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エノカマの旅の途中

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  • 北垣国道と生野義挙~河上弥市の最後と山田顕義の生野訪問
    [ 2012-04-01 10:25 ]
  • 北垣国道と生野義挙~生野の町とその後の北垣・平野の運命
    [ 2012-03-31 22:45 ]
  • 北垣国道と生野義挙~挙兵決定と長州の同志
    [ 2012-03-30 23:43 ]
  • 北垣国道と生野義挙~但馬農兵の実現と美玉三平
    [ 2012-03-13 23:16 ]
  • 北垣国道と生野義挙~平野国臣と天誅組と新選組
    [ 2012-02-22 23:18 ]
  • 北垣国道と生野義挙~文久二年・尊攘浪士たちの結集
    [ 2012-02-21 23:12 ]
  • 北垣国道と生野義挙~長州の攘夷と奇兵隊の結成
    [ 2012-01-19 23:13 ]
  • 北垣国道と生野義挙~農兵構想と清河八郎の浪士組
    [ 2012-01-18 23:58 ]
  • 北垣国道と生野義挙~養父町能座・生誕地
    [ 2012-01-12 23:35 ]
  • 城下町大垣と水まんじゅう
    [ 2011-07-26 23:55 ]

semスキン用のアイコン01北垣国道と生野義挙~河上弥市の最後と山田顕義の生野訪問semスキン用のアイコン02

  

2012年 04月 01日

河上弥市らは北部の豊岡・出石藩の攻めに備えて
生野から八キロ北の山口・妙見山に陣を構えた。
元々城跡である岩洲山だが、山頂に妙見堂の祠があるので、地元住民からは「妙見山」と呼ばれていた。

ここに大石を運び上げ、大砲を引き上げ、水・兵糧を蓄えて麓の兵たちを狙い撃ちするべく
陣を築き上げた。

国道312号線から少し入った山口護国神社のバス停


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by enokama | 2012-04-01 10:25 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01北垣国道と生野義挙~生野の町とその後の北垣・平野の運命semスキン用のアイコン02

  

2012年 03月 31日

生野銀山を擁する生野は幕府天領として、また但馬の玄関口として栄えたところ(→詳しく

当時の掛屋(両替商のような場所)や宿屋の一部は当時のままに残されています!



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by enokama | 2012-03-31 22:45 | 歴史連載 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01北垣国道と生野義挙~挙兵決定と長州の同志semスキン用のアイコン02

  

2012年 03月 30日

第一回大会議のころ、京にあった北垣国道は
八一八政変と大和五條の挙兵に苦慮する長州人らと協議を重ねていた。
窮地に追い込まれた在京長州人からは、一日も早く「大和義挙」の応援を図るべきと
農兵を利用した「但馬義挙」の提案がされ、すでにその意思を持った平野国臣は但馬に下っていた。
北垣は「一年は農兵の養成にあてたい」との意見を述べ、但馬有志の大勢も同様だったが
のちに押される形で「烏合の衆」とも言える未調練で寄せ集めの強引な農兵の招集は、その杞憂の通り
「まったくの瓦解」と北垣が述懐するほどの失敗に終わったのである。

九月十九日の第二回大会議では早くも大和義挙に呼応した「挙兵」と決し、平野・北垣らは長州の同志
獲得のため長州に赴くこととなる。



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by enokama | 2012-03-30 23:43 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01北垣国道と生野義挙~但馬農兵の実現と美玉三平semスキン用のアイコン02

  

2012年 03月 13日

薩摩出身で美玉三平と言う男がいた。
清河八郎らの「虎尾の会」にも名を連ねて、過激な尊王攘夷活動に入り
薩摩でも強硬な一派だった有馬新七、大山綱良らの画策した
長崎での外国人襲撃計画(未遂に終わる)にも関与していた。
有馬らが上意討ちされた寺田屋騒動では捕われの身となったが江戸へ逃亡し
文久3年(1863)3月に但馬の地へ逃れ、中島太郎兵衛・太田六兵衛らの豪農層と知り合い意気投合し
能座の北垣国道宅にも匿われ、ここで三条実美にあてた農兵組織の建白書を認め
五月下旬、北垣と共に上洛する。


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by enokama | 2012-03-13 23:16 | 歴史連載 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01北垣国道と生野義挙~平野国臣と天誅組と新選組semスキン用のアイコン02

  

2012年 02月 22日

文久3年(1863年)3月に平野国臣は釈放された。
平野についてはエピソードも多いんで、別口で調べてみたいとも思ってるんですが
福岡藩「筑前勤王党」の首魁・月形洗蔵の考えも「土佐勤王党」の武市半平太と同様に
「挙藩尊王」と言った、あくまで藩を軸とした組織だった行動であり
文久~元治と言った時期に、各地で多くの尊攘志士が倒れ、命を落とした中でも
その勢力は比較的温存され、窮地に至った長州救済~薩長同盟へと重要な動きを示した。

そんな中で早くから脱藩を繰り返した平野は異端な存在とも言え、大藩・薩摩を「公武合体論」から
「尊王攘夷」へと動かそうと、薩摩脱藩士・伊牟田尚平らと盛んに暗躍し
西郷隆盛には勤王僧・月照の保護を依頼されるなど、信頼関係にもあった。
思想的には彼の論文から見ても「討幕」(廃幕と言うべきか)の態度を早い時期から鮮明に示したものであり
先鋭的な活動家で、幕府側から見れば最も警戒すべき人物の一人であった。

挙兵へ>>

by enokama | 2012-02-22 23:18 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

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2012年 02月 21日

いわゆる「倒幕」って言う気運がいつから具体化したっていうのは
それぞれ議論はあるだろうし今回の中村武生氏の本でも、いろんな解釈で触れられていて
興味深かったんですが、僕としては慶応三年の四候会議の後かなと思っています。
「薩長同盟」は薩摩から言えば、幕府とも一線を画して独立性を保ち
その再度の増長を警戒しながら、有力雄藩との連携による動きも引き続き模索し
と言えばきれいに聞こえるけど、ある意味どの勢力とも組むことができるフリーハンドな立場を求めていた
面もあったかと・・・まあそれがしたたかって言われる所以でもあるけど。
幕末の薩摩は西郷・大久保の主導って思われがちだけれども、慶応3年10月に「討幕の密勅」が出て
藩論を以て上洛挙兵が実現するまで、完全に藩を掌握できる立場にはなかったんじゃないかと思う。
ずっと公武合体で来た両高崎らの勢力や、もちろん幕府寄りの保守派もあって、一致した藩論ってのが
この時まで出すのにいたらなかったのだ。

藩主でもない島津久光が藩政を掌握した際に「精忠組」を懐柔して取り込んだ時に
個人行動(突出したテロ活動等)は止して、藩ぐるみで行動すると言い納得させたと伝わるが
その過渡期にあったのが、文久二年(1862年)のいわゆる「寺田屋騒動」に至る動きだった。
年明け早々に和宮降嫁を推進し「公武合体」を推し進めた幕府老中・安藤信正が江戸城坂下門外で
水戸藩士に襲撃され失脚するなど、井伊暗殺で世が動いた事実から「天誅・テロ行為」が幕府に対して
尊王・攘夷を迫る手段として最も激化した時期であった。
そして、本格的な「倒幕」に向けた組織的な武力行動へと発展して行く。

もっと過激に>>

by enokama | 2012-02-21 23:12 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

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2012年 01月 19日

天保13年(1842)朝廷の長年の宿願であった、公家子弟への教育機関「学習院」が創設される。
教育内容は一般的な儒学(朱子学・陽明学)・国学と言った学校であったが
桜田門外の変後、再び直接深く朝廷と結びつこうとした、諸藩との折衝の場としての役割も持ってきていた。
「安政の大獄」は幕府の許可なしに、諸藩が朝廷から勅命を以て幕政改革を図ろうとする勢力を弾圧
再び幕威を高めようとする側面もあったが(元来の「法度」の遵守と言う面で、一方的な弾圧とは取れない)
井伊直弼の死により「尊王思想」また、孝明天皇を始めとする朝廷の大多数を支配する「攘夷論」と
結びついた「尊王攘夷派」が京都を中心において、さらに台頭してきた。

この勢力は「学習院出仕」と言う名目で名だたる志士たちが集結し
学習院内は「尊攘派」によって固められ、中下級の公家たちにも彼らに感化され、同調した行動を取るものが現れた。
その代表的な尊攘派公卿が三条実美、姉小路公知。その周囲には久坂玄瑞・真木和泉・平野国臣と言った
そうそうたる尊攘志士メンバーがいた。
(八一八政変後、三条ら「七卿」は長州三田尻に落ち、そちらが一時的に拠点となった)

久坂は文久2年終わりごろから学習院に出仕し、朝廷内での尊攘勢力拡大を目指す一方で
翌3年2月になって、久坂らは「航路遠略策」を掲げた政敵とも言うべき、長井雅楽を切腹に追い込み
長州藩論を「即今攘夷」に向かせ、学習院はそれらの志士に牛耳られていた現状だった。

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by enokama | 2012-01-19 23:13 | 歴史連載 | Trackback | Comments(2)

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2012年 01月 18日

北垣国道(当時は晋太郎) は7歳の時から、八鹿町宿南(現養父市)にあった青谿(せいけい)書院の
儒学者・池田草庵に入門する。
草庵は荻生徂徠の流れを受けた、古文辞学派の儒学者・相馬九方に18歳で上京し入門。
のち京都一条に塾を開き、30歳になって故郷に帰り、天保14年(1843)35歳の時、この地に塾を開く。
草庵は佐藤一斎の影響を受け、朱子学と実学を重んじた陽明学を教えた。
福知山藩や豊岡藩学校でも教鞭を取って、全国各地30か国から延べ673人の門人を集めたと言う。

建物は二階建で、二階が塾生の宿舎、一階が草庵の居室とされ、当時の貴重な遺構が残っている。
(屋根は老朽化のために葺き替えられている)
隣接して資料館があって僕が行ったときは、ちょうど横のお住まい(池田さんで子孫の方だとか)
に管理人さんがおられたので開けていただき、見ることができました。
中には1153点にも及ぶ県指定文化財が管理されています。
著名な儒学者との書簡が多数、展示されていました。



農兵構想>>

by enokama | 2012-01-18 23:58 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

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2012年 01月 12日

まずは最近の歴史番組の感想を。。。

大河「平清盛」は龍馬伝ばりの画像でしたが
それを兵庫県知事が噛みついたってことで話題になっていました。
例のごとく、新聞がその部分を切り取って煽ってるのかなとも思いましたが
ウチで取っている地元紙の表現も、伝えられているものと大差なかったので
こればっかりは知事の言い過ぎじゃないかなと、弁護の余地もありません・・・
こんなことばかりだから、ドラマがつまらなくなってしまうんやろね。。。
NHKは「また華やかなシーンも出てくるから」って受け答えていました。
鮮やかな平安貴族絵巻とのギャップってのも狙いだと思うし
初回は貴一さんやまえだまえだ君の好演もあって、まずまずだったと思います!

今週のヒストリアはその平清盛の一生について
僕もほとんど知らない時代のことなので、わかりやすくまとめてあったと思います。
要するに短期間でのし上がった平家の「出る杭が打たれた」って感じなのかな・・・

今日のBS歴史館は新選組でしたが、特に目新しいことはなかったように思えました。
(て言うか、根本的に自分自身の興味がなくなってるのかもしれない・・・)
あとは解釈の問題ですが、今日の解説者じゃ何の発見も面白さも感じられません。
あのじーさんはまた「坂本龍馬の発想(←な訳ないだろ)で土佐の自由民権が始まって、それに似たような」
って多摩の自由民権運動の事を言ってました。
O石氏は「新選組は国民軍」って表現を使いました。
どっちも全然違うと思うんですが、言った者勝ちなんですね・・・


今日から新しい連載記事を始めます。
但馬は現在、兵庫県北部の地域となっていますが
主にこの地が舞台となった「生野の乱」に関連した史跡と人物を追います!

但馬の史跡>>

by enokama | 2012-01-12 23:35 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)

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2011年 07月 26日

市立図書館にも行ってきたんですが、専門 の「歴史史料コーナー」があって
ここが大都市の図書館並みの蔵書だったので、びっくりしました。
かなりの貴重資料もありそうです。。。
今回の記事もコピッたもので、引用しています!

一方こちらはお城の南端あたりにある、松尾芭蕉「奥の細道むすびの地」であります。
ここ続けて江戸時代の詩人や旅の話をしてきましたが
なんと言っても、芭蕉は一番有名だし、各地に足跡をたくさん残していますよね!


近くに資料館もあります。。。

水まんじゅう>>

by enokama | 2011-07-26 23:55 | 歴史連載 | Trackback | Comments(0)