エノカマの旅の途中

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幕末福岡藩の動きと挫折~明治維新前後 

慶応2年(1866)1月、福岡藩士たちによって最初に構想された「薩長同盟」はその筑前勤王党が
壊滅したあと、引き続き土佐の中岡慎太郎・坂本龍馬らの奔走が中心となって成立の運びとなる。
また、この年3月「長州再征」の動きのなか、大宰府に転座していた「五卿」の処遇について
佐幕派のみとなった福岡藩に対し「罪人としての江戸への護送」を命じ
幕府目付・小林甚六郎を派遣し、藩政府は応じる構えを見せた。

この動きを懸念した西郷隆盛は薩摩より兵を大宰府に派遣し、武力威嚇し五卿を守った。
もう幕威も衰えてきたとも言え、薩長同盟成立後の薩摩からの武力援助も得られた
長州の第二次征長「四境戦争」(6月)の勝利により、幕府は五卿の引渡しを完全にあきらめた。
このころの福岡藩は完全に、その流れに置き去りにされている。




1867年12月。大政奉還→王政復古の大号令の後、五卿の復官・帰洛が認められ
引き続き筑前勤王党の拘束者が釈放された。
翌年早速、早川勇は新政府に出仕を求められ(五卿の有力者・三条実美の推挙が大きい)
県知事格として維新後の奈良県に赴任する。

1869年3月、福岡藩の元勘定奉行で既に引退していた山本一心が、矢野安雄・福間重巳ら
藩重役(多くは勤王党出身者)に太政官札の贋作を提案する。 
太政官札は福井藩出身の由利公正(三岡八郎)が、藩政で実践した国債的なもので、まずそれを元に起業し
生産された物資の売価によって正貨に変えて行くもの。戊辰戦争の戦費にも大いに役立ったと言う。
そして、藩札の発行は禁止され石高に応じて太政官札が貸し付けられ、一部は即金での支払いが求められた。
福岡藩は財政窮乏の中、大阪商人に太政官札を半額で引き取ってもらい急場を凌いだ。
しかし、その後太政官札の信用が高まり正貨以上の価値が出て、結果的に大きな損害を被ることとなる。
山本は戊辰の役の出費、新政府への拠出金(一応、大藩と言うことで北海道の一部の開拓も命じられた。
やってることは旧幕と変わりない)
などで窮乏の藩財政を救うためにはこの方法しかないと説明する。
ついに重役達も承知し、空家となっている元家老屋敷を工場として制作にとりかかり、のち山本一心が
過労で倒れた後も続けられ(ほどなく死去。自殺説も)藩財政はなんとか表面上保たれた。

しかし1870年6月、贋作に携わっていた職人が賃金面で不満を持ち政府に告発。
また、北海道で買い付けた物資の支払いに大量の贋作紙幣が使われていたことが露見。
他の藩でも大なり小なり贋作紙幣が作られていた事実もあったが
福岡の場合、あまりにも大規模であったことも災いし摘発された(福岡藩鴈札事件)
責任者はすべて逮捕され、東京に護送される。
彼らにとっての誤算は、この行いは藩のためであり、家族は藩から優遇されるだろう
と思っていたところ、藩に迷惑をかけた罪人の家族と扱われた。
この事態を重く見た藩では急遽、早川を呼び戻し、新政府との交渉を西郷隆盛に託し(鴈札作りは
福岡だけではないと主張)
たが、当時重罪とされていたこの種の事件には及ばず直接責任者だけでなく矢野、立花増美の重役
(大参事。旧家老職にあたる)も含め5人の死罪と言う重い処分(1871年6月)
また「廃藩置県」を待たずして藩は取り潰され、黒田家は福岡を去った。
(7月4日。「廃藩置県」は7月14日に実施)
藩に対する極刑と言っていいし、見せしめとされた。

そして、改めて設置された「福岡県」もう旧藩士の居場所はなくなっていた。
その後西南戦争に呼応して、福岡士族も決起を図る(福岡の乱)
しかし、ほどなくして鎮圧。首謀者、加藤堅武(父加藤司書)武部小四郎(父建部武彦も加藤司書と親しく
連座して切腹している)ら5人が処刑。
親と同じ運命をたどった悲劇・・・悲劇の連鎖は続いて行っている。
のちに彼らの流れは自由民権運動→右翼思想とされる「玄洋社」と変化して行くのだ。
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by enokama | 2007-12-29 01:08 | 福岡藩 | Comments(0)