エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 69 )

安政元年(1845)9月。ロシアのプチャーチンが軍艦ディアナ号で摂海(大阪湾)に突如侵入
天保山沖に停泊し、日本に通商を求めると言う出来事が起こった(関連記事→その1その2
京都にも近い地でのこの事件には幕府も危機感を持って「摂海防禦計画」を進める(→こちら

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by enokama | 2014-10-16 23:50 | 歴史連載 | Comments(0)
一般的には「えべっさん」と言う名前で通っている西宮神社は「福の神」で知られる
えびすさんをお祀りする神社の総本社であります。

赤門は桃山時代のもので豊臣秀頼の奉献とも言われる
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赤門に連なる大練塀
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by enokama | 2014-10-13 16:57 | 歴史連載 | Comments(0)
先日、いつもお世話になっている長谷さんのガイドで西宮の史跡巡りをしてきました!
あまり歩いたことのない地域だったので、新しい発見がいくつもありました。

まずは阪神本線の打出駅からスタートです(もちろん来たのは初めて・・・)
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by enokama | 2014-10-11 20:49 | 歴史連載 | Comments(0)
糾問書の提出とそれに対する長州藩側からの返書(従来からの主張で小倉藩との齟齬や朝廷との
やりとりに関する返答となっていた)が来たが、中根は朝陽丸が返ってこないと復命はできないと判断し
引き続き小郡に留まっており、長州藩側でも世子・定広を馬関に派遣するなど、藩庁の命に従わない
激派の説得に当たっていた。

八一八政変が起こり>>
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by enokama | 2014-09-22 21:46 | 歴史連載 | Comments(0)
朝陽丸は7月23日、豊前沖を経由して関門海峡に入った。
異国型蒸気船を見た砲台から、またもや威嚇砲撃を受けた。
長州側はもちろんだが、小倉領の田野浦及び門司の小倉藩台場からも砲撃を受けた。
小倉藩の「攘夷実行令」もあって、海峡の両側からの挟撃がこの時点で実行されていたのであった。
幕府軍艦だとわかると砲撃は止んだが、この予想だにしなかった事態に門司・白野江青浜沖に停泊した
朝陽丸からは小船を下ろし、河野・大八木の二人が上陸し、白野江村の庄屋を訪ねたことで
事情を知ることができた。
ただ、この二士の行動は多数いた小倉領駐留の長州藩兵の目に留まり(島村志津摩が帰国したとも思われた)
庄屋を捕らえ、脅しつけた上で小倉藩士の河野・大八木が乗船していることがわかってしまったのだ。
これが第一の悲劇につながることとなる。

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by enokama | 2014-09-14 23:54 | 歴史連載 | Comments(0)
実は「攘夷期限」を受けた外国船への砲撃は、この長州藩の関門海峡以外にも数件あった。
摂海(大坂湾)防禦を担当した鳥取藩は6月14日、イギリス船が石炭を求めて天保山沖に入ってきたところ
実弾を発射したが、着弾はせずにイギリス船は立ち去った(ただ、幕府船を誤認して撃ってしまったとの
別の説もある)
この行動に大坂城代からは軽挙を諌められたものの、一方で朝廷からは褒賞を受けている。
ここにも幕府と朝廷の姿勢の違いが覗える。
鳥取藩藩主の池田慶徳は公武合体派であったが、一方で水戸の徳川斉昭の子でもあって
「攘夷実行」には妥協を許さない姿勢であって、朝廷からの褒賞には喜んだものの
実状は成果が上がらなかったこともあって、現場にいた藩士らには厳しい処分を課している。

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by enokama | 2014-09-07 22:34 | 歴史連載 | Comments(0)
6月5日、フランス艦2隻が報復攻撃を行うべく関門海峡にやってくる。
両艦は小倉領・田野浦に停泊し、一部の船員は上陸して攻撃の用意がないか確かめた。
譜代藩である小倉藩は「幕命遵守」で、航行するだけの艦船には砲撃しないことの情報は得ていて
宣戦の理由を書いた文書で、小倉藩経由で真意を長州側に伝えるように事づけたりもしている。
この際の攻撃では前田砲台をフランスは占領し、長州側に大きな打撃を与えている。

このように長州藩の外国船への砲撃は圧倒的な実力差を見せつけられて
各国の報復攻撃を受けて各砲台は破壊され、防衛の無力さも感じられた。
こういった中で、高杉晋作が中心となって「奇兵隊」が結成される。
各地の破壊された砲台の修築や再構築も課題となったが、海峡対岸の小倉藩の傍観ぶりが彼らから見て
我慢ならないものであって、とうとう実力行使となるのである。

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by enokama | 2014-09-04 23:58 | 歴史連載 | Comments(0)
文久3年5月10日の「攘夷期限」に先立つ、幕府の達しでは「襲来候節は掃攘致し候」と言う文言があり
その解釈は「外国船が攻撃してきた時に打ち払う」(襲来打払)と受け取られる。
一方で、朝廷からも「夷国船見掛かけしだい二念なく打ち払え」 と言う命も発せられていた。
(ただ朝廷側でも「一方的な打ち払い」と言う意味での解釈ではなかったと言う)
この文久初め一連の「攘夷論」を引っ張り、鷹司関白や三条実美と言った公家を動かし
上洛した将軍後見職の慶喜らに圧力をかけた中心は長州の久坂玄瑞らであった。
幕命は軽視し、勅命を重視するのは必然であり「見掛けしだい」との文言の面で単に航行する外国船に
関しても対象にするのか、久坂玄瑞らの判断は強硬論であった。

早速、関門海峡を航行する異国船に無差別に発砲した。
本来「幕府への大政委任」体制では幕命が絶対であるが、このころ朝廷が発言権を増す中で
「事柄によっては」諸藩へ直接の沙汰を下すとの勅書が、長州の息がかかる鷹司関白から
将軍・家茂に渡されていたと言う前提もあったが、この朝廷・幕府の命がこの後、統一されず各方面から
の圧力もあってバラバラに出される状況ともなり、どちらを重視していいのかいわゆる「政令二途」に至る
問題が小倉藩を苦しめ、のちの悲劇ともつながるのだ。

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by enokama | 2014-08-30 23:34 | 歴史連載 | Comments(0)
今日から、以前から実際に現地に赴いたりして調べていた「小倉藩」の連載を始めます。
よく「戦勝者史観」として、幕末では「薩長史観」と言って「勝者に都合のいい歴史」として
ムキになって否定する論者もいますが、僕は前から言っているように「否定するなら、その勝者の史観を
しっかりと知ってから言え」としております。
ただ、長州に関しては隣接した諸藩が「その主張を貫徹される」ことによって犠牲になった面が多々あることが
事実なんだけど、それらが「長州における美談や武勇伝」に隠れる形で知られていないことは
本当に不憫って言うか、報われていないようで残念であります。
あまり資料的にもないので限られた物になりますが、少しでも知っていただければと思います。


関ケ原の戦いののち、細川氏が丹後から豊前小倉と移り、小倉城築城と城下町の整備を行った。
肥後の加藤氏が改易となった後、細川氏は熊本へ移り、小倉城へは譜代の小笠原氏が入った。
むろん九州の玄関口である要地での、毛利・黒田・細川・島津と言った外様大名への押さえと言った
意味も強かったのだろう。
幕末まで移封はなかったが、この有力外様大藩に囲まれた立地が幕末動乱期における小倉藩の苦悩と
受難につながることとなる。

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by enokama | 2014-08-13 22:55 | 歴史連載 | Comments(0)
外国人居留地の北を通る西国街道は、幅二間ほどと当時はまだ狭い道であった。
この街道を東へ向け、家老・日置帯刀の率いる備前池田家藩兵400は縦隊で進む。
三宮神社の前を通り過ぎる頃、山手の商家から浜手の居留地へ行こうとしたフランス水兵が
その行列の前を横切ろうとした。一旦は藩兵らに制止されたものの、それを振り切って強引に横断して
しまったのである。
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よく似た事例は生麦事件でもあったが「供割」は当然無礼であり、攘夷の感情がまだまだ強いころでもあり、藩兵らは憤慨した。
隊長の瀧善三郎はその水兵目がけて、手槍の一撃を加えた。そのことをきっかけに発砲も始まる。
この一報を聞いた英国公使パークスは英国の警備兵、そして碇泊中だったアメリカ・フランス軍艦の兵士を上陸させて応戦、この場で銃撃戦となってしまった。
それを見た家老・日置帯刀はただちに発砲を停止させ、藩兵を山手の方に引き上げさせた。
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by enokama | 2014-02-24 23:14 | 歴史連載 | Comments(0)