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エノカマの旅の途中

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庄内へ行ってきました~新徴組と西南戦争と松ヶ岡

新徴屋敷(松ヶ岡開墾場敷地内)
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庄内に移住した新徴組隊士のために建てられた住宅。
鶴岡城下(大宝寺)にあったものを、松ヶ岡開墾の組屋敷として移築された。
当時よくこの地方で見られた石置き屋根。


脱走を図った者には新徴組隊士が多くいた。
元々の土着でもないし、東京へ帰りたいと思う者が当然現れた。
しかし、県幹部は彼らが庄内を離れることを固く禁じた・・・
その秘事を漏らすのを恐れていた。

実は開墾事業に名を借りて兵の離散を防ぎ、有事の際にと兵力を温存する目的もあったという士族の発言も残っている。
もちろん新政府はすでに、禁じていることだった。
当然、中央政庁は庄内士族の集結には疑念を抱き、警戒は怠らずされていた。
明治六年一月。ついに一部の新徴組隊士は雪中を集団脱走、司法省に強制労働の不当と兵力の温存を訴えた。
しかし西郷の働きかけで補助金も出ており、失業武士対策のモデルケースと称えられ、輝かしい事業としての評価は変わらずされた。

ついに明治十年、その疑念が生じる出来事が起こった。
下野して鹿児島に帰っていた西郷を戴いて、士族の大規模な反乱(乱ではなく戦争の規模)が起こったのだ。
当然、西郷を慕う気持ちの多い庄内士族の中では呼応する動きが出る。ここで兵力を温存している効果が出てくるのだ。
しかし立たなかった。いや、立てなかったのかもしれない。
全国に6カ所ある鎮台は当然、九州へ動員される。しかしただ一つ仙台だけは動かなかった・・
従来から「対庄内」の想定はしてあり、密偵の多くも領内にもぐりこんでいた。
また、旧藩主の忠篤と忠宝はドイツ留学中で、ここに決起するとなると戊辰戦争でほとんど影響のなかった領国を焼くことにもなりかねない。
菅自身も西郷が自ら立ったとは信じがたかった。ただ担がれたのだと見た。。

庄内が動かないことを確信した酒田県令・三島通庸や西郷従道は、その疑念を払拭するため西南戦争へ巡査としての応募を勧めた。
この時、東北諸藩の旧士族たちは「戊辰の仇」とばかりに多くの者が政府軍として参戦していた。
会津の猛将・佐川官兵衛もその一人で熊本・南阿蘇の地で戦死している。
ただ、庄内は当然のことながら、一人として応募する者はいなかった・・・
また当時は現在ほどの交通も整備されておらず、実際に馳参じようとした者もいたが
結果、鹿児島までは遠すぎて間に合わなかったと言う。 

ただ二人の庄内藩士だけが薩摩側として、西南戦争に参戦した。
鹿児島・私学校に留学していた伴兼之と榊原政治で、それぞれ植木・延岡で戦死する。
彼らを預かっていた篠原国幹と西郷は、さかんに帰国を勧めたが結果、薩摩に殉じたのである。


この後の庄内の動きは酒田編にて・・・

by enokama | 2008-10-22 23:19 | 庄内藩 | Comments(0)