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エノカマの旅の途中

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福井へ行って学んできたこと

今回の目的は従来からあった、幕末・福井藩での出来事について「なぜ、どうして?」
と言った疑問について激しく知りたい、学びたいと言う思いでのものでした。

講演、交流会での各先生方への質問。二日目のガイドさんや「越前龍馬会」の方のご案内。
今回の「福井郷土歴史博物館」での貴重な展示等、多くの収穫を持って帰ることができました!

特に「福井郷土歴史博物館」では優れた幕末維新記録文献とされる
松平春嶽「逸事史補」 村田氏寿「続再夢記事」の原本。
西郷隆盛から橋本左内、坂本龍馬から村田氏寿への書簡など、ずっと前から見たかった資料が
一同に展示してあって、ほんと感動しました!
(ツアーの40分では足らないんで解散後にもう一度訪れ、1時間以上再度じっくり見てきました 笑)
今回わかったことを年度を追って書いて行きたいと思います。。。

「橋本左内」(以前の記事
橋本左内の「安政の大獄」での非業の死について、「逸事史補」に生々しく書かれています。

 「段々評議を遂げるのところ、さして格別の罪状もなく、さりながら罪状なしとも申しがたく
 ・・・流罪、追放、永蟄居位にて刑事伺い差し出し候ところ、老中もこの位にて然るべしとの
 評議相成り、大老掃部頭へ差し出し・・・一両日留置、なおもって附札相下げ申すべきの事
 俄かに掃部頭より附札に死刑とありて、一同心中驚愕せり・・・」

判決文を大老にお伺いを出したところ、附札が貼られ「罪一等を上す」として帰ってきた一件。
井伊にとって自分の施策(開国とは何ぞや?)に一番、同調する可能性もある人物を結果、殺してしまう。
「見せしめ」だとお聞きしましたが、結果的に自らの首を絞めることになった出来事です。
(「見せしめ」でひどい事例は、敦賀での「天狗党」の一件。近世ではプロ野球の「黒い霧事件」
西鉄ライオンズの池永正明投手にも言えることでしょう)


「春嶽と坂本龍馬の出会い」(以前の記事

「逸事史補」では、やはり龍馬が岡本健三郎を伴って訪れたと書かれているそうです。
しかし、今回展示してあった村田氏寿「続再夢紀事」には
文久二年十二月五日、政事総裁職の要職にあった春嶽が江戸城より常盤橋藩邸に帰った
午後十時ごろより後、大坂近海の海防策の申し立てを土佐藩、間崎哲馬・坂本龍馬・近藤
長次郎(正式な長は凄く難しい、順は原本のまま)と対面し聞いたとありました。
確かに間崎が中心人物だったのが事実のようです・・・
しかし、政府のトップに近い人物が遅くまで仕事した後で疲れてるだろうに、翻意にしている
土佐の家来とは言え、身分がそう高いとも言えない者の意見に耳を傾ける。。。
春嶽さんは、ほんとそんな人物なんですね!


「神戸海軍繰錬所(追記・正しくは「勝海舟海軍塾」→関連記事)への五千両の出資」

講演でもありましたが、当初から「千両」と決まっていた額を予定通り借用したまでの話で
その任を龍馬が果たしたのは有名な話です。
でも十分大金ですし、福井からも藩士を多数派遣してるので期待は大きかったのでしょう!


「挙藩上洛計画の挫折」(以前の記事

この計画の際、三岡八郎や酒井十之丞と言った藩士は薩摩に行き、一部からはいい感触
をもらってます。一方、村田氏寿は薩摩の吉井幸輔や坂本龍馬らと京都で接触しています。
しかし「時期尚早」として福井へ戻ります。
結果、側近・中根雪江らの判断を受け春嶽は中止を決断します(文久三年七月)
このことはやはり親藩と言う立場の縛りが大きかったからだろうと言うことです。
後、薩摩側には福井とも縁のある西郷隆盛がいましたが、この時は「島流し」でいませんでした。
このあたりの影響もどうだったでしょうか?
結果、薩摩は会津と組み(薩摩は一つの方針にこだわらずに、いくつのかの対案を作り
うまく時局を捉えていた)のちには長州と同盟し、最後に憎悪は会津に向かうこととなります。
ここで春嶽が思いきった判断ができていたら(そちらでも厳しい。下手したら国もつぶしかねない)
のちの会津の方の恨み(京都守護職就任の経緯も含めて)もなかったんじゃないかと思います・・
by enokama | 2008-10-28 22:27 | 福井藩 | Comments(0)