幕末福岡藩の動きと挫折~赤祢武人
その時の奇兵隊総督・赤祢武人は別の動きを見せていた。
赤祢は周防・岩国のはるか沖合の小島・柱島の出身(医者の子)
周防大島の対岸(本州側)大畠にあった妙円寺の僧で、勤王僧とも海防僧(徹底討幕論者で海防の重要性を唱えた)とも呼ばれた月性が開いていた清狂草堂に学んだ。
同門には世良修蔵・大楽源太郎(いずれも後に非業の死を遂げる)らがいる。
のち吉田松陰(月性との交流があった)の門下に入り、京に上って大儒の梅田雲浜にも学んでいる。
第一次征長後の俗論派の握る藩政下で高杉不在時、いわゆる奇兵隊を始めとする「諸隊」は
長府・功山寺に移ってきた五卿警護の名分のもと、この地に集結していた(長府藩独自の判断)
近辺の寺院に駐屯した、その諸隊の数は2000を超えたと言う。
そして、赤根らは打開を図るべく萩の俗論派との交渉に入り、諸隊の慰撫をもって
獄中にいる正義派の要人たちの生命の保証を取り付けていた。
(人質とも言え、高杉の挙兵後に彼らは処刑される運命となる)
当時の状況では現実的で妥当な判断だっただろう。
当然、高杉の挙兵計画を聞き、赤祢は反対する。
現実この挙兵は無謀と見え、大いなる賭けだったかも知れない(実は計算はされていた可能性もある)
そして奇跡的に勝利し、その中心となった諸隊は次の征長戦にも勝利する。
赤祢はこの後、五卿動座の地・大宰府にいた。
長州の強硬論を抑えての福岡藩の五卿動座・征長軍の解兵への働きと成果だったがここに至り
この処置を喜ばぬ幕府より「江戸への五卿護送」を求められる。
当然、決死の覚悟で実現したことでもあり、圧力に屈することは許されない。
ここで西郷隆盛の働きかけもあって、福岡藩より早川勇・筑紫衛を京に派遣し、情勢を探らせることとなる。
この2人の上京を聞き、赤祢(他1人)も次の自らの居場所を求め同行を願う。
早川は西郷とも話し合い「使えることもあろう」と許可する。
3月6日、福岡を発った。
また、このころ西郷・早川らの間では、この次のステップとして「薩長筑同盟」と
「五卿帰洛・復官」の案が出されていて、赤祢らも当然知ることとなる。
しかし、これが裏目に出た。赤祢らは大坂にて幕吏に拘束されてしまう。
そして、この秘事も福岡藩「筑紫、早川」との名前も出てしまったため、構想は流れてしまったとも伝わる。
このことが元来強かった、福岡藩佐幕派に口実を与えてしまうこととなる。
第二次征長が現実を帯び「長州の次は筑前」と言った流言が聞かれるようになる。
そして4月の末、早川らは帰国を命じられる。
この時点で筑前勤王党の活動は完全に終わり、この年の2月の人事でいわゆる「勤王派内閣」となっていて
西郷からも期待された政権の中心、家老・加藤司書も5月に罷免される。
そして、勤王党の一斉検挙へと続いて行く。
赤祢はこの後入獄し、新撰組の伊東甲子太郎・幕臣永井尚志と言った面々に建言が採用され
出獄が許され、近づくこととなる。そして、その文言に基づき第二次征長直前、自ら周旋しようと
再度、長州に入るが理解されることはなく拘束され、裏切り者として処刑される。
彼は有能で、時期が時期なら十分な仕事もできたのではないだろうか。
高杉の活躍の裏で、時代に翻弄された一人でもあった。
また、彼の事を快く思わない長州人は当然多く、誤解を受けなかなか復権が許されなかった。
ぼちぼち、山口では彼の正当な評価を問う声も出てきて、書物も出版されている。