エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 67 )

今日は一次資料を読むのではないので、久しぶりに地元の図書館へ。
歴史書でも「吉川弘文館」の専門書が思ったよりあったし、開架で新しい書籍も見られるので
購入前のチェックとして十分、使えそう!

本当は加治将一の本を、もう一回しっかり読んでおきたかったんだけど
残念ながら所蔵なし・・・
代わりと言ってはなんですが、このテーマ(近江屋事件)で気になっていた書籍をチェックしてきました。

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by enokama | 2012-09-08 21:06 | 歴史連載 | Comments(2)
北川村の中岡慎太郎先生顕彰会から便りが届きました!

今年の北川村での墓前祭は命日(11月17日)と違って、少し早く10月28日(日)に行われます。
17日にも墓前には祭壇がもうけられます。
京都の墓前祭は11月15日(今年は木曜日)で例年通り、北川村の軍鶏ナベがふるまわれます。

また「顕彰会便り」の記事では例のBSの番組(→こちらこちらこちら)への異議が書かれています。
番組の流れを唐突に断ち切るような、ラストでの強引な加治将一の結論(おそらく本の宣伝のため)は
取材にも協力した村民のみなさん、VTR制作で村での十分な考証を経た現地ロケスタッフとの信頼も
壊してしまったかと想像されます。
おそらく厳重な抗議もされたでしょうが、具体的な謝罪も加治本人からされるべきです。
「フィクション作家」の仮説だけで語るような解説者を起用したTBSも「ドキュメンタリー」のカテゴリとしたら
やってはならないことです。
おそらくこの番組自体が「総集編」の連続となっているので、もう今月には打ち切りかと思われます。
TBSは地上波の歴史番組や、お得意の他局パクリ番組群もこの秋で多くが終了となります。
いつぞやの「会津若松城」騒動でも物議を醸しだしましたが
もうこの局は見るべきものはありません、理性のかけらもテレビマンのプライドもないのでしょう。

検証>>
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by enokama | 2012-09-06 23:35 | 歴史連載 | Comments(0)
河上弥市らは北部からの豊岡・出石藩の攻めに備えて
生野から八キロ北の山口・妙見山に本陣を構えた。
元々城跡である岩洲山だが、山頂に妙見堂の祠があるので、地元住民からは「妙見山」と呼ばれていた。
ここに大石を運び上げ、大砲を引き上げ、水・兵糧を蓄えて麓の兵たちを狙い撃ちするべく、陣を築き上げた。

代官所から出た一行が一旦入った西念寺(この後、妙見堂に入る)
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国道312号線から少し入った山口護国神社のバス停
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by enokama | 2012-04-01 10:25 | 歴史連載 | Comments(0)
生野銀山を擁する生野は幕府天領として、また但馬の玄関口として栄えたところ(→詳しく

当時の掛屋(両替商のような場所)や宿屋の一部は当時のままに残されています!
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by enokama | 2012-03-31 22:45 | 歴史連載 | Comments(2)
第一回大会議のころ、京にあった北垣国道は
八一八政変と大和五條の挙兵に苦慮する長州人らと協議を重ねていた。
窮地に追い込まれた在京長州人からは、一日も早く「大和義挙」の応援を図るべきと
農兵を利用した「但馬義挙」の提案がされ、すでにその意思を持った平野国臣は但馬に下っていた。
北垣は「一年は農兵の養成にあてたい」との意見を述べ、但馬有志の大勢も同様だったが
のちに押される形で「烏合の衆」とも言える未調練で寄せ集めの強引な農兵の招集は、その杞憂の通り
「まったくの瓦解」と北垣が述懐するほどの失敗に終わったのである。

九月十九日の第二回大会議では早くも大和義挙に呼応した「挙兵」と決し、平野・北垣らは長州の同志
獲得のため長州に赴くこととなる。

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by enokama | 2012-03-30 23:43 | 歴史連載 | Comments(0)
薩摩出身で美玉三平と言う男がいた。
江戸の昌平黌にも学んだが、清河八郎らの「虎尾の会」に名を連ねて、過激な尊王攘夷活動に入り
薩摩でも強硬な一派だった有馬新七、大山綱良らの画策した
長崎での外国人襲撃計画(未遂に終わる)にも関与していた。
有馬らが上意討ちされた寺田屋騒動では捕われの身となったが江戸へ逃亡し
文久3年(1863)3月に但馬の地へ逃れ、中島太郎兵衛・太田六兵衛らの豪農層と知り合い意気投合し
能座の北垣国道宅にも匿われ、ここで三条実美にあてた農兵組織の建白書を認め
五月下旬、北垣と共に上洛する。

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by enokama | 2012-03-13 23:16 | 歴史連載 | Comments(2)
文久3年(1863年)3月に平野国臣は釈放された。
平野についてはエピソードも多いんで、別口で調べてみたいとも思ってるんですが
福岡藩「筑前勤王党」の首魁・月形洗蔵の考えも「土佐勤王党」の武市半平太と同様に
「挙藩尊王」と言った、あくまで藩を軸とした組織だった行動であり
文久~元治と言った時期に、各地で多くの尊攘志士が倒れ、命を落とした中でも
その勢力は比較的温存され、窮地に至った長州救済~薩長同盟へと重要な動きを示した。

そんな中で早くから脱藩を繰り返した平野は異端な存在とも言え、大藩・薩摩を「公武合体論」から
「尊王攘夷」へと動かそうと、薩摩脱藩士・伊牟田尚平らと盛んに暗躍し
西郷隆盛には勤王僧・月照の保護を依頼されるなど、信頼関係にもあった。
思想的には彼の論文から見ても「討幕」の態度を早い時期から鮮明に示したものであり
先鋭的な活動家で、幕府側から見れば最も警戒すべき人物の一人であった。

挙兵へ>>
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by enokama | 2012-02-22 23:18 | 歴史連載 | Comments(0)
いわゆる「討幕」って言う気運がいつから具体化したっていうのは
それぞれ議論はあるだろうし今回の中村武生氏の本でも、いろんな解釈で触れられていて
興味深かったんですが、僕としては慶応三年の四候会議の後かなと思っています。
「薩長同盟」は薩摩から言えば、幕府とも一線を画して独立性を保ち
その再度の勢力増長を警戒しながら、有力雄藩との連携による動きも引き続き模索し
と言えばきれいに聞こえるけど、ある意味どの勢力とも組むことができるフリーハンドな立場を求めていた
面もあったかと・・・まあそれが「したたか」って言われる所以でもあるけど。
幕末の薩摩は西郷・大久保の主導って思われがちだけれども、慶応3年10月に「討幕の密勅」が出て
藩論を以て挙藩出兵が実現するまで、完全に藩を掌握できる立場にはなかったんじゃないかと思う。
ずっと公武合体で来た両高崎らの勢力や、もちろん幕府寄りの保守派もあって、一致した藩論ってのが
この時まで出すのにいたらなかったのだ。

藩主でもない島津久光が藩政を掌握した際に「精忠組」を懐柔して取り込んだ時に
個人行動(突出したテロ活動等)は止して、藩ぐるみで行動すると言い納得させたと伝わるが
その過渡期にあったのが、文久二年(1862年)のいわゆる「寺田屋騒動」に至る動きだった。
年明け早々に和宮降嫁を推進し「公武合体」を推し進めた幕府老中・安藤信正が江戸城坂下門外で
水戸藩士に襲撃され失脚するなど、井伊暗殺で世が動いた事実から「天誅・テロ行為」が幕府に対して
尊王・攘夷を迫る手段として最も激化した時期であった。

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by enokama | 2012-02-21 23:12 | 歴史連載 | Comments(0)
天保13年(1842)朝廷の長年の宿願であった、公家子弟への教育機関「学習院」が創設される。
教育内容は一般的な儒学(朱子学・陽明学)・国学と言った学校であったが
桜田門外の変後、再び直接深く朝廷と結びつこうとした、諸藩との折衝の場としての役割も持ってきていた。
「安政の大獄」は幕府の許可なしに、諸藩が朝廷から勅命を以て幕政改革を図ろうとする勢力を弾圧
再び幕威を高めようとする側面もあったが(元来の「法度」の遵守と言う面で、一方的な弾圧とは取れない)
井伊直弼の死により「尊王思想」また、孝明天皇を始めとする朝廷の大多数を支配する「攘夷論」と
結びついた「尊王攘夷派」が京都を中心において、さらに台頭してきた。

この勢力は「学習院出仕」と言う名目で名だたる志士たちが集結し
学習院内は「尊攘派」によって固められ、中下級の公家たちにも彼らに感化され、同調した行動を取るものが現れた。
その代表的な尊攘派公卿が三条実美、姉小路公知。その周囲には久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣と言った
そうそうたる尊攘志士メンバーがいた。
(八一八政変後、三条ら「七卿」は長州三田尻に落ち、そちらが一時的に拠点となった)

久坂は文久2年終わりごろから学習院に出仕し、朝廷内での尊攘勢力拡大を目指す一方で
翌3年2月になって、久坂らは「航路遠略策」を掲げた政敵とも言うべき、長井雅楽を切腹に追い込み
長州藩論を「即今攘夷」に向かせ、学習院はそれらの志士に牛耳られていた現状だった。

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by enokama | 2012-01-19 23:13 | 歴史連載 | Comments(2)
北垣国道(当時は晋太郎) は7歳の時から、八鹿町宿南(現養父市)にあった青谿(せいけい)書院の
儒学者・池田草庵に入門する。
草庵は荻生徂徠の流れを受けた、古文辞学派の儒学者・相馬九方に18歳で上京し入門。
のち京都一条に塾を開き、30歳になって故郷に帰り、天保14年(1843)35歳の時、この地に塾を開く。
草庵は佐藤一斎の影響を受け、朱子学と実学を重んじた陽明学を教えた。
福知山藩や豊岡藩学校でも教鞭を取って、全国各地30か国から延べ673人の門人を集めたと言う。
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建物は二階建で、二階が塾生の宿舎、一階が草庵の居室とされ、当時の貴重な遺構が残っている。
(屋根は老朽化のために葺き替えられている)
隣接して資料館があって僕が行ったときは、ちょうど横のお住まい(池田さんで子孫の方だとか)
に管理人さんがおられたので開けていただき、見ることができました。
中には1153点にも及ぶ県指定文化財が管理されています。
著名な儒学者との書簡が多数、展示されていました。
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農兵構想>>
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by enokama | 2012-01-18 23:58 | 歴史連載 | Comments(0)