エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 72 )

佐賀城・西の濠
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天守台など一部を除いて土塁作りで、全体に平坦な作りの城郭。
その代わり四方(東の濠は埋め立てられた)の濠は幅広く広い池のようだ。

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by enokama | 2009-09-24 23:27 | 歴史連載 | Comments(0)
五月の各地の史跡めぐり、あと1シリーズお付き合いください!
(前回の下関編、全体に加筆しましたので再度ご覧いただけたらうれしいです)

この佐賀散策は行程の都合上、1時間40分ほどでレンタサイクルで回ってきました。。。
佐賀城本丸歴史館や大隈重信記念館なども、じっくり見学したかったんですが
今回は石碑や町並みと言った城下町の散策を中心に行ってきました!
説明はまだ佐賀は勉強不足なんで(苦笑)画像の看板の説明書きも合わせてごらんください!

神野公園(市街地の西北。歩いたら佐賀駅から30分ぐらいかかりそうで、バスも不便)
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江藤新平のゆかりの地と墓所>>
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by enokama | 2009-09-15 23:42 | 歴史連載 | Comments(0)
今回、鞆に絶対行きたいとは最初考えてなくって、候補の一つにはしていたんですが
日程的に山口だけに絞った方が楽かなとも思って
袖解橋や湯田、鋳銭司あたりに行こうと(所さんの本墓もあるし・・・)決めかけていたんですが
「山口の史跡はずっと残るだろうけど、鞆は早いうちに行ける時に行っておいた方がいい」
ともいろんな方にアドバイスもいただいて、鞆に行くことにしました。
(結果的に今年の間に行けて、本当によかった)

鞆のメインストリート
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散策にはいい町だなと見えます。
整備された宿場町とかだったら車の乗り入れができなかったり、電柱もなかったりするんですが
ただし、こちらの道には車がたくさん通ります。一方通行にもなってません・・・(離合も困難)
そう、観光するのだったらバイパスさえ整備されていれば、そちらに生活車両が流れるので
安心してゆったり散策できるものです。
しかし、ここには今も住民の生活が残ってます。「○○家住宅」って他の地区だったら、観光用に
改装して見せたりするものですが、残っている江戸・明治期の住宅も、まだその多くが現役なのです。
メインストリートでさえ、この道幅にすぎず、江戸時代の古地図がまだすっぽりあてはまります。
それが「鞆」と言う港町です・・・
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by enokama | 2009-06-25 21:39 | 歴史連載 | Comments(4)
鞆は寛文12年(1862)に河村瑞賢が西周り航路を整備してから、北前船などの商船も立寄るようになり
商家が立ち並び、隆盛をきわめた。
(庄内・酒田に銅像があったように、河村瑞賢と言う人は江戸時代の港には必ず話が出てきますね。
また、機会があれば調べたいです)
また、鎖国の時代の「朝鮮通信使」「長崎・オランダ商館長の江戸参府」も必ず、ここに立ち寄り
海外の文化も入ってきた。

福禅寺(向こうに見えるのも、古刹の円福寺)
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by enokama | 2009-06-24 21:33 | 歴史連載 | Comments(5)
5月28日(木)
新大阪6:50発のひかりで、福山には8時に到着。
目的は、かつて賑わいを見せた港町・鞆の浦で
往時は潮待ち・風待ち(潮の流れが変わる地点であり、満ち引きのタイミングを利用して船は航行していたため)
の地として、必ず瀬戸内を航行する船舶は停泊し、商家が軒を連ね、独特の天然の円形港湾にはかつての
常夜燈・雁木・波止場と言った当時の港湾施設等が、今も手付かずで残っています!

最近は「坂本龍馬・いろは丸談判場所」として
ガイドブックには必ず載るほどの龍馬のゆかりの場所として知られ、その関連の住宅・寺院は
ほぼ当時そのままの姿で残っている場所であります。
また中世には、政治の地となっていた時期があり(福山に移るまで)その流れを汲む古寺も
多数残っています。
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by enokama | 2009-06-23 23:55 | 歴史連載 | Comments(4)
歩いて楽しい龍馬通り(ブーツ像)
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>>鳴滝塾跡(シーボルト記念館)
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by enokama | 2009-06-09 23:26 | 歴史連載 | Comments(0)
2日目は龍馬ゆかりの地を訪ねます!
風頭公園→亀山社中→<龍馬通り>→シーボルト記念館(鳴滝塾跡)と歩きます。。。

このコースを路面電車から降りて、風頭山に登っていく行程だと、ほんと「山登り」になって(結構急坂)
しまうのですが、今日はバスで風頭の山上まで連れて行ってもらって(路線バスも入っている)
ひたすら下りて行く一方ので、比較的楽に回れます!

港が見下ろせる
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昨日から散策している所は、ほとんど寺町でお墓をたくさん見ることになったんですが
長崎は、写真の様な中国っぽい異国風の物や(やや派手さがある)墓標の文字が赤かったり
墓の周りの仕切りの入り口に、家に入るような苗字を書いた「表札」があったり、特徴がありました。
このあたりには上野彦馬の墓もありました。。。

>>龍馬像から亀山社中へ
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by enokama | 2009-06-08 23:11 | 歴史連載 | Comments(4)
長崎港の集合場所に合流。
今回はさすがに「龍馬人気」なのか、定員一杯の42名!
去年の西郷さんとは、少し年齢層が違って若い人が多かったです

まずは「出島」に向かいました。
以前、行った時は完全に埋め立てられた風情で「残ってるのは地名だけやん」って
わずかに地形に面影が残ってるのを感じたぐらいしか、印象が残ってないんですが
「出島復元計画」(→ココ)ってのが、進んでいるのはまったく知りませんでした・・・
ゆくゆくは四方に水路を通して、完全に扇形の「出島」を長期計画で復元するようです。

函館・五稜郭の「函館奉行所復元計画」などの例もありますが、最近の各地の歴史文化遺産への
取り組みは目の見張る物がありますね・・・
「開発一辺倒」からの政策転換でしょうが、これからの変化が楽しみです。
さすがにバス停車のスペースも確保されていて「ツアーでも寄ってください」ってことでしょうね。
この後訪れた場所でも感じましたが、準備は進んでいるな。。。

1636年に鎖国政策(異教禁止)の一環として出島完成。
1641年のオランダ商館の平戸からの移転後(→過去記事)後、江戸時代218年間、鎖国日本の唯一の海外への窓口
(従来の史観。今は長崎以外の交易もあったと教科書でも改められている)としての使命を担いました・・・
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by enokama | 2009-06-04 22:25 | 歴史連載 | Comments(2)
順番は入れ替わりますが、先に長崎の報告をします!
こんな新聞記事も載りましたので、ご覧ください→(長崎新聞ウェブサイト

長崎を個人的に旅行するのは15年ぐらいぶりになるかもしれません・・・
それこそ「竜馬がゆく」を読んで、歴史に興味が湧いてきたころでした。
グラバー園には、そのころ「グラバー邸」内のテーブルを囲むように、グラバーと海援隊・近藤長次郎が
長州の伊藤俊輔・井上聞多との会談の様子を再現した人形が置かれていたのが印象に残っています。
シーボルトの「鳴滝塾跡」(資料館は、まだなかったかもしれない)に行った後、寺町の急な階段を登って
残っているとは思わなかった「旧亀山社中」の建物に入って、龍馬がよくもたれていたと言われる柱
で写真も撮っています。
まだ、今ほど知られていなかったのかゆっくり見学できて、港の眺望も十分できていたころでした。

その後は添乗の仕事で幾度も訪れています。
バスとなるので、寄れるのは(バス駐車場のある)グラバー園・平和公園・眼鏡橋が定番。泊まりは稲佐山。
今回はそう言ったツアーでは行けない、史跡を実際に歩くコース(→行程)となるので楽しみにしてました!

「白いかもめ」で長崎入り
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シートが革張りでびっくりした!

長崎駅
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すごく変わったな・・・
それにしても駅は観光客が多かったです。
観光案内所にも立寄りましたが「龍馬伝」のパンフがたくさんあって、長崎は力が入っています!

路面電車で集合場所へ・・・
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by enokama | 2009-06-03 23:41 | 歴史連載 | Comments(2)
乾十郎宅跡(櫻井寺南)
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櫻井寺南の国道24号線を挟んだ一つ目の通りに碑があるが、当時の寺域はかなり現在より
大きくて、門前にあたる場所に住んでいた。

天誅組の地元・五条出身者の中に乾十郎がいる。
司馬遼太郎の短編にもなっているが奇人だったらしく、早くから代官所を襲う思いがあったとかないとか・・・
梅田雲浜にも学んだ憂国の士で(神戸にいたころの勝海舟や坂本龍馬との因縁もあったらしい)
地元を流れる吉野川の分水路計画を立てたり、吉野の木材運搬にかけられる税金問題など
領民側に立った行動もあり、このこともあって反幕尊王の意を強くしていったのかもしれない。

天誅組の結末>>
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by enokama | 2008-08-27 00:10 | 歴史連載 | Comments(0)