エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 72 )

吉川家関連の史料館は二つあって、まずは「徴古館」(→HP
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第二次大戦中に建てられたもので、独特の建築となっている。
「岩国市史」の編纂や地域の歴史研究の拠点であって、問い合わせ等もこちらで答えてくれます。
展示としては岩国の歴史や江戸時代の吉川家の治政について、詳しく知ることができて
ちょうど行った時は「錦帯橋」についての架橋・架け替え・修復についての文書が時代ごとに
展示してありました。入館料は無料!

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by enokama | 2015-02-13 19:37 | 歴史連載 | Comments(0)
岩国城 は1608年 (慶長13年) に初代岩国藩主の吉川広家が、蛇行した錦川を天然の外堀とし
戦国の流れを汲んだ「要害」とした山城を、その背後にそびえる横山(城山・標高が約200m)に築城。
三層四階の桃山風南蛮造りの天守も築かれる。しかし幕府の「一国一城令」もあって、築城より僅か
7年後の1615年 (元和元年) に取り壊しとなり、その山麓にあった「お土居」と呼ばれた居館を陣屋とし
代々藩政を司り、周辺(横山地区)が上級武士の居住地や諸役所になっていた。

防衛上には有効な錦川の流れも「暴れ川」と言われ、対岸と連絡する橋も度々流されて
その対策も急務となっていた。
延宝元年(1673)10月1日、中国杭州の名勝・西湖に架かる橋をモデルとして(→参考記事
独特の景観を持つ「錦帯橋」が架橋され、以後修復・架け替えを繰り返し「名橋」として
観光名所となっている。

錦帯橋と陣屋>>
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by enokama | 2015-02-11 20:17 | 歴史連載 | Comments(0)
少し前ですが岩国へ行った時のレポをしたいと思います!
表題は「岩国藩」とはあえてしません。
藩が正式に成立したのは、もう明治と改元する直前の慶応4年となってからの話で
江戸時代の大半を吉川家は「岩国領主」として、萩本藩・毛利宗家から「大名として認めず」
陪臣の扱いとされ、正式な藩ではなかった。
これは関ヶ原の戦いからの流れで、吉川家が「防長二州」を毛利家の所領として死守すべく
運動した結果でもあったが、関ヶ原の不戦と言う吉川広家の行動に対して、一方の毛利の将・秀元は
元来主戦論を唱えていて、批判的な者が多かったからだと言う。
毛利秀元は支藩・長府藩の初代藩主であるとともに、まだ歳が若かった萩本藩初代藩主・秀就の後見となり
本藩にも影響力を持ったが、秀就の成長ともに不仲となり「長府藩の独立」も画策し(実現せず)
萩本藩と長府藩・岩国藩の不仲と共に、長府藩と岩国領の不仲という流れが幕末まで続いていたのである。
(→関連記事

一方で幕府・徳川家は事実上、吉川家を「大名」(藩主)と同様な扱いとし
定期的な参勤交代こそないものの、将軍家の代替わりや吉川家の継承等、一連の儀礼と言った際には参勤し
江戸には屋敷を構え、大坂には蔵屋敷を持ち、内実は一諸侯と変わらない体裁となっていた。

江戸時代の中ごろにはさらに、岩国は他の三支藩よりも冷遇されるようになるが、幕末になって尊攘運動に伴う
相次ぐ国難に関して、支藩との結束を望む萩藩主・毛利慶親は岩国領主・吉川経幹に「大名取り立て」を
以て、融和に努めている。
だが毛利本支藩間の不仲については、そこに幕府も付け込む動きもあって
慶応元年になっての「本支藩の一致」が実現しなければ、長州藩はそれこそ潰れていた可能性もあったのである。

岩国への行き方>>
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by enokama | 2015-02-10 21:14 | 歴史連載 | Comments(0)
安政元年(1845)9月。ロシアのプチャーチンが軍艦ディアナ号で摂海(大阪湾)に突如侵入
天保山沖に停泊し、日本に通商を求めると言う出来事が起こった(関連記事→その1その2
京都にも近い地でのこの事件には幕府も危機感を持って「摂海防禦計画」を進める(→こちら

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by enokama | 2014-10-16 23:50 | 歴史連載 | Comments(0)
一般的には「えべっさん」と言う名前で通っている西宮神社は「福の神」で知られる
えびすさんをお祀りする神社の総本社であります。

赤門は桃山時代のもので豊臣秀頼の奉献とも言われる
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赤門に連なる大練塀
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by enokama | 2014-10-13 16:57 | 歴史連載 | Comments(0)
先日、いつもお世話になっている長谷さんのガイドで西宮の史跡巡りをしてきました!
あまり歩いたことのない地域だったので、新しい発見がいくつもありました。

まずは阪神本線の打出駅からスタートです(もちろん来たのは初めて・・・)
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by enokama | 2014-10-11 20:49 | 歴史連載 | Comments(0)
糾問書の提出とそれに対する長州藩側からの返書(従来からの主張で小倉藩との齟齬や朝廷との
やりとりに関する返答となっていた)が来たが、中根は朝陽丸が返ってこないと復命はできないと判断し
引き続き小郡に留まっており、長州藩側でも世子・定広を馬関に派遣するなど、藩庁の命に従わない
激派の説得に当たっていた。

八一八政変が起こり>>
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by enokama | 2014-09-22 21:46 | 歴史連載 | Comments(0)
朝陽丸は7月23日、豊前沖を経由して関門海峡に入った。
異国型蒸気船を見た砲台から、またもや威嚇砲撃を受けた。
長州側はもちろんだが、小倉領の田野浦及び門司の小倉藩台場からも砲撃を受けた。
小倉藩の「攘夷実行令」もあって、海峡の両側からの挟撃がこの時点で実行されていたのであった。
幕府軍艦だとわかると砲撃は止んだが、この予想だにしなかった事態に門司・白野江青浜沖に停泊した
朝陽丸からは小船を下ろし、河野・大八木の二人が上陸し、白野江村の庄屋を訪ねたことで
事情を知ることができた。
ただ、この二士の行動は多数いた小倉領駐留の長州藩兵の目に留まり(島村志津摩が帰国したとも思われた)
庄屋を捕らえ、脅しつけた上で小倉藩士の河野・大八木が乗船していることがわかってしまったのだ。
これが第一の悲劇につながることとなる。

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by enokama | 2014-09-14 23:54 | 歴史連載 | Comments(0)
実は「攘夷期限」を受けた外国船への砲撃は、この長州藩の関門海峡以外にも数件あった。
摂海(大坂湾)防禦を担当した鳥取藩は6月14日、イギリス船が石炭を求めて天保山沖に入ってきたところ
実弾を発射したが、着弾はせずにイギリス船は立ち去った(ただ、幕府船を誤認して撃ってしまったとの
別の説もある)
この行動に大坂城代からは軽挙を諌められたものの、一方で朝廷からは褒賞を受けている。
ここにも幕府と朝廷の姿勢の違いが覗える。
鳥取藩藩主の池田慶徳は公武合体派であったが、一方で水戸の徳川斉昭の子でもあって
「攘夷実行」には妥協を許さない姿勢であって、朝廷からの褒賞には喜んだものの
実状は成果が上がらなかったこともあって、現場にいた藩士らには厳しい処分を課している。

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by enokama | 2014-09-07 22:34 | 歴史連載 | Comments(0)
6月5日、フランス艦2隻が報復攻撃を行うべく関門海峡にやってくる。
両艦は小倉領・田野浦に停泊し、一部の船員は上陸して攻撃の用意がないか確かめた。
譜代藩である小倉藩は「幕命遵守」で、航行するだけの艦船には砲撃しないことの情報は得ていて
宣戦の理由を書いた文書で、小倉藩経由で真意を長州側に伝えるように事づけたりもしている。
この際の攻撃では前田砲台をフランスは占領し、長州側に大きな打撃を与えている。

このように長州藩の外国船への砲撃は圧倒的な実力差を見せつけられて
各国の報復攻撃を受けて各砲台は破壊され、防衛の無力さも感じられた。
こういった中で、高杉晋作が中心となって「奇兵隊」が結成される。
各地の破壊された砲台の修築や再構築も課題となったが、海峡対岸の小倉藩の傍観ぶりが彼らから見て
我慢ならないものであって、とうとう実力行使となるのである。

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by enokama | 2014-09-04 23:58 | 歴史連載 | Comments(0)