エノカマの旅の途中

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尾張藩吉田邸と土佐藩白川邸

今の京都大学吉田キャンパス(赤印)は幕末に尾張藩邸であって、その北部キャンパス(農学部など・青印)は土佐藩邸(陸援隊屯所)となっていたのは何度か触れております。
(白川邸と陸援隊→こちらこちら。住吉陣屋→こちら

今回は京都大学総合博物館の特別展「文化財発掘Ⅲ~激動の幕末と京大キャンパス」の展示と講演に行ってきました。
土佐藩白川邸は重なる部分が多いので(引用は主に「保古飛呂比」と「陸援隊始末記」)過去記事に追記しましたので、今回は尾張藩吉田邸を中心に聞いてきたことをまとめたいと思います。






この地にあった尾張藩邸については自分でも調べないといけないなと思いつつできてなかったので
今回の講演は本当に楽しみにしておりました。
今回の研究員さんの紹介された史料を見てみると、まず蓬左文庫に行かれて調査されたようで「尾崎忠征日記」(尾張藩在京役)を中心に話をされました。
明治百年の時に復刻されたものもあったと思うし、なかなか面白そうな内容なので個人的にいつかは読んでみたいです。
蓬左文庫に「吉田御屋敷惣図」と呼ばれる史料があり、いくつもの大勢の兵が収容できそうな長屋があって、33333坪と広大な土地に「弓鉄砲兵法稽古場」(吉田御屋敷之図)と呼ばれる練兵場と本格的な施設だったことがうかがい知れる。ちなみに表玄関は現在の時計台のあたりで中心であった。
また「白川道」と言う古くからの道が邸内を縦断するようにあったが、その通りを途切れさせた形で藩邸が建てられていた。

まずこの地に藩邸を設ける話が持ち上がったのは文久三年(1863)のことで、文久の改革で春嶽と慶喜の幕政参画から将軍上洛を以て「攘夷」の問題について話し合われる頃、元藩主の徳川慶勝もこの正月に上洛を果たしている。
数年前まで藩主が京都に入ることなどありえない話だったので、公武合体で朝廷の下で諸侯の上洛も求め「話し合い」と言う流れがこのころから始まるが、やはり藩主が入り、一定のお付きの者や兵力も伴うとなると従来の藩邸の能力を超えて手狭となってきます。
越前藩も橋本左内のころの二条城近くから、慶応期は新たにできた岡崎邸に春嶽は専ら入っているし、薩摩藩も現在の同志社の場所にできた二本松屋敷は有名だし
幕末の地図を見ると鴨東の京大薬学部の場所には会津藩の広大な屋敷地が見え、芸州・加賀・阿波の雄藩も大きな敷地を有している。
尾張藩でも藩邸の狭さが指摘され、程なく吉田の土地を求めて、翌年の禁門の変で(四条烏丸北西)天神山町にあった従来の藩邸が罹災したことでメインの藩邸として吉田邸が整備されることとなり、慶応二年十二月に完成形とされる。邸内には熱田神宮も勧請された。
なお、土佐藩白川邸に浪人が入ってる様子は尾崎の日記にも記されています。

発掘調査では水路跡だったり、常滑の瓦(江戸藩邸にも同じ刻印の瓦が見つかっている)、瀬戸焼の茶碗等が見つかっています。
藩邸としては明治四年に上地され、引き払われた記録があります。
他の発掘現場では太田垣蓮月の屋敷跡とされる場所には「蓮月焼」の失敗作として、廃棄されたものと考えられる焼物が多数発見されています。
阿波藩邸跡からは鬼瓦だったり、地鎮に使われたと考えられる土師器が発見されて、展示されてました。

なかなか僕にとってはツボなテーマだったし、尾張藩の動きが一つ知ることができたのでよかったです。

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by enokama | 2017-04-10 10:40 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)