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エノカマの旅の途中

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幕末福岡藩の動きと挫折~筑前勤王党 

早川勇(養敬)

筑豊を流れる遠賀川の河口近く、虫生津(むしょうず)村(現・遠賀町)に生まれる。
大庄屋の息子と言う立場は、土佐の中岡慎太郎と同様、庶民の生活の矢面に立つこととなり早川も幼いころから勉学に励んだ。
のちに慎太郎と知己となる下地はこのころからあった。
12歳のころ、近隣の福岡藩の大儒・月形一門の月形春耕の私塾に習い、その学識を買われ
15歳で福岡城下の本家・月形深蔵の元に入門する。
ここで、深蔵の息子・洗蔵と起居を共にし、のちの勤王党活動の同志となる。
このころ、月形一門は尊王攘夷を唱え、勇も多大な影響を受けていたが一旦は医者を目指し(周囲の人物に比べ身分が低いのを感じてか?)江戸留学後、村医として開業する。
「養敬」とはこのころの医者としての名前である。

しかし、時勢は彼をほっとけはしなかった。
日頃から議論を戦わせてきた洗蔵や藩医の最高位の名家の出ながら、激しい尊王攘夷論を語った鷹取養巴に引っ張り出される形で
福岡にて勤王党活動に身を投じることとなる。


黒田長溥(ながひろ)

島津藩の出。蘭癖大名と言われた島津重豪の子で、のち福岡藩・黒田家の養子となり、11代藩主となる。
先代10代藩主・斉清も蘭癖大名であり、治政は家臣に任せきりで、むしろ学者として名を馳せた。
長崎にいたシーボルトとも交流があって、主として本草学(草木等の植物)の研究で多数の著書も残した。

そんな影響も受けて藩主就任当初から開国通商論で、嘉永6年(1853年)阿部正弘の行ったペリー来航における幕府の意見微集では、各論喧々諤々の中、最も強硬な幕政批判を以てまだ唱える者も少なかった開国論を主張したことでも知られている。
一方、藩内では写真・時計・ガラスそして軍制改革等、近代化路線を推し進めていた。
ただし急激な開明論には元来、保守的な門閥層や根強い尊攘論(勤王党の勢力が強かった)の前に肝心な財政再建が達成できなかったこともあって、掛け声だけで中途半端に終わってしまった感が強い。
また、福岡藩は佐賀藩と隔年交代で長崎警備の任に着いていたが
佐賀藩は財政を立て直して、長崎でも砲台の強化を進め、その任務を十分に生かした外国からの情報収集等で知識も得て近代化を図り、藩内での武器製造にも踏み切るほどの幕末に大きな存在感を示したのに対して
福岡藩は意気込みこそ見せたものの、対照的に大きな遅れを取ってしまった感が強い。

また、有為の青年を長崎はてはオランダへと留学させて、人材教育に力を注いで維新後に多数の福岡出身者の外交・法律畑での活躍の下地を作った(団琢磨、金子堅太郎ら)
外交面では出身の薩摩とのパイプの他に、幕府の征長には批判的で「全国一和」を願い、長州藩の救済に動いた。
勤王党とは反目・協調をくりかえしながらも、独自の路線を進もうとする。
しかし、彼は結果的に(後年からすると)非常に誤った判断を下すこととなる・・・

by enokama | 2007-10-21 12:41 | 福岡藩 | Comments(0)