天誅組と五條 その3~乾十郎
櫻井寺南の国道24号線を挟んだ一つ目の通りに碑があるが、当時の寺域はかなり現在より
大きくて、門前にあたる場所に住んでいた。
天誅組の地元・五条出身者の中に乾十郎がいる。
司馬遼太郎の短編にもなっているが奇人だったらしく、早くから代官所を襲う思いがあったとかないとか・・・
梅田雲浜にも学んだ憂国の士で(神戸にいたころの勝海舟や坂本龍馬との因縁もあったらしい)
地元を流れる吉野川の分水路計画を立てたり、吉野の木材運搬にかけられる税金問題など
領民側に立った行動もあり、このこともあって反幕尊王の意を強くしていったのかもしれない。
乾十郎顕彰碑(正五位)
五條を押さえた天誅組だが、その行方には早くも暗雲が立ち込める。
その襲撃の翌日(8月18日)に思いもよらぬ、朝廷での公武合体派のクーデターが起こり
彼らの後ろ盾だった尊王攘夷派の三条実美らの公卿達は京を追放されるのだった。
当然「大和行幸」は中止となり、一転して彼らは賊軍とされる。
地元での募兵や元来、勤王の志の強い十津川郷士などを見方につけ、攻勢をかけるつもりが
この急変を聞き、その多くが離れていってしまう。
市南部の天辻や十津川へと本陣を転々とするも、討伐される側となった彼らは次第に追い詰
められ、最後は小川郷鷲家で3総裁が戦死。
残りの兵たちも捕縛された者は京都・六角獄に送られ、斬られた。
乾十郎も「禁門の変」のさなか、平野國臣や古高俊太郎といった志士達とともに斬られる。
乾十郎墓所
この戦いは「討幕」を鮮明にした初めての戦いとなった。
彼らは早すぎたのかもしれないが、この場所から「維新の魁」となったわけで非情な判断も
数多くあったものの、確かに時代は動いたのだ!
五條は静かな所でした。。。この出来事は当時、ほんとに衝撃だったでしょうね。