エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 69 )

南宗寺には「徳川家康の墓」なるものがあるのが有名で、大坂夏の陣・茶臼山にて後藤又兵衛の槍に
突かれ、堺まで逃れたもののこの地で息絶えてしまい、開山堂の下に葬られたと言うことだ。
沢庵和尚を祀っていた開山堂も空襲で焼け、跡地に無銘の丸い墓石が現れている。
坐雲亭と呼ばれる現存最古の建物には、徳川秀忠・家光が南宗寺に相次いで訪れた板額が残されていて
「なぜ歴代将軍がそこまで」と言う謎も、家康の「大坂死亡説」に拍車をかけている。

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by enokama | 2016-03-16 19:46 | 歴史連載 | Comments(0)

堺~寺町から南宗寺

先日、車の車検時期が来たので
平日朝に預けて夕方返してもらう「日帰り」でお願いした。
その間、どこかに行こうと思って阿倍野から堺へと行ってきました。
まずは堺から紹介します。。。

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by enokama | 2016-03-13 23:43 | 歴史連載 | Comments(0)
二月末日(太陽暦・3月23日)英国公使一行は午後一時に御所へ向かい、宿舎の知恩院を出発していた。
パ―クスとミッドフォード、アーネスト・サトウらの公使館員、周辺には接待役である土佐の後藤象二郎、
その側近的存在である薩摩脱藩士・中井弘が英国警視と共に先頭に立っていた。
警護には英国連隊第二大隊分遣隊と肥後藩士300名が付いていた。

一行は知恩院の西側の参道ともなっている新橋通を西に進み、突きあたった縄手通(大和大路通)に出て右折し
北上、三条大橋東詰から鴨川を渡って御所へ向かい、天皇と謁見する予定だった。。
この襲撃事件が起きたのは、行列の先頭が縄手通に入り、最後の騎馬護衛兵が縄手通を曲がろうとした
瞬間であった。

縄手通の中井と朱雀が斬り合ったあたり(地図の赤印)
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二人の刺客が往来から躍り出て襲撃してきた。そして列に沿って走りながら、狂気の如く斬りまくったのだ。
次々と英国人護衛らを中心に11名が瞬く間に負傷した。

刺客の一人、朱雀操には先頭にいた中井が馬を下り対峙した。狂気を帯びた男は相当手ごわい。
そして、斬り合ううちに中井は長い袴の裾が足に絡みついて、あお向けに倒れた。
そこへ刺客は刀を振るうが、辛うじて頭にかすり傷を受けたまでで済んだ。間一髪である。。。
反撃した中井は相手の胸を突き刺し、そこへ駆け付けた後藤が肩に一太刀を浴びせた。
そのひるんだ瞬間に起き上がった中井は朱雀の首を取り、討ち取ったのである。
その時、300人もいた肥後藩兵は沈黙していたと言う。

行列の最後(新橋通と縄手通の角から縄手通方面・地図のオレンジ印)
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もう一人の刺客・三枝蓊は後列のパークスらの方向に向かって駆け込んでくる。
一人の英国歩兵警護隊士は頭部を斬られ重傷を負った。
そして、他の歩兵の小股にすくわれ倒れたところを銃剣で突き刺されたが、さらに民家の庭に逃げ込んだ時
放たれた拳銃の銃弾が下あごに当たり、ようやく取り押さえられた。
難を逃れた英国公使一行は一旦、宿舎の知恩院に引き返した。
負傷者はこの時期に京都に詰めていて、のち一連の戊辰戦争でも戦傷者に対し数々の外科手術を行い
命を救った英国人医師ウィリスも処置を行った。

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by enokama | 2016-01-12 18:49 | 歴史連載 | Comments(2)
鳥羽伏見の戦い後、神戸事件の勃発で「無政府状態」の危機を乗り越え
新政府では元首となる天皇の下で「万国公法」を以て政権運営を行う態度を示すため
(天皇を押し立てた朝廷の下、旧幕府軍と戦っていることを各国に認知させる)
同日に各国外交官がまとまって入洛する方針となり、慶応四年二月十四日に英・仏・米・露の各国
外国行使が京都での天皇との謁見が決まる。
天皇が元首であると言う実際の証拠を見せるべきと慎重論の親幕派の仏国公使に対しては
外務事務局補だった伊達宗城が公使館に入り「幕府が以前の機能を回復することがあろうとも、将軍はその代理に過ぎない」と説得し、その辞去の時に堺事件の一報が入った。

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by enokama | 2015-12-29 23:48 | 歴史連載 | Comments(0)
元治元年6月の禁門の変での長州藩敗北後、この地に逃れてきた桂小五郎。
いろんな理由もあるんだろうけど「逃げた」で正解だろうし
長州に戻ってむざむざと殺される可能性もあった中で、長州再征の動きとともに
薩摩との協調路線を取ることができ「反幕」で割拠の体制が確立した藩政に実にいいタイミングで
迎えられることができた彼にとっては「好機をつかむ」幸運を掴んだ地とも言えるだろう。

代表的な潜伏地(荒物屋・広江屋跡)
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by enokama | 2015-09-10 17:09 | 歴史連載 | Comments(0)

出石探訪2015~永楽館

FBでは画像だけ載せたんですが、霊山歴史館のツアーで五月に行った出石のレポです。
仕事では何度も行っているんだけど、普通に史跡巡りで行くのは初めてです。

こちらは市街地の西側の旧出石川(谷山川)にあるおりゅう灯篭
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昔の大量輸送流通の中心は水運で、当時の船着き場の跡で当時の川幅は今の三倍あった。
その目印でもあった灯篭が残っています。

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by enokama | 2015-09-02 20:43 | 歴史連載 | Comments(0)
吉川家関連の史料館は二つあって、まずは「徴古館」(→HP
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第二次大戦中に建てられたもので、独特の建築となっている。
「岩国市史」の編纂や地域の歴史研究の拠点であって、問い合わせ等もこちらで答えてくれます。
展示としては岩国の歴史や江戸時代の吉川家の治政について、詳しく知ることができて
ちょうど行った時は「錦帯橋」についての架橋・架け替え・修復についての文書が時代ごとに
展示してありました。入館料は無料!

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by enokama | 2015-02-13 19:37 | 歴史連載 | Comments(0)
岩国城 は1608年 (慶長13年) に初代岩国藩主の吉川広家が、蛇行した錦川を天然の外堀とし
戦国の流れを汲んだ「要害」とした山城を、その背後にそびえる横山(城山・標高が約200m)に築城。
三層四階の桃山風南蛮造りの天守も築かれる。しかし幕府の「一国一城令」もあって、築城より僅か
7年後の1615年 (元和元年) に取り壊しとなり、その山麓にあった「お土居」と呼ばれた居館を陣屋とし
代々藩政を司り、周辺(横山地区)が上級武士の居住地や諸役所になっていた。

防衛上には有効な錦川の流れも「暴れ川」と言われ、対岸と連絡する橋も度々流されて
その対策も急務となっていた。
延宝元年(1673)10月1日、中国杭州の名勝・西湖に架かる橋をモデルとして(→参考記事
独特の景観を持つ「錦帯橋」が架橋され、以後修復・架け替えを繰り返し「名橋」として
観光名所となっている。

錦帯橋と陣屋>>
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by enokama | 2015-02-11 20:17 | 歴史連載 | Comments(0)
少し前ですが岩国へ行った時のレポをしたいと思います!
表題は「岩国藩」とはあえてしません。
藩が正式に成立したのは、もう明治と改元する直前の慶応4年となってからの話で
江戸時代の大半を吉川家は「岩国領主」として、萩本藩・毛利宗家から「大名として認めず」
陪臣の扱いとされ、正式な藩ではなかった。
これは関ヶ原の戦いからの流れで、吉川家が「防長二州」を毛利家の所領として死守すべく
運動した結果でもあったが、関ヶ原の不戦と言う吉川広家の行動に対して、一方の毛利の将・秀元は
元来主戦論を唱えていて、批判的な者が多かったからだと言う。
毛利秀元は支藩・長府藩の初代藩主であるとともに、まだ歳が若かった萩本藩初代藩主・秀就の後見となり
本藩にも影響力を持ったが、秀就の成長ともに不仲となり「長府藩の独立」も画策し(実現せず)
萩本藩と長府藩・岩国藩の不仲と共に、長府藩と岩国領の不仲という流れが幕末まで続いていたのである。
(→関連記事

一方で幕府・徳川家は事実上、吉川家を「大名」(藩主)と同様な扱いとし
定期的な参勤交代こそないものの、将軍家の代替わりや吉川家の継承等、一連の儀礼と言った際には参勤し
江戸には屋敷を構え、大坂には蔵屋敷を持ち、内実は一諸侯と変わらない体裁となっていた。

江戸時代の中ごろにはさらに、岩国は他の三支藩よりも冷遇されるようになるが、幕末になって尊攘運動に伴う
相次ぐ国難に関して、支藩との結束を望む萩藩主・毛利慶親は岩国領主・吉川経幹に「大名取り立て」を
以て、融和に努めている。
だが毛利本支藩間の不仲については、そこに幕府も付け込む動きもあって
慶応元年になっての「本支藩の一致」が実現しなければ、長州藩はそれこそ潰れていた可能性もあったのである。

岩国への行き方>>
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by enokama | 2015-02-10 21:14 | 歴史連載 | Comments(0)
安政元年(1845)9月。ロシアのプチャーチンが軍艦ディアナ号で摂海(大阪湾)に突如侵入
天保山沖に停泊し、日本に通商を求めると言う出来事が起こった(関連記事→その1その2
京都にも近い地でのこの事件には幕府も危機感を持って「摂海防禦計画」を進める(→こちら

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by enokama | 2014-10-16 23:50 | 歴史連載 | Comments(0)