エノカマの旅の途中

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沼津藩と沼津兵学校

こちらも昨年3月に訪れた場所なんだけど、SNSでお勧めいただいたのが沼津でありました。
三島から沼津方面への旧東海道沿いのバスが多数あった(昔は路面電車が走っていたらしい)のでそちらで移動。
人口10万の三島に対して、20万の沼津はかなり大きな印象を持ちました。なんで新幹線が止まらなかったんだろう。
日枝神社近くでバスを降り、天城峠や修善寺の方から流れてくる狩野川(沼津が河口になる)を渡って、古刹の霊山寺に向かいます。。。
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霊山寺は奈良時代の創建と伝わる
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幕末に伊庭八郎が中心となって旧幕府脱走兵らで結成された遊撃隊約300名が沼津藩水野家の配慮もあって慶応四年五月に滞陣した場所である。
下総請西藩の藩主・林忠崇が自ら脱藩して合流したのも知られた話で、小田原藩や韮山天領、東海道の譜代藩も糾合して新政府軍に対抗しようとして、この地に赴いたものであった。(このことを案内する説明版はない)
しかし頼みの小田原藩の藩論が揺れて、新政府軍側に恭順。箱根で小田原兵を含む新政府軍と遊撃隊が衝突することとなり、伊庭八郎は左手首を切断する重傷を負ってしまう。

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梵鐘
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1364年(貞治3年)の銘が入って、県下では引佐郡細江町の長楽寺、興津の清見寺、韮山の本立寺に次ぐ四番目の古さと言う。


沼津の中心部に入るが、明治以降の二度の大火と第二次大戦の空襲もあって、城下町を偲ぶものは全く残っていない
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沼津城本丸跡は公園になっている
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城岡神社には明治になって、静岡藩が設置した「沼津兵学校」の石碑が立っている(明治27年4月)
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沼津市明治史料館は維新後、静岡藩七十万国の大名となった徳川家が沼津に開いた「沼津兵学校」の史料を主に展示されている史料館である。
沼津駅からバスでしか行きようがないんだけど、本数が思ったより少なくってちょっと大変でした。
この地は旧幕臣で地域の発展や学校の設立などに尽くした江原素六の屋敷跡で墓所も近くにあるところであります。
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沼津兵学校は沼津城の跡に設けられ、教授陣は初代頭取・西周を始めに徳川幕府で海軍や外交に一線で活躍した赤松則良、田辺太一(甥にあたる田辺朔郎もこの兵学校で学んだ)に矢田堀鴻、江原と言った実力者があたった。
また旧幕臣以外にも留学生を受け入れ、福井藩からはまとまった入学が見られる。適塾や華岡流の合水堂、佐倉の順天堂どこに行っても福井は入門者が大勢いて感心したものだけど、維新後になってもその教育熱心な姿勢が見られたのはさすがだなと思った。
一方で薩摩藩は逆に講師の派遣を求め(「お貸人」と言う)、のちに沼津兵学校を模範にした学校制度を作り上げている。こちらも幕末から「福井は生徒を各地に留学させる。薩摩は反対に講師を呼んで地元で学ばせる」と言った特徴が出ていて、なんとなくうれしくなってしまいました・・・

前述のとおり、沼津は町がすっかり変わって昔のものはないのだけど、兵学校の門柱はこちらに残されております。
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この学校は残念ながら廃藩となった後、三年半ほどで廃校となってしまう。
当然このころには東京にも有力な教育機関ができ、赤松や西周ら実力者たちはそちらへ流れ、生徒も大阪の兵学寮などに移る者がいく。
この兵学校の生徒も含めた出身者は陸海軍や政財界、実業家、教育者と幅広く明治国家の近代化に貢献した。
また静岡に残り、地域に貢献した旧幕臣も少なくない。

こちらは展示も充実しているし、幕末の幕府関連のレアな蔵書もたくさんあって、もっとゆっくり滞在したい施設でありました。

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by enokama | 2017-03-06 23:44 | 歴史連載 | Comments(0)