養浩館庭園と福井城
福井城本丸より、北400mの位置にある江戸中期に作られた別邸。藩の迎賓館等として使用された。
水上に屋敷のある「御泉水屋敷」(回遊式林泉庭園・養浩館の名は明治以後で松平春嶽が命名)
福井大空襲にて、荒廃していたものを2004年、隣接する「郷土歴史博物館」の建
設とともに復元された。
(明治以降も、松平家もしくは県の迎賓館として使用された。図面がしっかり残っていたので
忠実に復元されているそうです)
福井市立郷土歴史博物館は、従来足羽山にあった施設を拡充移転されたもの。
冬季以外は夜7時までとなっているので訪れやすい。
史料は越前松平家の寄贈文庫(春嶽の書や明治以後の「逸事史補」と言った膨大な書物等)があり
たびたび特別展で展示されているようだ。
今回は1600年に福井にやってきた藩租・結城秀康(徳川家康の第二子)の展示が行われていた。
いわゆる親藩と言うわけで、幕末の微妙な難しい駆け引きもこのあたりが影響している。
面白かった展示が「馬威し」の絵。
騎馬で城下を駆け抜けようとする武士を、町人や農民が大声や鐘を打ち鳴らし
馬をおどして落馬させるというもの。
武士にとっては馬術の調練、市民にとっては日頃の鬱積をはらす機会となっていた。
この行事は春嶽も好んでよく行っていたそうだ。
福井城址
江戸中期までは天守があったが、火災消失後は再建されていない。
現在、城址丸々県庁の敷地となっている。
幕末の名君と知られた藩主・松平春嶽は改革派と言われる人物の多くと同様
養子で福井に入った。血縁のしがらみもないし、養子に入る人物もやはり優秀な人物が選ばれるからだ。
恩人ともいうべき側近・中根雪江の指導の下、水戸の徳川斉昭(水戸流の攘夷論はのちに捨てるが)
薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂。幕府の首相格だった阿部正弘や勝海舟、肥後の横井小楠と言った
開明派の人物たちと交わり、藩政でも藩校・明道館の改革に橋本佐内を登用(実践的な教育を目指す)
「富国富民」の策を取り、肥後から招聘した横井小楠や三岡八郎を中心に「物産総会所」を作り
生糸を中心とした殖産産業を起こし、長崎より輸出して利益をあげ、実際に開国貿易による利を証明した。
また、民政でも天然痘対策として全藩的に根付いた種痘を施したのも特筆されるだろう。
春嶽は佐幕とも尊王とも言えないような評価で両派から、中途半端な感じで思われていた。
ただし「開国」や「富国強兵」、身分にとらわれない人物登用での施策は一貫しており
前述の親藩の藩主と言う立場も考えたら、仕方のない面もあるだろう。
また、藩論の対立もあり、長谷部甚平・三岡八郎や村田氏寿と言った藩士に対して
謹慎の処置を取った時期もあった(ただし、福岡や土佐であったような流血の惨事にはならず
彼らも時勢に応じて公務に復帰させている)
もっと評価されていい人物だと思う。
福井城・内堀公園
横井小楠と三岡八郎の像
福井の話、もう2,3回続きます・・・
龍馬関連の書物で出てくる人物ばかりですが、福井藩がどのような藩であったか初めて知りました。素晴らしい藩主だったんですね。
龍馬はここで影響を受けていたのかもしれませんが、龍馬が理想に
描いていた政策に等しいですね。
全領民への種痘の実施、倒幕に傾いていた藩士の公務復帰等々この
時期にあって驚きますね。
龍馬を知る上でも福井藩側からの勉強も必要ですね。読みやすい本
からのご紹介をよろしくです(笑)。
続編楽しみにしております。