伊豆地域の実力者であった江川家は戦国武将・北条早雲の伊豆進出の際に二十三代英住が臣下となって、屋敷の背後にある平山を提供し(韮山城築城)領地を安堵され以後、五代にわたって北条氏の家臣となった。豊臣秀吉の小田原征伐の際には韮山に籠城する二十七代英吉と徳川家康に仕えた二十八代英長が対立する形となったが、英長がうまく和議を進めて父子ともに徳川家に仕えることとなり、徳川幕府の成立に伴い伊豆が幕府の天領となる際に江川家は世襲代官となって、この地を引き続き治めることとなる。管轄地は幕末のころには伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐と広範囲に及び、石高は六~七万石に及んだ。
主屋は1600年ごろに建てられたとされるが、部材に関しては室町時代にさかのぼるものも使われていて歴史を感じるものである。
現在は写真のように銅板葺きとなっているが、かつては茅葺きだった。
広大な土間は高さもあって、迫力のある梁や柱で残されている。
書院の塾の間では机が並べられて幕末の開明家で知られる三十六代当主・江川英龍(担庵)が開いた砲術を中心とした塾である「韮山塾」の往時が再現してある。
三間余四方十八畳の部屋で塾生の宿所でもあった。
弟子は佐久間象山、川路聖謨を始めに薩摩や長州と言った諸藩からも大山巌・黒田清隆と言った人物がいて、江戸と韮山を行き来する英龍は江戸でも講義を行ったが、韮山では実際に韮山城跡の土塁や屋敷の周辺地で大砲を使った実地訓練が行われた。
展示品には自作の短刀・煙管・絵画と言った物もあって英龍の多才ぶりがうかがわれる。
英龍に関してはここでは書ききれないぐらいのエピソードがありますが、
品川台場やヘダ号の建造も大きな功績と言えます。
その韮山代官としての治世では農兵制や種痘の実施が特筆される事柄で、領民に慕われた善政を敷きました。
周辺は掘割がある
パン祖の碑英龍はパン(乾パン)を兵糧として考え、長崎で作られていた備荒食料として密封して貯蔵し、たまに天日干しすれば保存が効くとされたものに着目し、自邸にパン窯を作って製パンに取り組んだ。軍艦が遭難し、帰国する便を失い伊豆戸田での滞在を余儀なくされたロシア兵にも送られている。この経緯でパンを世に広めたとして昭和28年に全国パン協会が英龍を「パン祖」として顕彰し、この碑は建てられた。碑文は徳富蘇峰による。
こういった蔵もあるこんな収蔵品もぞろぞろとある韮山笠も見えるが、これも英龍考案͡のコヨリを編んで漆塗りした笠である。農兵たちの調練にも使われ、折りたためて携帯に便利で水にも強いものである。