千本九条のあたりは「四ッ塚」と呼ばれ、今も地名が残っている。
その昔、狐塚・杉塚・経田塚・琵琶塚の四つの塚があったことから由来する。
この古来から羅城門の位置したように「洛中への入口」となっていた要衝に
「王政復古政変」後に徳川慶喜ら旧幕府側陣営が大坂へと移り、京都は薩長土芸と言った諸藩が警衛していた中で
薩摩軍は東寺に伊地知正治を隊長とする陣営を置き、この四ッ塚に関門を置いていた。
有名な五重塔には鳥羽伏見の戦いの戦況を見つめる西郷隆盛が上ったとの話も伝わっている
千本九条付近から東寺の五重塔
慶応四年一月。尾越土と言った諸侯の奔走もあって新政府の議定就任が確実となっていた徳川慶喜は滞在した大坂から朝廷に「軽装上洛」を求められていたが、前年暮れの江戸での「薩摩藩邸焼き討ち事件」もあって周辺は「主戦論」が強まり
「君側の奸を除く」として、滝川具挙の率いる先発隊が京都へ向け進軍する。
京都に近づく鳥羽街道には薩摩兵が取りつき、一月三日に滝川は四ッ塚関門に入洛を求める使者を送るも薩摩側はこれを拒む。
付近の狐塚墓地と呼ばれる場所に「都城六勇士」の墓がある
碑文(→訳文)六勇士はこの戦いが始まる前に自刃したものである(→こちら)このような事件があったとは知りませんでした。