エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 69 )

北川村の中岡慎太郎先生顕彰会から便りが届きました!

今年の北川村での墓前祭は命日(11月17日)と違って、少し早く10月28日(日)に行われます。
17日にも墓前には祭壇がもうけられます。
京都の墓前祭は11月15日(今年は木曜日)で例年通り、北川村の軍鶏ナベがふるまわれます。

また「顕彰会便り」の記事では例のBSの番組(→こちらこちらこちら)への異議が書かれています。
番組の流れを唐突に断ち切るような、ラストでの強引な加治将一の結論(おそらく本の宣伝のため)は
取材にも協力した村民のみなさん、VTR制作で村での十分な考証を経た現地ロケスタッフとの信頼も
壊してしまったかと想像されます。
おそらく厳重な抗議もされたでしょうが、具体的な謝罪も加治本人からされるべきです。
「フィクション作家」の仮説だけで語るような解説者を起用したTBSも「ドキュメンタリー」のカテゴリとしたら
やってはならないことです。
おそらくこの番組自体が「総集編」の連続となっているので、もう今月には打ち切りかと思われます。
TBSは地上波の歴史番組や、お得意の他局パクリ番組群もこの秋で多くが終了となります。
いつぞやの「会津若松城」騒動でも物議を醸しだしましたが
もうこの局は見るべきものはありません、理性のかけらもテレビマンのプライドもないのでしょう。

検証>>
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by enokama | 2012-09-06 23:35 | 歴史連載 | Comments(0)
「佐野常民記念館」のある川副町(かわぞえまち)へは
佐賀市内から約1時間おきに出ている、佐賀市営バスで30分ほどかかります。
かつては単独の自治体で、今は佐賀市に合併されてますが以前から市営バスが
市域を超えてあったようです。

このあたりは筑後川の河口に近く、古来から筑後平野の産業を支える水運が盛んな地域でした。
そして有明海に入ってきた海船は、若津港(福岡県大川市)まで筑後川をさかのぼって入ってきて
そこからは川船に接続するようになっていました。
流域各地の米や日田の木材も筑後川を使い運ばれ、若津港付近の大川周辺では日田杉を使った
家具製造が盛んになって、日本でも有数の家具産地となっていたのです。

赤印の位置の大川側が若津港で、昭和の初めごろまでは船の出入りが盛んにありました。
このころ(昭和10年開通)佐賀~大川~柳川~瀬高を結ぶ、国鉄佐賀線の建設が決まり
この若津付近で架橋されることとなりましたが、船舶の運航と筑後川の干満差が激しいこともあって
架橋計画も大型蒸気船舶の運航を妨げないような工夫が必要とされました。

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by enokama | 2012-06-09 16:24 | 歴史連載 | Comments(0)
続いて万部島(まんぶじま)に行きます!

このあたりには、佐賀城東濠(昭和になってから埋め立てられた。現在の好生館病院のあたり)に隣接した
かつては川の中州であった「万部島」と言われた地域であった。
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このあたりは名残りらしき水路が、あちらこちらにあります。

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by enokama | 2012-06-06 22:06 | 歴史連載 | Comments(0)
続いて佐賀行きのレポです。
メインは川副町にある「佐野常民記念館」でしたが、アプローチが佐賀と柳川の中間あたりとなるので
先に佐賀市内の史跡めぐりもしてきました。

前回の2009年・佐賀レポ→ 江藤新平/種痘と佐野常民/佐賀城

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by enokama | 2012-06-05 22:53 | 歴史連載 | Comments(2)
河上弥市らは北部からの豊岡・出石藩の攻めに備えて
生野から八キロ北の山口・妙見山に陣を構えた。
元々城跡である岩洲山だが、山頂に妙見堂の祠があるので、地元住民からは「妙見山」と呼ばれていた。

ここに大石を運び上げ、大砲を引き上げ、水・兵糧を蓄えて麓の兵たちを狙い撃ちするべく
陣を築き上げた。

国道312号線から少し入った山口護国神社のバス停
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by enokama | 2012-04-01 10:25 | 歴史連載 | Comments(0)
生野銀山を擁する生野は幕府天領として、また但馬の玄関口として栄えたところ(→詳しく

当時の掛屋(両替商のような場所)や宿屋の一部は当時のままに残されています!
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by enokama | 2012-03-31 22:45 | 歴史連載 | Comments(2)
第一回大会議のころ、京にあった北垣国道は
八一八政変と大和五條の挙兵に苦慮する長州人らと協議を重ねていた。
窮地に追い込まれた在京長州人からは、一日も早く「大和義挙」の応援を図るべきと
農兵を利用した「但馬義挙」の提案がされ、すでにその意思を持った平野国臣は但馬に下っていた。
北垣は「一年は農兵の養成にあてたい」との意見を述べ、但馬有志の大勢も同様だったが
のちに押される形で「烏合の衆」とも言える未調練で寄せ集めの強引な農兵の招集は、その杞憂の通り
「まったくの瓦解」と北垣が述懐するほどの失敗に終わったのである。

九月十九日の第二回大会議では早くも大和義挙に呼応した「挙兵」と決し、平野・北垣らは長州の同志
獲得のため長州に赴くこととなる。

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by enokama | 2012-03-30 23:43 | 歴史連載 | Comments(0)
薩摩出身で美玉三平と言う男がいた。
江戸の昌平黌にも学んだが、清河八郎らの「虎尾の会」に名を連ねて、過激な尊王攘夷活動に入り
薩摩でも強硬な一派だった有馬新七、大山綱良らの画策した
長崎での外国人襲撃計画(未遂に終わる)にも関与していた。
有馬らが上意討ちされた寺田屋騒動では捕われの身となったが江戸へ逃亡し
文久3年(1863)3月に但馬の地へ逃れ、中島太郎兵衛・太田六兵衛らの豪農層と知り合い意気投合し
能座の北垣国道宅にも匿われ、ここで三条実美にあてた農兵組織の建白書を認め
五月下旬、北垣と共に上洛する。

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by enokama | 2012-03-13 23:16 | 歴史連載 | Comments(2)
文久3年(1863年)3月に平野国臣は釈放された。
平野についてはエピソードも多いんで、別口で調べてみたいとも思ってるんですが
福岡藩「筑前勤王党」の首魁・月形洗蔵の考えも「土佐勤王党」の武市半平太と同様に
「挙藩尊王」と言った、あくまで藩を軸とした組織だった行動であり
文久~元治と言った時期に、各地で多くの尊攘志士が倒れ、命を落とした中でも
その勢力は比較的温存され、窮地に至った長州救済~薩長同盟へと重要な動きを示した。

そんな中で早くから脱藩を繰り返した平野は異端な存在とも言え、大藩・薩摩を「公武合体論」から
「尊王攘夷」へと動かそうと、薩摩脱藩士・伊牟田尚平らと盛んに暗躍し
西郷隆盛には勤王僧・月照の保護を依頼されるなど、信頼関係にもあった。
思想的には彼の論文から見ても「討幕」の態度を早い時期から鮮明に示したものであり
先鋭的な活動家で、幕府側から見れば最も警戒すべき人物の一人であった。

挙兵へ>>
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by enokama | 2012-02-22 23:18 | 歴史連載 | Comments(0)
いわゆる「討幕」って言う気運がいつから具体化したっていうのは
それぞれ議論はあるだろうし今回の中村武生氏の本でも、いろんな解釈で触れられていて
興味深かったんですが、僕としては慶応三年の四候会議の後かなと思っています。
「薩長同盟」は薩摩から言えば、幕府とも一線を画して独立性を保ち
その再度の勢力増長を警戒しながら、有力雄藩との連携による動きも引き続き模索し
と言えばきれいに聞こえるけど、ある意味どの勢力とも組むことができるフリーハンドな立場を求めていた
面もあったかと・・・まあそれが「したたか」って言われる所以でもあるけど。
幕末の薩摩は西郷・大久保の主導って思われがちだけれども、慶応3年10月に「討幕の密勅」が出て
藩論を以て挙藩出兵が実現するまで、完全に藩を掌握できる立場にはなかったんじゃないかと思う。
ずっと公武合体で来た両高崎らの勢力や、もちろん幕府寄りの保守派もあって、一致した藩論ってのが
この時まで出すのにいたらなかったのだ。

藩主でもない島津久光が藩政を掌握した際に「精忠組」を懐柔して取り込んだ時に
個人行動(突出したテロ活動等)は止して、藩ぐるみで行動すると言い納得させたと伝わるが
その過渡期にあったのが、文久二年(1862年)のいわゆる「寺田屋騒動」に至る動きだった。
年明け早々に和宮降嫁を推進し「公武合体」を推し進めた幕府老中・安藤信正が江戸城坂下門外で
水戸藩士に襲撃され失脚するなど、井伊暗殺で世が動いた事実から「天誅・テロ行為」が幕府に対して
尊王・攘夷を迫る手段として最も激化した時期であった。

もっと過激に>>
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by enokama | 2012-02-21 23:12 | 歴史連載 | Comments(0)