エノカマの旅の途中

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戸田で建造された洋式帆船ヘダ号

造船の場所は牛ヶ洞(地図・紫印)となった。
廻船業で栄えていた戸田には多くの船大工がいたことも、この地が選ばれた理由であった。
もちろん洋式の船は初めてで戸惑う面も多かったそうだが、ロシア人もその仕事ぶりを高く評価し
異例とも思えるスピードの二か月半ほどで全長24.6m、100トン弱の洋式帆船が完成し、安政二年(1855)三月に進水式が行われた。
プチャーチンは建造に携わった人々に感謝して「ヘダ号」と名付け、二十二日になって乗組員47名と共にペテルブルグに向かって出帆した。
残る乗組員はアメリカとドイツの商船を雇って、ロシアへと向かった。

大正十二年になって、この地に「造船記念碑」が建てられた。
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当初の建造指揮を取った江川英龍は残念ながら、多忙な対応が続いた中で病に倒れ、完成を見ずして亡くなってしまう。
幕府は英龍の子・英敏に命じて、引き続きヘダ号に倣って六隻の帆船が作られた。それらは郡の名を取って「君沢型」と呼ばれ、全国に広まった。
明治には豪商・松城氏によって、戸田にも近代的な造船所が作られることとなる。
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建造に携わった人たち
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(主な名前)
幕府方御用掛 (勘定奉行)水野忠徳 川路聖謨 (目付)岩瀬忠震 (代官)江川英龍
戸田村方御用掛 松城兵作 勝呂弥三兵衛
造船世話掛 上田寅吉 鈴木七助
 
上田と鈴木は名字帯刀を許され、長崎海軍伝習所に入る。
こちらで一緒だった榎本武揚や江川英龍の家臣・肥田浜五郎とともに上田は欧州に留学し、箱館戦争まで共にしている。
彼ら戸田で携わった技術者たちは各地で造船技術を伝え、明治の近代化にも大きく貢献した。

岬寄りの富士見海岸通からの富士山
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津波への備え
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日露友好記念碑
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岬の先端にある「漁業の守り神」諸口神社
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by enokama | 2017-05-07 17:55 | 歴史連載 | Comments(0)