庄内へ行ってきました~ 戊辰戦争と松ヶ岡
幕末、庄内藩の藩政をリードした菅実秀は、あの長岡藩の悲劇で知られる河合継之助同様
その才覚をもって異例の昇進を重ね中老にまでになった。
そして佐幕で藩論を統一、新政府軍に対して徹底した抗戦に入る。
もし、藩領が激しい戦いの場となり、彼が悲劇的に死んだとしたら、河合のように「敗者」を語る
ことの多い日本史において、有名になっていたに違いない。
庄内とともに朝敵とされた会津、また長岡と違ったところは、藩領をほとんど戦場とすることなく
「攻撃は最大の防御」として他国の領地に攻め込み、最新兵器を持って、お得意のゲリラ戦法を用い相手を霍乱、ほぼ連戦連勝のまま戦いを進めた。
新庄藩に至っては庄内の最新兵器をうらやみ、分けてもらった経緯がありながら
早々に新政府軍へ恭順しその兵器を使っていたが、これを攻め落とし続いて従来から勤王派が強く
西軍の奥羽鎮撫総督府・九条総督を引き取ったことを契機に、列藩同盟からは裏切り者と
呼ばれた秋田藩領にも激しく攻め立て、最新兵器も用いた新政府軍に対しても終始、優勢な戦いを進めた。
中でも菅に傾倒し、二番隊長「鬼玄蕃」と恐れられた酒井了恒は
「戦陣で食糧の乏しい時は自身には一膳で済ませても、兵には二膳を与えよ」
「兵が寝る前には寝るな。常に兵より苦労しろ」
「作戦においては決して固辞をするな、ぶつかってダメだったらすぐに避けて固辞しない」
との教えを守り、士気を高め結束を固めた。
しかし、その素顔は長身細面の青年で詩作家でもあった・・・
また民家、村落を荒らすことや野菜一本も取ることもなく、捕虜・間諜も殺すことなく
永年、徳川家に受けた恩義に報いるため正々堂々と戦った。
そして東北における最後の恭順者となったのだ。
敗戦後の西郷の意を受けた黒田清隆の戦後処理は、会津とは違って寛大であった。
「武士が一旦、兜を脱いで降伏した時は後のことは見ないもの・・・」
西郷は一旦は叩いた長州の処理でも、慶喜の意によるさらなる戦いは断固阻止しようとした。
(五卿の移転と征長軍解兵の工作)
「我が藩が無名の戦を起こしてしまったのは誠に遺憾であった」と言う菅に対し
「貴藩は幕府の親藩であって、三百年の恩顧がある徳川氏のために国運をかけてその回復
を計るのは当然のことであり、恥じることはない」と語ったのは、西郷に心酔する一人である大山綱良。
ここに長州とのスタンスの違いが見える。
この後、庄内の人たちは西郷・黒田と深く交わるようになる。
その一環の一つが「松ヶ岡開墾場」だった。
弥太郎と龍馬の関係の松岡さんの講演が日曜日にあるようで、
これに行ってきます。こう言うのはこちらで少ないんですよね、初め
ての参加になります。ちょっと緊張。
もちろん行きました。
もう1、2回記事にします(笑)
あと、取っておきの写真があるんですが、このペースだと1ヶ月後かも(苦笑)
それぐらい、充実した旅行だったってことです!