エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

カテゴリ:歴史連載( 72 )

文久3年5月10日の「攘夷期限」に先立つ、幕府の達しでは「襲来候節は掃攘致し候」と言う文言があり
その解釈は「外国船が攻撃してきた時に打ち払う」(襲来打払)と受け取られる。
一方で、朝廷からも「夷国船見掛かけしだい二念なく打ち払え」 と言う命も発せられていた。
(ただ朝廷側でも「一方的な打ち払い」と言う意味での解釈ではなかったと言う)
この文久初め一連の「攘夷論」を引っ張り、鷹司関白や三条実美と言った公家を動かし
上洛した将軍後見職の慶喜らに圧力をかけた中心は長州の久坂玄瑞らであった。
幕命は軽視し、勅命を重視するのは必然であり「見掛けしだい」との文言の面で単に航行する外国船に
関しても対象にするのか、久坂玄瑞らの判断は強硬論であった。

早速、関門海峡を航行する異国船に無差別に発砲した。
本来「幕府への大政委任」体制では幕命が絶対であるが、このころ朝廷が発言権を増す中で
「事柄によっては」諸藩へ直接の沙汰を下すとの勅書が、長州の息がかかる鷹司関白から
将軍・家茂に渡されていたと言う前提もあったが、この朝廷・幕府の命がこの後、統一されず各方面から
の圧力もあってバラバラに出される状況ともなり、どちらを重視していいのかいわゆる「政令二途」に至る
問題が小倉藩を苦しめ、のちの悲劇ともつながるのだ。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2014-08-30 23:34 | 歴史連載 | Comments(0)
今日から、以前から実際に現地に赴いたりして調べていた「小倉藩」の連載を始めます。
よく「戦勝者史観」として、幕末では「薩長史観」と言って「勝者に都合のいい歴史」として
ムキになって否定する論者もいますが、僕は前から言っているように「否定するなら、その勝者の史観を
しっかりと知ってから言え」としております。
ただ、長州に関しては隣接した諸藩が「その主張を貫徹される」ことによって犠牲になった面が多々あることが
事実なんだけど、それらが「長州における美談や武勇伝」に隠れる形で知られていないことは
本当に不憫って言うか、報われていないようで残念であります。
あまり資料的にもないので限られた物になりますが、少しでも知っていただければと思います。


関ケ原の戦いののち、細川氏が丹後から豊前小倉と移り、小倉城築城と城下町の整備を行った。
肥後の加藤氏が改易となった後、細川氏は熊本へ移り、小倉城へは譜代の小笠原氏が入った。
むろん九州の玄関口である要地での、毛利・黒田・細川・島津と言った外様大名への押さえと言った
意味も強かったのだろう。
幕末まで移封はなかったが、この有力外様大藩に囲まれた立地が幕末動乱期における小倉藩の苦悩と
受難につながることとなる。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2014-08-13 22:55 | 歴史連載 | Comments(0)
外国人居留地の北を通る西国街道は、幅二間ほどと当時はまだ狭い道であった。
この街道を東へ向け、家老・日置帯刀の率いる備前池田家藩兵400は縦隊で進む。
三宮神社の前を通り過ぎる頃、山手の商家から浜手の居留地へ行こうとしたフランス水兵が
その行列の前を横切ろうとした。一旦は藩兵らに制止されたものの、それを振り切って強引に横断して
しまったのである。
f0010195_1172910.jpg

よく似た事例は生麦事件でもあったが「供割」は当然無礼であり、攘夷の感情がまだまだ強いころでもあり、藩兵らは憤慨した。
隊長の瀧善三郎はその水兵目がけて、手槍の一撃を加えた。そのことをきっかけに発砲も始まる。
この一報を聞いた英国公使パークスは英国の警備兵、そして碇泊中だったアメリカ・フランス軍艦の兵士を上陸させて応戦、この場で銃撃戦となってしまった。
それを見た家老・日置帯刀はただちに発砲を停止させ、藩兵を山手の方に引き上げさせた。
f0010195_131522.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2014-02-24 23:14 | 歴史連載 | Comments(0)
神戸事件についての記事です。
参考文献は以前、NHKの教育テレビでやっていた「さかのぼり日本史」の番組本で
独立を守った”現実外交”←これ大事な事 です。
出てくるのが、幕府外交官の岩瀬忠震・井上清直、幕府老中の水野忠邦・阿部正弘
薩英戦争での五代才助・松木弘安、そしてこの「神戸事件」と4つ取り上げられています。
f0010195_9353174.jpg




1858(安政5年)日米修好通商条約を皮切りに、諸外国と次々に「開港・貿易」につながる
条約が結ばれた(→関連記事
神奈川(実質は横浜)・長崎・箱館の開港(安政6年6月)に次いで、12月に新潟(実際には大船を碇泊させるには水深等の問題があって、代替地の検討(酒田・七尾あたり)もされたことがあり、かなり遅れた開港となる)
太陽暦で1862年1月1日にあたる、文久元年12月9日には江戸開市。
1863年1月1日(文久2年12月7日)には大坂開市・兵庫開港と定められていた。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2014-02-13 23:23 | 歴史連載 | Comments(0)
こちらからの続きです。。。

列参は下級公家中心の行動で、従来の朝廷秩序を乱す行動ではあったが
「天皇の意に沿う」ものとして大義名分も立ったことから、咎めもなかった。
岩倉の凄味は、ただ単に通商開国条約に「反対」したことで、攘夷論に凝り固まることではなく
直ちにこれからの諸外国との付き合い、ゆくゆくの条約まで構想した意見書を天皇に提出する。
反対だけでなく、ちゃんと対案的な事案も考えての行動でもあったのだ。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2014-01-22 23:25 | 歴史連載 | Comments(0)
少し前の放送ですが、まとめてみました。

例のT○Sだったら、加治将一のくだらない妄想でまとめられてしまうところなんですが
今日の放送では初めて知ったことも多くって、いい内容でした。

まずお札の顔での岩倉ってことで(私も知っている世代でありますが)なんか怖いな~って印象は覚えています。
それにしても伊藤博文・岩倉具視・板垣退助の並びは、僕としては実によかったですね。
(逆に嫌いな人も多そうだけど 苦笑)
伊藤なんて今も札になっていたら「韓国の反日」対象の象徴になっていたかもしれません。。。
札になりえた時代が長らくあったってことは、今の韓国の連中に火をつけた人間がいるってことかも
しれませんね。おかしな人たちも多いですからね。
伊藤は調べれば調べるほど、あれだけ時代を先取った偉人はいないのですが・・・

本題>>
[PR]
by enokama | 2013-12-20 23:54 | 歴史連載 | Comments(0)
五條から30分ほど走ったあたり、賀名生(あのう)の里です。
f0010195_082568.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2013-11-09 23:07 | 歴史連載 | Comments(0)
井上院・乾十郎墓
f0010195_021415.jpg


もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2013-11-07 23:46 | 歴史連載 | Comments(0)

天誅組と五條2012~その1

少し前になりますが、昨年秋に大阪龍馬会の「五條探訪」に参加させていただいた時の
レポをします (関連記事・五條2008→その1その2その3

風の森
f0010195_23372430.jpg

f0010195_23374225.jpg

御所から五條に行く途中にある峠で、天誅組や五條を訪れたこともある吉田松陰が通った道です。
何か独特の風景と空気が流れる場所でもありました

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2013-11-05 23:23 | 歴史連載 | Comments(1)
こちらからの続きです

こちらも薩摩御用達の船宿(脇屋家住宅)
f0010195_0101998.jpg

普通に幕末当時の建物がいくつも残っているのが御手洗。
呉からも1時間以上かかるし、かなり遠い印象なのも逆に町並みが残された理由でもあるんだろう。
昔はやはり水運の利便性が発展につながったんでしょうね。
どこも今は寂れた感もあるけど、北前船の寄港地ってのも、どこもいい雰囲気ですからね。

もっと見る>>
[PR]
by enokama | 2013-04-03 23:06 | 歴史連載 | Comments(0)