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エノカマの旅の途中

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宇和島候・伊達宗城の番組

Eテレの「知恵泉」と言う番組で宇和島の伊達宗城のことをやっていた。
知ってそうで実は知らなかったことも多かったのでまとめてみます。
この方も旗本の出で幕末の賢候に多い養子なんですね。高野長英や渡辺崋山の影響もこのころからで、海外情勢や科学技術への関心も元来からあったようです。
宇和島にはロシアやイタリア史、化学技術、航海術軍事と言った専門書が多数残されています。




三つ大きなテーマがあって、宗城は十万石の小藩ながらも大藩の揉め事の対処に回ったことが有名で
土佐の藩主が急逝し後嗣を立ててなかったため大変だった時も、取り潰しを恐れて「死を秘す」ところを「土佐一国の守りをきちんと固めないと困る」と正直に幕府に語ってとりなしています。
肥前佐賀藩と筑前福岡藩は江戸時代、代々長崎警備を担当してきた。
佐賀はよく知られているように海外への危機意識も強くって、長崎湾外の小島に砲台を作ろうとした。
ところが福岡が乗り気ではない。なんとかまとめて幕府に申し出た所、財政を持ち出されて却下。
佐賀では「元々乗り気ではなかった福岡が裏から手を回して潰した」と言う。
そこで宗城が調停に乗り出し「佐賀領の小島を守るために費用と人員を出すことなのか」と言った家臣らの批判を黒田公が抑えて決断したものだとして、佐賀藩を説得。
幕府の阿部正弘にも、現在の長崎防衛が湾外からも海外艦船からの射程に入っているとして説得し実現させた。
その礼に黒田公からマッチをもらい、それを作ろうともしたとか。
このあたりは宗城の情報収集能力の高さに裏づけられたものであります。

二つ目は蒸気船の建造。これは司馬遼太郎の原作でも有名だけど、城下の細工師・嘉蔵を呼び、その作った模型のすばらしさに「感動」し「民間人でも可能性があれば用いる」として、長崎へ送ってその責任者としています。
しかし一回目は失敗するも不問とし、先に蒸気船建造に成功した薩摩に再度送って成功しています。
薩摩はオランダ人の顧問を招いてのものでもあるので、国力も違った小藩での成功はすごいものがあります。

三つ目は英国公使パークスが地方の藩と独自に誼を結ぼうと訪問の受け入れを求めるも、多くの藩では「攘夷派」への警戒でしり込みする。
宇和島は近代化のチャンスとして手を上げる。
英国船が入り、会談の三日前に宗城は船ごとさらわれる危険性を顧みず自ら艦船に訪問。
ここで質問攻めにし、会談後の晩餐では情報収集により「洋食より和食」を求めるとして提供。家族総出で歓迎し、英国人は感動して帰っています。
のちに新政府発足当初から宗城は外国事務総督となっていて、神戸事件や堺事件では伊藤や五代の活躍ってイメージですが、パークスやサトウの信用も高かった宗城の役割ってのも高かったのだろうと思います。
そしていろんな人物からの信用を得て、情報をさらに集めることができたことで幕末維新において重要な人物となっていったのですね。

by enokama | 2017-07-24 09:04 | 歴史全般 | Comments(0)