エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 63 )

静岡(駿府)の幕末史跡

清水から静岡までは静岡鉄道で移動します。
JRの方が早いんだけども、港橋から新清水~新静岡から駿府城跡と移動が近いこともあります。
元々はお茶を清水港に運ぶために作られたそうですが、現在は二両編成の電車がかなり頻繁な本数で両都市間をつないでおります。
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by enokama | 2017-02-20 09:10 | 歴史連載 | Comments(0)

清水港~次郎長の史跡

ちょうど駅から西が宿場町で一通り回ったあと、清見寺の近くでバスに乗り(1時間に1本で本数が思ったより少ない)清水港方面へ行きます。
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by enokama | 2017-02-19 18:17 | 歴史連載 | Comments(0)
清見寺は徳川家とも皇室とも所縁の深い古刹である。
明治天皇やこの地に海水浴に訪れた大正天皇の御在所、昭和天皇の宿舎ともなった。
少し高台にあって、往時は三保松原方面の眺望もよかったらしいが今は残念ながらその面影はない。
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by enokama | 2017-02-12 01:43 | 歴史連載 | Comments(0)
東海道十七番目の宿場町が興津宿。かつては風光明媚な海岸があり「避暑地」として、井上馨、伊藤博文の養子・博邦、西園寺公望、川崎財閥の創設者・川崎正蔵ら明治の政財界の実力者らが競って別荘を建てた。
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大正天皇も海水浴に訪れている。
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by enokama | 2017-02-09 14:42 | 歴史連載 | Comments(0)
南宗寺には「徳川家康の墓」なるものがあるのが有名で、大坂夏の陣・茶臼山にて後藤又兵衛の槍に
突かれ、堺まで逃れたもののこの地で息絶えてしまい、開山堂の下に葬られたと言うことだ。
沢庵和尚を祀っていた開山堂も空襲で焼け、跡地に無銘の丸い墓石が現れている。
坐雲亭と呼ばれる現存最古の建物には、徳川秀忠・家光が南宗寺に相次いで訪れた板額が残されていて
「なぜ歴代将軍がそこまで」と言う謎も、家康の「大坂死亡説」に拍車をかけている。

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by enokama | 2016-03-16 19:46 | 歴史連載 | Comments(0)

堺~寺町から南宗寺

先日、車の車検時期が来たので
平日朝に預けて夕方返してもらう「日帰り」でお願いした。
その間、どこかに行こうと思って阿倍野から堺へと行ってきました。
まずは堺から紹介します。。。

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by enokama | 2016-03-13 23:43 | 歴史連載 | Comments(0)
二月末日(太陽暦・3月23日)英国公使一行は午後一時に御所へ向かい、宿舎の知恩院を出発していた。
パ―クスとミッドフォード、アーネスト・サトウらの公使館員、周辺には接待役である土佐の後藤象二郎、
その側近的存在である薩摩脱藩士・中井弘が英国警視と共に先頭に立っていた。
警護には英国連隊第二大隊分遣隊と肥後藩士300名が付いていた。

一行は知恩院の西側の参道ともなっている新橋通を西に進み、突きあたった縄手通(大和大路通)に出て右折し
北上、三条大橋東詰から鴨川を渡って御所へ向かい、天皇と謁見する予定だった。。
この襲撃事件が起きたのは、行列の先頭が縄手通に入り、最後の騎馬護衛兵が縄手通を曲がろうとした
瞬間であった。

縄手通の中井と朱雀が斬り合ったあたり(地図の赤印)
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二人の刺客が往来から躍り出て襲撃してきた。そして列に沿って走りながら、狂気の如く斬りまくったのだ。
次々と英国人護衛らを中心に11名が瞬く間に負傷した。

刺客の一人、朱雀操には先頭にいた中井が馬を下り対峙した。狂気を帯びた男は相当手ごわい。
そして、斬り合ううちに中井は長い袴の裾が足に絡みついて、あお向けに倒れた。
そこへ刺客は刀を振るうが、辛うじて頭にかすり傷を受けたまでで済んだ。間一髪である。。。
反撃した中井は相手の胸を突き刺し、そこへ駆け付けた後藤が肩に一太刀を浴びせた。
そのひるんだ瞬間に起き上がった中井は朱雀の首を取り、討ち取ったのである。
その時、300人もいた肥後藩兵は沈黙していたと言う。

行列の最後(新橋通と縄手通の角から縄手通方面・地図のオレンジ印)
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もう一人の刺客・三枝蓊は後列のパークスらの方向に向かって駆け込んでくる。
一人の英国歩兵警護隊士は頭部を斬られ重傷を負った。
そして、他の歩兵の小股にすくわれ倒れたところを銃剣で突き刺されたが、さらに民家の庭に逃げ込んだ時
放たれた拳銃の銃弾が下あごに当たり、ようやく取り押さえられた。
難を逃れた英国公使一行は一旦、宿舎の知恩院に引き返した。
負傷者はこの時期に京都に詰めていて、のち一連の戊辰戦争でも戦傷者に対し数々の外科手術を行い
命を救った英国人医師ウィリスも処置を行った。

刺客の最後>>
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by enokama | 2016-01-12 18:49 | 歴史連載 | Comments(2)
鳥羽伏見の戦い後、神戸事件の勃発で「無政府状態」の危機を乗り越え
新政府では元首となる天皇の下で「万国公法」を以て政権運営を行う態度を示すため
(天皇を押し立てた朝廷の下、旧幕府軍と戦っていることを各国に認知させる)
同日に各国外交官がまとまって入洛する方針となり、慶応四年二月十四日に英・仏・米・露の各国
外国行使が京都での天皇との謁見が決まる。
天皇が元首であると言う実際の証拠を見せるべきと慎重論の親幕派の仏国公使に対しては
外務事務局補だった伊達宗城が公使館に入り「幕府が以前の機能を回復することがあろうとも、将軍はその代理に過ぎない」と説得し、その辞去の時に堺事件の一報が入った。

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by enokama | 2015-12-29 23:48 | 歴史連載 | Comments(0)
元治元年6月の禁門の変での長州藩敗北後、この地に逃れてきた桂小五郎。
いろんな理由もあるんだろうけど「逃げた」で正解だろうし
長州に戻ってむざむざと殺される可能性もあった中で、長州再征の動きとともに
薩摩との協調路線を取ることができ「反幕」で割拠の体制が確立した藩政に実にいいタイミングで
迎えられることができた彼にとっては「好機をつかむ」幸運を掴んだ地とも言えるだろう。

代表的な潜伏地(荒物屋・広江屋跡)
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by enokama | 2015-09-10 17:09 | 歴史連載 | Comments(0)

出石探訪2015~永楽館

FBでは画像だけ載せたんですが、霊山歴史館のツアーで五月に行った出石のレポです。
仕事では何度も行っているんだけど、普通に史跡巡りで行くのは初めてです。

こちらは市街地の西側の旧出石川(谷山川)にあるおりゅう灯篭
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昔の大量輸送流通の中心は水運で、当時の船着き場の跡で当時の川幅は今の三倍あった。
その目印でもあった灯篭が残っています。

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by enokama | 2015-09-02 20:43 | 歴史連載 | Comments(0)