕もちょっと偉そうに言わせていただくと「悪いと思われている人のいい所を見つける」
「本当のその事項について貢献した人物を発掘したい」
ってことを知りたいと思い、いろいろ調べているのです!

こう言った新聞に連載され、ブログにもよく「いい話だ」として引用されることは
いつまでたっても「悪い奴」は「悪い」として、ずっと伝えられて行くことになるのです。
本当に悪い人で伝えられてきて、実は誤解だったと言う例は結構あるし
それが従来の史観に捉われることで、公にされないこともあります・・・
だから僕は敢えて、逆の方向で引用するんです(前回の批評→こちら

春嶽や福井藩については15年ほど前から、興味持って知っています。
この山内(中村彰彦)ラインの会津史観については、わずか3年ほど前からしか調べていません。
それを知った順番が逆だったとしたら、多くの人と同じような思いを持ったかもしれません。
それを理解していただきたいと思います!

今回の内容>>

by enokama | 2010-11-13 22:46 | 福井藩 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01春嶽の見た幕末semスキン用のアイコン02

  

2008年 11月 07日

ツアーは橋本左内生誕地・墓所、橘曙覧の庵・藁屋(わらや)跡などを回り
郷土歴史博物館へ。。。(過去記事

「松平春嶽をめぐる人々」
と言う特別展だったが、これがとても凄いもので


徳川斉昭
尊皇の意思や、藩主になる際の心構えを教わる。切り詰めることはしても、        
投資するべきは惜しまずに行え(神戸繰錬所への投資もここから来ている)
ただし、当初水戸学に傾倒していた横井小楠同様、しだいに疑念を感じ
「開国(攘夷不可)」「実際に役立つ学問の奨励(実学)」へと路線を変えて行く。
ただし、世子である最後の将軍・慶喜には幕府崩壊、その時まで支え続けることとなる。

阿部正弘
ペリーの黒船来航に際して、朝廷や外様・親藩大名にまで意見を求め「挙国一致」を初めて図った人物。
朝廷より「和宮降嫁」の動き、水戸(徳川斉昭)薩摩(島津斉彬)土佐(山内容堂)
そして春嶽と幕政へ発言者が増え、従来の幕府の専断政治は終わりを告げる。
この動きによって、世間に「世界情勢と危機意識」を植え付け、先進的な藩では藩政・軍政改革
や海防対策に乗り出すこととなる。
春嶽の「身分にこだわらない、有能な人物の登用」と言う精神はここにあったのかもしれない。
しかし、彼の死後は従来の保守派(譜代大名)との対立が起こり「安政の大獄」で有為の人物
が多数、犠牲となってしまう。

徳川家茂
後見人的存在で、将軍を支えた。家茂も春嶽を父のように慕った。
(でも結果的に春嶽は逃げてしまい、批判する人が山のようにいますが・・・)
期待も大きかったが若くして亡くなってしまう(この時の模様の書簡・家茂肖像画写真)

勝海舟・坂本龍馬
勝も阿部正弘によって抜擢された人物で、大久保一翁・斉彬・容堂・伊達宗城(宇和島)
らの開明的な改革派(一橋派)の一人となり、春嶽も盟友の一人となる。
のち、海防の急務を悟り東西海軍局構想として「神戸海軍操練所」を設立。
         
坂本はよき片腕となり、日本初の本格的海運株式会社とされる「亀山社中」と繋がっていく。
ちなみに勝海舟の弟子ではあるが、幕府要人との初めての対面が春嶽の可能性が高く
次々に当時の先覚的な人物を紹介し「幕末の英雄」と言われる人物の下地ができた。
春嶽も終生、彼の最大の支援者となり、坂本も春嶽の「理想社会」の良き理解者で、
その実現に向け奔走するが、明治の世を見ることなく暗殺されてしまう。

その他、こちらもなぜか?馬のあった盟友・山内容堂。
大政奉還を最初に提案した大久保一翁。

「和宮降嫁」のころより、春嶽に一目置いていた岩倉具視。
「王政復古」では対立の関係となるが、その人物もあって、まだ平和裡に終わらされたのかもしれない。
彼らの実力を高く評価して、横井小楠・由利公正の新政府登用を勧めたのも岩倉。

福井との縁のある西郷隆盛。単身、福井を訪れたことのある大久保利通。


以上、紹介した人物のゆかりの品がすべて展示してありました。。。
これもすべて館蔵(複製はほとんどない)なんだからびっくりです・・・
人脈もかなりのものですが、こんなお宝が残ってるんですから。
幕末の記録も、春嶽・中根雪江・村田氏寿らによって膨大な量が残されているので
まだまだ、隠された事実も出てくるかもしれません。
しかし、春嶽は死の直前にその記録すべてを「燃やしてしまえ」と指示したそうです。。。
(結局、子息に渡された)
その思いもなんだかわかる気がします。


残念ながら、明治新政府は春嶽の見ていた理想社会とはかけ離れてしまった側面もありました。
「挙藩上洛計画」がうまく行って主導権を取れていたなら・・・
後には薩摩の島津久光がそうであったように、もうこの討幕の仕上げには殿様の出る幕
が無くなっていた・・・その西郷・大久保に値する人物はいなかった。
もしは禁句だが、橋本左内が存命であればその位置にいたのかもしれない。

しかし、彼は揉め事の仲裁に当たった話は数多く残っている(長州・土佐の梅屋敷事件もそう)
その例に見られるように、調整能力・敵対勢力や身分にこだわらず話を聞く姿勢は
数々の諸問題が山積した中で、円滑に事を運ぶ重要な役割も担ったのだと思う。
もっと評価され、もっと語られてもおかしくない人物です!


最後に彼の壮年期の作とされる詩を・・・

「我に才略なく、我に奇なし、常に衆言を聴きて宜しき処に従う。
人事すべて天道の妙の如し。風雷晴雨予め期すること難し」

by enokama | 2008-11-07 22:54 | 福井藩 | Trackback | Comments(2)

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2008年 11月 02日

橋本景岳(左内)先生 肖像画

何ヶ所かで飾ってあったんです。
これだけでも、どれだけ慕われて尊敬を集めていたのかが、わかります!
同じ画があったら(複製でいいんだけど)ぜひ欲しいのですが・・・

もっと見る>>

by enokama | 2008-11-02 01:08 | 福井藩 | Trackback | Comments(2)

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2008年 11月 01日

10月26日
バスで幕末史跡めぐりに参加。。

丹厳洞(たんがんどう)

福井市街地の西側2キロほどのところ。
当時、福井藩の藩医だった山本瑞庵が薬草園を開くべくこの地(笏谷・・・しゃくだに)を訪れ(1864年)
静かな環境を気に入り、庵を立て丹厳洞(洞は山の懐ろの意)と名付けた。

土蔵造りの二階建ての庵は当時のままで、現在は同地で料亭を経営されている方が管理されていて
事前に連絡の上で、見学をさせていただくようになっているようです。
画像は笏谷石の洞と庭園で、洞内は祠となっていました。
この庭にも、かなり古い松平春嶽像がありました。

笏谷石は古くからの福井名産の足羽山麓で産出された石で、青緑色の良質の凝灰岩
です(きれいですが、滑りやすかったです)


もっと見る>>

by enokama | 2008-11-01 22:42 | 福井藩 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01福井へ行って学んできたことsemスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 28日

今回の目的は従来からあった、幕末・福井藩での出来事について「なぜ、どうして?」
と言った疑問について激しく知りたい、学びたいと言う思いでのものでした。

講演、交流会での各先生方への質問。二日目のガイドさんや「越前龍馬会」の方のご案内。
今回の「福井郷土歴史博物館」での貴重な展示等、多くの収穫を持って帰ることができました!

特に「福井郷土歴史博物館」では優れた幕末維新記録文献とされる
松平春嶽「逸事史補」 村田氏寿「続再夢記事」の原本。
西郷隆盛から橋本左内、坂本龍馬から村田氏寿への書簡など、ずっと前から見たかった資料
が一同に展示してあって、ほんと感動しました!
(ツアーの40分では足らないんで解散後にもう一度訪れ、1時間以上再度じっくり見てきました 笑)
今回わかったことを年度を追って書いて行きたいと思います。。。

「橋本左内」(以前の記事
橋本左内の「安政の大獄」での非業の死について、「逸事史補」に生々しく書かれています。

 「段々評議を遂げるのところ、さして格別の罪状もなく、さりながら罪状なしとも申しがたく
 ・・・流罪、追放、永蟄居位にて刑事伺い差し出し候ところ、老中もこの位にて然るべしとの
 評議相成り、大老掃部頭へ差し出し・・・一両日留置、なおもって附札相下げ申すべきの事
 俄かに掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中驚愕せり・・・」

判決文を大老にお伺いを出したところ、附札が貼られ「罪一等を上す」として帰ってきた一件。
井伊にとって自分の施策に一番、同調するだろうと思われる人物を結果、殺してしまう。
「見せしめ」だとお聞きしましたが、結果的に自らの首を絞めることになった出来事です。
(「見せしめ」でひどい事例は、敦賀での「天狗党」の一件。近世ではプロ野球の「黒い霧事件」
西鉄ライオンズの池永正明投手にも言えることでしょう)


「春嶽と坂本龍馬の出会い」(以前の記事

「逸事史補」では、やはり龍馬が岡本健三郎を伴って訪れたと書かれているそうです。
しかし、今回展示してあった村田氏寿「続再夢記事」には
文久二年十二月五日、政事総裁職の要職にあった春嶽が江戸城より常盤橋藩邸に帰った
午後十時ごろより後、大坂近海の海防策の申し立てを土佐藩、間崎哲馬・坂本龍馬・近藤
長次郎(正式な長は凄く難しい、順は原本のまま)と対面し聞いたとありました。
確かに間崎が中心人物だったのが事実のようです・・・
しかし、政府のトップに近い人物が遅くまで仕事した後で疲れてるだろうに、翻意にしている
土佐の家来とは言え、身分がそう高いとも言えない者の意見に耳を傾ける。。。
春嶽さんは、ほんとそんな人物なんですね!


「神戸繰錬所への五千両の出資」

講演でもありましたが、当初から「千両」と決まっていた額を予定通り借用したまでの話で
その任を龍馬が果たしたのは有名な話です。
でも十分大金ですし、福井からも藩士を多数派遣してるので期待は大きかったのでしょう!


「挙藩上洛計画の挫折」(以前の記事

僕はなぜこの時、薩摩と連携できなかったのか聞いたのですが、島津が斉彬→久光と
代替わりした際に、それまであった春嶽・福井藩とのトップレベルの縁は切れたようです。
この計画の際、三岡八郎や酒井十之丞と言った藩士は薩摩に行き、一部からはいい感触
をもらってます。一方、村田氏寿は薩摩の吉井幸輔や坂本龍馬らと京都で接触しています。
しかし「時期尚早」として福井へ戻ります。
結果、側近・中根雪江らの判断を受け春嶽は中止を決断します(文久三年七月)
このことはやはり親藩と言う立場の縛りが大きかったからだろうと言うことです。
後、薩摩側には福井とも縁のある西郷隆盛がいましたが、この時は「島流し」でいませんでした。
このあたりの影響もどうだったでしょうか?
結果、薩摩は会津と組み(薩摩は一つの方針にこだわらずに、いくつのかの対案を作り
うまく時局を捉えていた)のちには長州と同盟し、最後に憎悪は会津に向かうこととなります。
ここで春嶽が思いきった判断ができていたら(そちらでも厳しい決断ですが)
のちの会津の方の恨み(京都守護職就任の経緯も含めて)もなかったんじゃないかと思います・・

by enokama | 2008-10-28 22:27 | 福井藩 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01全国龍馬ファンの集い「越前へ行こう、春嶽に会おう」semスキン用のアイコン02

  

2008年 10月 26日

幕末期、維新後の新政府の先取りをしたような、先覚的な藩政を行った福井藩。
また、個性的な藩士たちが大好きで、僕はこのブログでも再三取り上げています。

今回は第20回を数える「全国龍馬ファンの集い」が坂本龍馬とのつながりも
深い福井で行われると言うことで
「京都龍馬会」さんにお世話になりまして、行かせていただきました!

昨日、土曜日は午後から2部構成で、高知市の岡崎市長や、長崎で福井藩の海外貿易に
深くかかわりをもった小曽根家十七代目当主・吉郎氏ら、ゆかりの深い方々の出演による
シンポジウムで興味深いお話を聞きました。
夜は交流会で、松平春嶽公の子孫で二十代目の当主・宗紀氏。福井藩関連の書籍を多数
執筆されている舟澤茂樹さんとも直にお話を聞かせていただき、貴重な時間を過ごすことができました!

今日、日曜日はバスツアーに参加して、個人ではなかなか行き難い「丹厳洞」(たんがんどう)
や福井松平家の菩提寺・大安禅寺(だいあんぜんじ)など、松平家や藩士たち(橋本左内、
中根雪江、由利公正、笠原白翁、橘曙覧、横井小楠)のゆかりの地を訪ねてきました。

福井を十分満喫して、とても有意義な二日間でした!
(また、少しずつ記事アップしていきます)

趣向をこらした楽しい企画をされた「越前龍馬会」を中心とする実行委員会の皆さん。
今回、連れってていただいた「京都龍馬会」のみなさん(26日の私の行動が伝わって
なくって、すみませんでした。前日に何名かの方にはお話したつもりだったんですが
酒席のことだったんで・・・)
ご一緒した大阪・高知・梼原・金沢・・・の各龍馬会の皆様。
他、中岡慎太郎をかなり評価して熱く語っていただいた方や、大村益次郎の墓所(山口・小郡)
について、教えていただいた方(すみません、名前失念してしまいました)
日曜のガイドをしていただいた歴史ボランティア「語り部」の山下さん。
ありがとうございました!

また、連絡先いただいた方にはメール入れさせていただきます。
酒席での交換で、私もほとんど名刺が渡せていないんで、誰かな?と思われるかも
しれませんが
・講演の最後で「挙藩上洛計画」の質問をした。
・交流会は京都・大阪の席にいました。
・たばこ屋旅館の二次会で大阪の方と一緒にいました。
また、良ければ今後とも交流お願いします!


本文とは関係ありませんが10月26日は私の誕生日でした(帰って思い出しました 笑)
プレゼント・メール送っていただいた方、ほんとにありがとうございました!
今日はいい誕生日となりました。。。

by enokama | 2008-10-26 23:55 | 福井藩 | Trackback | Comments(4)

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2007年 07月 03日

何回かに分けて、実際に福井に行って感じたことを、書籍も確認
しながら書いてきました。
ここでまとめとして、終わりたいと思います。

左内がもし維新まで生きていたらと考える。
藩主・春嶽は佐内の死後、活動が消極的になったと言う人もいる。
島津斉彬の存命中は薩摩ともかなり、経済的にも(貿易等)密接な関係だったし
井伊以前の幕府首相格の阿部正弘を交えた幕政改革「雄藩連合」で挙国一致
の流れもあった。
挙藩上洛計画も左内がいたら、うまく薩摩と連携して行動でき、福井藩も十分
薩長土肥に並ぶ、時勢に乗れていただろう。

これだけ人材のいた藩でも新政府では、由利公正(三岡八郎が維新後、改名)
あたりが活躍しただけだった(由利も結局、ほどなく解任される)
小楠の唱えた「公議興論」(身分に関係なく能力のあるものを採用する)もあり
藩政でも、春嶽の人材登用は目の見張るものがあった。しかし、新政府の藩閥
政治の前に、福井藩の主張はならず退潮を余儀なくされた。
結局、一連の討幕の動きでの勝ち組だけの政府に近くなり、敗者からの人材の
登用はほとんど見られなく(例外的に薩摩の黒田清隆だけは戊辰戦争の敗者を
うまく、採用した実績はあった)専政化が進み「富国」「強兵」の二つのみが一人
歩きをして「富民」や「士道論」と言った点は見逃されがちとなった。
司馬遼太郎も書いているが、そのあたりが悲惨な第二次大戦での体験に、つな
がったことも多かっただろう。

春嶽は維新後は一貫して、執筆活動に入って(また、数多くの書を残していて僕
自身も大野や三国と言った所でも見ています)膨大な史料として残ってるとの
ことである。
彼は明治の政府をどう見ていただろう。親藩と言う立場でもありながら、数々の試
みは評価できるだろうし、優柔不断ではなく、むしろ姿勢は一貫していた。
もっとその経験を新政府で生かされる場があったらと思うし、良くなる点はあっても
悪くなる点はけっしてなかっただろう。彼や小楠の構想していた「理想の国家像」
とは、かけ離れたものになっていたのが現実だった。

しかし経済論、民政面に関しても幕末の福井藩の動きは、今の時代にも十分に参
考になる、出来事だったと思います。

by enokama | 2007-07-03 01:56 | 福井藩 | Trackback | Comments(2)