エノカマの旅の途中

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カテゴリ:歴史連載( 69 )

欧州での産業革命は高炉が発達し、鉄の大量生産が始まったことも大きい。
技術の進歩で製造コストが安く、従来の青銅製の大砲と比べて強度も遜色がなくなり、大型化も可能な鉄製の大砲が広まっていった。
その鉄製大砲を鋳造し、生産する目的で日本でも製鉄の近代化を図って高炉が各地に建設され、炉内で発生させた熱をその天井で反射させ高温を実現し、鉄の熔解を可能とするその方式から「反射炉」と呼ばれた。

嘉永三年(1850)に佐賀藩(→こちら)が反射炉建造に着手し、大砲鋳造所も設け長崎警備の台場に据え付ける大砲を制作し、青銅製から鉄製に移行させていた(のちに幕府向け大砲も制作)。
五年には薩摩藩、六年には下田(韮山に移転)、安政二年(1855)に水戸藩が着手し、四年には水戸藩の事業に携わった南部藩の大島高任が那珂湊反射炉に供給する鉄鉱石を製錬する高炉を釜石に建設した。未稼働に終わったがにも反射炉が現存している。
以上に上げた施設にピンときた人も多いでしょうが、そのほとんどが世界遺産(明治日本の産業革命遺産)に登録されたものであるので、選考の基準にもなったものと思われます(なぜ萩が入って、那珂湊が外れたのかは疑問だが)。

佐賀藩が初の反射炉建造を果たしたが藩主の鍋島閑叟が直に江川英龍に面会して、藩士の本島藤太夫が英龍の直弟子となって学びその中心人物となり、英龍の召し抱えた技術者たちが支援した経緯もあって、自身でも反射炉建造を願い、品川台場築造の命が下りその台場に据え付ける大砲製作の必要性もあって、安政元年(1854)ようやく許可が出た。
当初は天城山の土を使った耐火煉瓦を使用し下田に建造していたが、日米和親条約締結後にペリー艦隊が下田に入港し、この際に上陸した米兵がこの工事を目撃してしまったこともあって、機密保持の観点から基礎工事まで済んでいた場所から韮山へと移転が決まった。
安政元年十一月の大地震で工事も影響を受け、翌二年一月に英龍は完成を見ずして死去。その計画は長男の英敏に引き継がれ、風水害も相次ぎ難航したが、佐賀藩からの技師派遣による協力も得て、安政四年七月にようやく連双二基四連による稼働を果たした。
周辺部には大砲製作に関連する建屋がいくつも作られた。
現在では反射炉のみ残され、炉周辺部は鉄骨での補強により外観が変わるも、当時実際に稼働したもので唯一現存する貴重な史跡となっている。

こちらはあまり観光客もいなくってゆっくりできた江川家住宅に対して駐車場も広く、マイカーや大型バスも多くってにぎわっておりました。
2016年3月に訪れたんですが「世界遺産決定」の効果も大きかったようで
以前は知らないけど、土産屋も大きく周辺も公園として整備がされておりました。
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by enokama | 2017-04-22 14:42 | 歴史連載 | Comments(0)
江川家住宅の東に1506年、江川家によって建立された日蓮宗・本立寺(ほんりゅうじ)がある。
この現在では金谷と呼ばれる集落には、清和源氏の流れを汲む江川家(当時は宇野氏と称す)六代親治が京都での戦乱を避けて、孫の親信が十三人の従者とともにこの地に移り住んだのが韮山における江川家の始まりで(のちに狩野川の支流である江川から姓を改めた)その十三人の子孫が今もお住まいだそうである。
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by enokama | 2017-04-19 13:55 | 歴史連載 | Comments(0)

韮山~江川家住宅

伊豆地域の実力者であった江川家は戦国武将・北条早雲の伊豆進出の際に二十三代英住が臣下となって、屋敷の背後にある平山を提供し(韮山城築城)領地を安堵され以後、五代にわたって北条氏の家臣となった。
豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山に籠城する二十七代英吉と徳川家康に仕えた二十八代英長が対立する形となったが、英長がうまく和議を進めて父子ともに徳川家に仕えることとなり、徳川幕府の成立に伴い伊豆が幕府の天領となる際に江川家は世襲代官となって、この地を引き続き治めることとなる。
管轄地は幕末のころには伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐と広範囲に及び、石高は六~七万石に及んだ。


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主屋は1600年ごろに建てられたとされるが、部材に関しては室町時代にさかのぼるものも使われていて歴史を感じるものである。
現在は写真のように銅板葺きとなっているが、かつては茅葺きだった。
広大な土間は高さもあって、迫力のある梁や柱で残されている。
書院の塾の間では机が並べられて幕末の開明家で知られる三十六代当主・江川英龍(担庵)が開いた砲術を中心とした塾である「韮山塾」の往時が再現してある。
三間余四方十八畳の部屋で塾生の宿所でもあった。
弟子は佐久間象山、川路聖謨を始めに薩摩や長州と言った諸藩からも大山巌・黒田清隆と言った人物がいて、江戸と韮山を行き来する英龍は江戸でも講義を行ったが、韮山では実際に韮山城跡の土塁や屋敷の周辺地で大砲を使った実地訓練が行われた。
展示品には自作の短刀・煙管・絵画と言った物もあって英龍の多才ぶりがうかがわれる。
英龍に関してはここでは書ききれないぐらいのエピソードがありますが、品川台場やヘダ号の建造も大きな功績と言えます。
その韮山代官としての治世では農兵制や種痘の実施が特筆される事柄で、領民に慕われた善政を敷きました。
展示に関してはHPが詳しいです→こちら


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by enokama | 2017-04-16 17:09 | 歴史連載 | Comments(0)

韮山城跡と蛭ヶ小島

静岡のレポを再開します。韮山に行ってきました!

まずはこちらから、蛭ヶ小島。
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特に何があるということはないんだけど、昔から有名だったようで江戸時代に立ったような石碑もいくつかありました。


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by enokama | 2017-04-12 22:55 | 歴史連載 | Comments(0)

沼津藩と沼津兵学校

こちらも昨年3月に訪れた場所なんだけど、SNSでお勧めいただいたのが沼津でありました。
三島から沼津方面への旧東海道沿いのバスが多数あった(昔は路面電車が走っていたらしい)のでそちらで移動。
人口10万の三島に対して、20万の沼津はかなり大きな印象を持ちました。なんで新幹線が止まらなかったんだろう。
日枝神社近くでバスを降り、天城峠や修善寺の方から流れてくる狩野川(沼津が河口になる)を渡って、古刹の霊山寺に向かいます。。。
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by enokama | 2017-03-06 23:44 | 歴史連載 | Comments(0)

静岡(駿府)の幕末史跡

清水から静岡までは静岡鉄道で移動します。
JRの方が早いんだけども、港橋から新清水~新静岡から駿府城跡と移動が近いこともあります。
元々はお茶を清水港に運ぶために作られたそうですが、現在は二両編成の電車がかなり頻繁な本数で両都市間をつないでおります。
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by enokama | 2017-02-20 09:10 | 歴史連載 | Comments(0)

清水港~次郎長の史跡

ちょうど駅から西が宿場町で一通り回ったあと、清見寺の近くでバスに乗り(1時間に1本で本数が思ったより少ない)清水港方面へ行きます。
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by enokama | 2017-02-19 18:17 | 歴史連載 | Comments(0)
清見寺は徳川家とも皇室とも所縁の深い古刹である。
明治天皇やこの地に海水浴に訪れた大正天皇の御在所、昭和天皇の宿舎ともなった。
少し高台にあって、往時は三保松原方面の眺望もよかったらしいが今は残念ながらその面影はない。
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by enokama | 2017-02-12 01:43 | 歴史連載 | Comments(0)
東海道十七番目の宿場町が興津宿。かつては風光明媚な海岸があり「避暑地」として、井上馨、伊藤博文の養子・博邦、西園寺公望、川崎財閥の創設者・川崎正蔵ら明治の政財界の実力者らが競って別荘を建てた。
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大正天皇も海水浴に訪れている。
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by enokama | 2017-02-09 14:42 | 歴史連載 | Comments(0)
真木和泉は藩内抗争のあった久留米藩において、城下から12キロ離れた水田八幡宮(→HP)に蟄居した時期があった。
こちらも公共交通機関では行きにくい場所なので、行ってきました!
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by enokama | 2016-08-13 11:45 | 歴史連載 | Comments(0)