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エノカマの旅の途中

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樺太千島交換条約と榎本武揚

先日、BSでやっていた番組の感想を書きました。
まあロシアとの外交史は松平定信あたりまでさかのぼる必要はあるだろうし、日清~日露の戦争にも関わってくることなので、なかなか簡単には言えないんですけどね。




明治になってロシアとの国境は、幕末に結んだ日露和親条約(→こちらこちら)で樺太(サハリン)は日露の雑居地であり、千島列島は択捉島とウルップ島の間が境界となっていた。
この樺太の国境がないことを口実にロシアは軍を南部に進め、日本にも近い地に軍事基地(日本でその絵図が残っているのはびっくり)を置いたことで緊張が高まり、日本は国境確定を迫られることとなる。
日本の方針は樺太放棄(雑居を廃し国境を定める)の上で千島列島全島を求めることで、このロシアとの交渉には旧幕臣で国際通でもあった榎本武揚が特命全権公使となって取り組むこととなる。

榎本武揚はかつて幕府の留学生としてオランダに赴き、欧州で起こった戦争でも観戦武官として各国の行動を見聞し、それはただ単に武力で制圧することではなく、力の底にそれを支える法の論理があることを知り、航海術・砲術・化学と言った技術の他に重要な国際法を学ぶ。
これが後々の生涯に大きな影響を及ぼすこととなる。
しかし帰国した慶応三年は幕府瓦解の年であり、短期間で世界でも屈指の実力を持つようになった幕府海軍を中心となって率いるも幕府は滅亡となる。
榎本の海軍は旧幕臣らとともに箱館で新天地を求めて脱走、北海道で新政権を樹立する。
ここで国際法に則り、この政権を新政府に対する交戦団体とすることで外国からの中立の立場を得て、国際的にも認められるように働きかけるが、イギリスは新政府に肩入れしており難しかった。
そこで「臨検」と言う港に入る外国船の積荷を検査する権利(密貿易を防ぐため)をイギリス・フランスの一部に認めさせることで(臨検を行うことで)交戦団体として認められる権利を得ようとした。

箱館で敗れ、収監されるも当時に残された書状に残る「君恩」と「国為」の併記された文字から、徳川家への恩は返せないが残る「国家」に尽くすことで、国の為人の為に学んできたことを尽くす決意を持つ。
それは欧州で覚えた「日本では切腹するが、降伏して命を全うする」負け方も知っていたのだ。

交渉でロシア側は樺太全土の領有を主張。これは太平洋側へ抜ける不凍港の獲得と南下政策の一環である。
当然、代償が求められるが提示したのはウルップ島と周辺の小島だけであり(これはかつての幕府の交渉でも出た話で日本側が拒絶した経緯もあった)これは榎本の想定していたものであった。
そこで当初の方針通りに千島列島全部を求めたが、ロシアはイギリスと係争中であり、日本はイギリスの影響下にあると見て、こちらも軍事基地が置かれると見て拒否する。
ここでウルップ島周辺だけにするのなら、それに見合う軍艦を譲れとの条件を榎本は求める。
そこでロシアはカムチャッカ半島寄りの数島以外を渡すことを提示。これは全島を渡すと太平洋の入口へと抜ける自国の領海が無くなるので、航路を確保しておきたいとの軍の主張に沿うものであった。
あくまで榎本は全島にこだわるが、このころ国際的に榎本の知名度は箱館での出来事で世界中で知れ渡っており、また旧幕臣と言う経歴はかつての幕府との外交交渉に当たったプチャーチンやポシェットと言った親日派(→その1その2その3)また彼の人柄も相まって、ロシア皇帝からの個人的な信頼を得て情報を手に入れやすくなっていた。
ここでとうとうロシアは西方での問題が深刻化し、東方での日本との交渉を早くまとめて、さらなる敵国を増やしたくないとし(このあたりの情報も榎本は得ていた)
外相から海軍へと確認を行い、千島列島全島と樺太との交換条約が結ばれることとなった。
このことは諸外国に求められてと言った従来の対外条約から、日本から積極的に働きかけた「主導外交」で実現したことで、その手腕を発揮した榎本はまさに「国際人」としての仕事を十分果たし、評価されるものである。
ただ外交交渉の成果の半分は国内世論への説得となるが「交換」と言う言葉を使って対等な交渉を行ったとして、日本は国内の不満を抑え込んだ(ただ新たな領土を獲得し増えたわけでもないので「弱腰」と批判した者も多数いた)
その後は樺太がロシアになったことにより、アイヌが蝦夷地(北海道)へ移住することとなるが、今までの地域では罹らなかった免疫のない病気になり命を落とすものも多かった面にも目を向けないといけない(→こちら

僕の思いはこちらのとおりですが、この記事を書いたときから何にも変わっていないんですよね。
まあ現代の日本人自体が「領土問題」には鈍感になってるんでしょう。
杓子定規な「一票の格差」で地方の国会議員は減らされる一方だし、主張しても票につながらない事柄なのかもしれない。
去年は安倍首相がプーチンと会談して進展なかった時は、政権批判したくってたまらない(批判のためにだけ)メディアは叩きまくってたけど
どうやって解決して、これからどうすればいいのかと言った意見なぞ一っつも見られなかったものであります。
また一方的に「戦前回帰」やら明治維新批判にひっくるめて、今の政権を批判することがはやってるようですが、このように一つ一つの事柄に関しても幕末維新時の人物たちがどのように思い行動したのか、丁寧に認識を深めたら一方的に批判するようなことには決してならないと思います。

第二次大戦で日本は降伏するのが一年遅れたと自分自身では思っています。
そしたら日本の主要都市のほとんどがさらされた空爆の被害もなかったし、昔の街並みも風情もいい慣習も残っていたでしょう。
その時の指導者たちは「全員突撃して滅ぶまで戦う」ってことであったとしか思えないです。
このことは大正~明治初期と代が変わることによって、また今も大学教授の主張ってのがもてはやされるものですが、当時の「軍国主義」の主張ってのはその「偉い先生」たちが主導した面もあったことを忘れてはならないし、明治維新の当初と直結して批判するようなことは乱暴すぎるのではないかと思っております。

by enokama | 2017-05-15 08:59 | 歴史全般 | Comments(0)