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エノカマの旅の途中

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大阪開港150年~天保山の幕末維新

過去記事→こちら

天保山の歴史についてはこちらも詳しい。
(以下は2017年の大阪歴史博物館「安治川と天保山」パンフレット参照)
江戸時代に河村瑞賢の手により安治川が開削され流路が開かれて(1684年)安治川口と呼ばれた付近には港が開かれた。
しかしこのような地形では、河川上流からの土砂の堆積がどうしても進んでしまい、水深が浅くなってしまい入船に支障をきたし、洪水の原因ともなってしまうので定期的に川底の浚渫が必要となってくる。
天保年間にも大規模な「御救大浚」と呼ばれる浚渫(二年・1861)が行われたが、大坂の町衆や株仲間の単位に大勢の人びとが揃いの衣装に鉦太鼓を打ち鳴らしてのお祭り騒ぎでもあったという。
その作業は小舟に乗り、鋤簾と言う道具を使って川底の土砂をすくい上げると言うシンプルなものであった。
その時に取られた土砂が積み重ねられて、翌天保三年には標高20m・周囲200mの山ができ、周辺2kmの埋め立て地ができた。
この山は海から安治川への目印ともなったので「目印山」と呼ばれ、のちに天保山と呼ばれるようになった。
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山には眺望を楽しむために茶屋等も作られ一大行楽地ともなったが、嘉永七年(1854)天保山沖へのプチャーチンのロシア船侵入もあって、元治元年(1864)に台場の建設が始まり(慶応二年・1866に完成)天保山の土砂も削られ標高もどんどん低くなってしまった。




ちなみにこんな人たちも
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前からあったのかな、全然気付かなかったけど。
有名な新婚旅行の旅立ちの時なので(小松さんや西郷さんや慎太郎らも同船→こちら)薩摩船もこちらから出ていたってことです。
また鳥羽伏見の戦いで敗色の濃くなった前将軍・慶喜が開陽に乗って江戸に向かったのも天保山であります。


慶応四年となって鳥羽伏見の戦いで決した後に天皇の下、明治新政府の中心人物となった大久保利通は長年の京都での旧弊を打破し「御維新」を印象づけるために「大坂遷都」を進めようと主張する。
しかしながら異論も多く結果的には実現しなかったが、天皇が大坂(京都から出る)へと赴くことで民衆に(見せることで)近い存在にしたいという目的を以て「行幸」が実現する。
その天皇の大坂滞在時に天保山では「観艦式」が行われて、西国諸藩の艦船が集結した。
この大きな碑はその出来事を記したものである。
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ちなみに東京遷都とはっきりしたものはなく、あくまで明治天皇の「東京行幸」であり、その後は京都に戻らなかったと言うことである。
だから「遷都などまだしていない。日本の首都は京都」と言えないこともないわけで、そう主張することもあるわけであります。


一方で当時「大阪開港」として開かれた川口の居留地や港だったが、海から6キロほど入った河川港で水深の浅さや川幅の不足もあって大型船の運航には不向きであり、船舶は満潮を狙って入港するか、天保山沖に投錨して艀を出すと言った手間がかかり、外国船はそういった心配のない天然の良港・神戸へと流れて、大阪に入港する船は激減してしまう。
そこで新たにこの安治川口に「築港」されることとなり、その工事に大きく貢献したのが大久保利通とのつながりで政府役職を歴任した旧彦根藩士でもあった西村捨三であり、その銅像が天王山に作られている。
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天保山は第二次大戦後に地盤沈下等もあり、現在の標高4mほどになってしまっているが三角点もしっかりとある。
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ほど近くには大阪でも数の少なくなった渡船がある
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by enokama | 2018-01-20 22:27 | 大坂発見 | Comments(0)