エノカマの旅の途中

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九州に行ってきました!~太宰府と幕末維新1

1863年8月。薩摩と会津の策略により(公武合体で一致していた)朝廷内の主勢力を
握っていた長州勢と、その関係の深い尊攘派7人の公卿たちが追放された。
いきおい七卿は長州に下ることとなり、三田尻英雲荘の大観楼に落ち着く。
それまで付き従ってきた衛士たちは、隣接して設けられた招賢閣と呼ばれる会議所に入り 
それを慕う各脱藩の志士たちもぞくぞく集結し、京都での尊攘派の本拠が移転した形で
一大拠点の様相を呈した。その中に土佐の勤王党弾圧の動きから逃れるため、やむを得ず
脱藩する格好となった中岡慎太郎の姿もあった。
一方、この年の暮れには、薩長融和を図る福岡藩士との接触が早くも始まっている。

翌1864年。長州の禁門の変・敗退後、降伏の条件として3家老の切腹とともに
五卿動座」(征長軍解兵と平行して)が条件として出される。
この年の秋には俗論派の巻き返しによる影響で五卿は湯田を経て、長府の功山寺に
入っている(高杉の挙兵時に拝謁しているのはこのため)
五卿の受け入れには藩主の率先した意向もあり、福岡藩が名乗りを上げ、また長州へ
の寛典も願い出る。
しかし象徴的な存在である「五卿動座」には長州の各諸隊から当然、反発が起きた。
この困難な作業に筑前勤王党の面々と説得に当たったのが慎太郎で(征長総督参謀
と言う要職を務めていた西郷隆盛にも、これ以上長州を追い詰めたくない意向があった)
翌1865年1月に五卿の太宰府動座が実現している。
それに従い、慎太郎も太宰府に入り、今後は太宰府延寿王院を拠点とした活動に入る。
これらの交渉により、慎太郎と西郷の間には同志的関係ができた。
一方、五卿の首領格・三条実美の慎太郎に対する信任も、とても厚いものとなった。

太宰府天満宮本殿前の飛梅
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by enokama | 2008-06-27 00:45 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)